迂闊だった。はっと気づいた時には、視界は斜めに傾いていた。ずきっとした痛みが足首に走った時、あーやっちゃったなーなんて。周りが心配そうに覗きこむのをよそに、唇は「大丈夫」という常套句を作り上げる。大丈夫、全然痛くない。
 とか思ったあの瞬間の自分をはっ倒してやりたい。体育の時間にちょーっと捻っただけだからと軽く思っていたら大間違い、めちゃくちゃ痛い。足を前に出すことすらままならなくて、引きずったように歩く。こんなことになるなら、肩を貸してくれると笑った友人に甘えればよかった。
 窓ガラスを曇らせてしまいそうな勢いで溜息を吐く。すべて自業自得なため、誰かにあたるわけにも行かないけれど。
 保健室まであと数十メートル。長い、長いですよ、先生。
「なにしてんの」
 未だに見えない目的地に挫けそうになった時、背後から聞き慣れた声がした。振り返らなくたって誰が立っているのかわかる。だって毎日のように聞いているのだ。可愛くない私を好きだといったり、恥ずかしげもなく私に愛してると囁いたりする彼氏さんの声だもの。
「聞こえてるっしょ。ねー、何してんの」
「…歩いてる」
 ぶっきらぼうに彼、黄瀬涼太に答えると、彼はさもおかしげにくくくっと笑い声を上げた。それ歩いてるって言うんスか。ぐぬぬ、図星である。
 確かに今の私の移動方法を見て歩いていると答えるものがいるなら、その人の目はおかしい。すぐにでも眼科を受診するべきだろう。実際に移動している本人ですら、歩いているという自覚は皆無なのだ。踏ん張るたびに激痛が走るというのに、足を前に進めることはできるのか。否、できない。
「何したの」
「ちょっと、」
「ちょっと?」
「…ひねった」
 いつの間にか隣にやってきた190センチには満たないが、ほぼ190センチの大男。そんな彼が腰を曲げて私の顔を覗き込む。相変わらず整った顔立ちだ。その高い高いお鼻をへし折ってやりましょうか。
 じとっとした視線を送りながら「何?」とだけ問えば、にこーっと笑った彼は私の腕を持ち上げて、おぶってやろうか? と。いやいや、おぶってやろうか? じゃないから。
「いいよ、へーき」
 歩けるし。それに私重いし。
 ぴょっこぴょっこと捻った足を引きずりながら、再度目的地を目指す。この男におぶられるくらいなら、自力で歩いたほうがマシだ。色んな意味で。幅ひろーい意味で。
 断られるとは思っていなかったらしい彼は、一瞬だけ不機嫌そうな声を漏らす。ったく。呆れ返ったような声に、馬鹿みたいに肩が反応した。
「アンタさあ、もうちょーっと素直だったら可愛いのに」
「っさい」
「でも…、オレはそういう素直じゃない名前ちゃんも好きでちゅよ」
 よいしょっと。耳元を掠めた言葉で彼がどこかしらに力を込めたのがわかった。と同時に、私の膝裏に彼の腕が回った。なんだなんだと焦っている間に、体は謎の浮遊感に襲われる。視線はいつもより高い位置にある。すぐ側には、あの整った顔と無駄にさらさらで恨めしい黄色の髪の毛。首に手を回さなきゃ危ねえっスよ、って。ぷらぷらと揺れる自分の足先とこんにちはした途端に自分の置かれている状況を理解してしまった。
「おっ、おろして!」
「あーもー、暴れんなっての」
「やだ、なんで、歩ける」
「歩けてなかったじゃんか!」
 頭上から舌打ちが聞こえる。あ、やばい。機嫌を損ねてしまったようだ。見るからに腫れてるのに無理してんじゃないとか、こういう時こそ彼氏を頼れとか。降り注いでくるお説教を聞きたくなくて耳をふさげば、だから腕回せって言ってんだろ! と怒られてしまった。
 人生初めてのお姫様抱っこで苦い思いをすることになるなんて、最悪だ。盗み見た彼の顔はどこか辛そうだし。こんなことなら口だけじゃなくて、日頃からダイエットしてたらよかった。
「重いでしょ」
 俯いたまま零した声に、彼の体がぴくりと反応した。あー…、なんて声を漏らしたかと思えば
「すっげー重くて腕千切れそう」
 と。さすがの私でも恥ずかしさと申し訳無さで泣きそうになる。ごめんね重くて、下ろしてもいいから、肩貸して貰えたら大丈夫だから。ぽつりぽつりと呟かれる私の言葉に、彼は盛大な溜息を吐く。その空気には面倒くせえという言葉が包み隠されず、オブラートにもくるまれず潜んでいた。
「面倒くさい女だって知ってたけど、アンタ、ほんっと面倒くさい」
「ごめん」
「オレ別に謝って欲しくて運んでんじゃないし、彼女が困ってたら助けたいって思うの変? あとデブなのは自分の所為だってわかってんなら痩せりゃあいいじゃん。まあオレは名前がどんだけ太っても担いであげなくもないけど」
 またごめんと言いそうになった口を慌てて塞ぐ。きっと彼が望んでいる言葉はこれではない。ちょっと薄い胸板にかあっと熱を持った頬を隠すように寄り添う。
「ありがとう」
 彼に聞こえたかどうかは定かではないが、彼の体越しにくすくすと笑う声と「どーも」という声が聞こえたので、たぶん聞こえたのだろう。また恥ずかしさがまして彼の胸元にもっと顔を埋めた。刹那、肺いっぱいに広がる彼の香りにほっとしたのは内緒だ。


きっと世界にふたりきり/130310
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