帰ってくる家がある。当たり前なことなのに、その当たり前に酷く感謝する日々が続いている。
 開いた扉の向こう側から暖かい空気が漏れてくる。鼻腔を擽る美味しそうな匂い達。「おかえり」が聞こえる安心感。ふたりになってから実感した些細な幸せ。守るものが出来たと再確認する空間。
「おかえりなさい」
 晩御飯の準備をしていたらしい彼女は、エプロンを脱ぐのもそこそこに玄関へとやって来る。
「…の続きは?」
「続き?」
「ほら、アレ。ご飯にする? お風呂にする? それとも」
「馬鹿なこと言ってないで、ご飯にするから手洗いうがい後に食卓に座っててください」
 冗談じゃないんだけど。
 そんなこと思ったって彼女には伝わらない。ぱたぱたとルームシューズを鳴らして、彼女はキッチンへと戻っていく。台所。新婚生活が始まって数ヶ月。すでにあそこは彼女のテリトリーになっている。
 言われた通りの行動を取るために部屋に荷物を置いて、洗面台で手を洗った後にガラガラとうがいをする。出来るだけ念入りに。いつ彼女とキスするか分からないから、なんて言ったら彼女はどんな風な反応をしてくれるだろうか。

「おっ、今日はビーフストロガノフじゃん。…ってことは」
「残念、オニオングラタンスープじゃありませーん」
 かたっと音を立てて置かれたのは、紛れもないかぼちゃのポタージュスープ。今日も今日とて、色とりどりのおかずが食卓を演出している。その全てが見た目から美味しそうなものばかり。
 彼女は結婚を機に仕事を辞め、家庭に入ることを選択した。どちらでも良いと選択肢を提示したのはこちらだったが、まさかそっちを選択するとは夢にも思っていなかった。なんてったって自分と出会う前の彼女は、仕事一番の人間だったから。
『涼太が帰ってきた時に必ず「おかえり」を言いたいの』『そういうのって結婚の醍醐味じゃない?』
 にへらっと笑った彼女が肩をすくめたあの瞬間。胸をくすぐった感情はきっと幸せってやつだ。少ないボキャブラリーの頭で考えているから、こういう簡単な言葉でしか表せれないけれど。あの胸をくすぐってから、喉元を駆け上がり、頬を火照らせるあの感情に幸せという単語以外が当てはまるとはどうにも思えなかった。
 結婚の醍醐味…と言えば、左手に光る指輪だってその一つなんじゃなかろうかと考える。神の御前で愛を誓い、その証に指輪を交換して、口吻をつける。一生貴方を愛します、と。ウェディングベールの下から顔を見せたピンク色の唇。それが口端を上げて「幸せ」と紡いだあの日をオレは一生忘れないし、忘れられないだろう。
 電源が入ったままのテレビが煌々と光っている。恥ずかしながら液晶画面の中には、テレビ用の笑みを浮かべた己がいた。あー、この前の収録のやつか。
「あ、涼太だ」
 スープを一口だけ啜った彼女も液晶画面へと視線を寄越す。テレビの光でキラキラと輝く彼女の瞳は、いつ見ても綺麗で。こんな直ぐ側で見れるのは自分だけなんだと思うと、行き場を失っていた独占欲がどろりと満たされる気がした。
「んー」
 今度はスプーンを咥えたまま唸る。突き出た唇は意図せずともアヒル口っぽくって、誘われているのか、なんて馬鹿げたことを考えてしまう。眉根を寄せていても可愛いとは。これが惚れた弱みってやつか。
「最近涼太、この女優さんとよく絡んでるよね」
 むすっとしたまま彼女は言葉を続ける。この女優さんとは、恐らく最近事務所に入ってきた子のことだろう。小柄で可愛らしい印象を受ける反面、言葉は辛辣だというギャップが受けているらしい。
 そんな印象をそのまま彼女に伝えていると、彼女の眉間の皺はさらに深くなった。
「涼太はこの子のことよく見てるんだね」
 なるほど、嫉妬か。普段はそんなこと言わないくせに、こういう時ばかり可愛らしいこと言ってくれて。にやけそうになる口元を隠すために覆った左手の一部がキンと冷えていて、それがまた口元を緩ませた。
「テレビ出る時は指輪ないし、涼太と結婚したって感じしないし」
 効果音をつけるなら、ぷりっ。怒ってますと言わんばかりの態度だが、そんな姿も愛おしさを加速させるだけ。
「チェーンに通して首から下げてるよ」
「指輪だよ? 指にしてなんぼだから」
 スプーンを置いた彼女は、自分の左手で輝く指輪を蛍光灯に照らしながら、ぶつぶつと文句を垂れる。涼太は芸能人だってわかってるけど。でもいざ目にすると寂しい。って、どうしたの。今日はお酒でも入ってるの。
「酔ってる?」
「酔ってない」
 お冠な彼女は乱暴にお茶を飲み干す。ほらほら、そういう風に乱暴に飲んじゃうから、口の端からお茶垂れてるし。ちょっと、エロい。
 ふしだらな思考回路がバレてしまったのか、彼女にキッと睨まれてしまった。ごめんよ、えっちな旦那様で。
「オレが指輪してないと、寂しい?」
「…別に」
「嘘つきー」
 未だに指輪をくるくると弄る彼女の手をさらう。指輪を贈ったあの日からずっと磨かれているそれは、今でも新品だと主張するかのようにキラキラと輝いている。そこにそっと唇を押さえつければ、さらったはずの彼女の手がくっと引かれてしまった。
「なにすんの、変態!」
「指輪にキスするのは変態で、別の場所にキス」「あーあーあー!」
 ぷっくりと膨れた頬は赤らんでいる。可愛い、可愛い可愛い。駆け上がってくる感情を飲み込むように喉を鳴らす。今はまだ早い。抑えろオレ、堪えろ理性。
「マネージャーに相談するよ」
「いいよ、難しいの知ってるし」
「お前がそういう顔してるほうが嫌なの」
 ずっと寄せられていた眉間の皺をつんと弾く。恐らく納得していないのだろう。消化不良な表情のまま、彼女が複雑そうに「わがままな奥さんみたいじゃん」と呟く。ああもう、可愛いったらありゃしない。
「オレはね、可愛い奥さんのためならどんな我侭でも聞いてあげたい奥さん大好きな旦那馬鹿なの」
「はあ?」
「だーかーらー…、まあいいわ」
 難しく考えたってしょうがない。そういった意味も込めて言ったのに、彼女はやはり不満気に唇を尖らせた。
「面倒くさい奥さんでごめんなさいねーだ」
「そんなこと言ってないっしょ。ただオレは奥さん大好きーって事が言いたかったの」
 わかる?
 ビーフストロガノフを口に入れながら、彼女をちらりと盗み見る。するとどうだ。尖っていた唇はほどかれて、酸素を求める金魚のようにぱくぱくと開閉する。
「ばっ、ばかじゃないの!」
 だから言ったじゃん。オレは旦那馬鹿だから、奥さん大好き野郎なんだって。

愛人」様提出/130203 莉乃
title:誰そ彼
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