今日は最悪な日だと思ってた。だいたい彼女に会いに行く前に雨に降られるし、おろしたての靴は泥に汚れるし、乗りたかった電車は目の前でホームを出て行ったし。とにかくツイてなかった。
『私が求めた黄瀬涼太じゃなかったの』
 だから彼女だってあんな言葉を吐いて、別れを突きつけてきたのだ。だから好きだけど別れるなんて思ってもいないことを口にさせてしまったのだ。好きだからわかれるなんて、よく言えたもんだ。本当にそう思ってるのなら涙のひとつでも流してくれたら良かったのに。
 本当に好きだったのかな、彼女のこと。本当に好かれてたのかな、彼女から。ぐるぐると落ち着かない思考回路が終着点のない問題をせわしなく投げかける。年下だったからかな、オレが。彼女のほうが年上で、大人で、いっつも包み込んでくれてた。ああ、そういえば彼女が甘えてくれたことってあったっけ。
 軽くなった自分の左手を眺める。つい数十分前まで薬指にはお揃いのシルバーリングが収まっていたのに、少しさみしくなってしまった。理由なんて簡単だ。昨日と同じ今日が来なかったように、今までと同じ明日はもう来ないから。彼女がいるという毎日が崩れ去ってしまったから。
 弱くなってしまったのは心だけじゃなくて、どうやら涙腺もらしい。彼女が泣かなかった分、此方が泣きたくなるなんて。涙は溢れる前に噛み殺す。欠伸と同じ容量だ。下唇をぐっと噛み締めれば涙はこぼれない。
「…私の求めた黄瀬涼太じゃないってなんだよ」
 ガタゴトと揺れる車内で呟いた弱音だって、誰にもすくわれることなく湿っぽい空気に溶けていくのだ。

 環状線はいい。どれだけ乗り過ごしてしまっても、必ず目的地に送り届けてくれるから。行き先を迷うことはない。この駅に停まるのはもう何度目なんだろう。隣に座る人は何度変わってしまったのだろう。うつらうつらと睡魔が襲ってくる世界でぼんやりと考える。
 彼女の世界もこうやって人が入れ替わっていくのだろうか。黄瀬涼太という人間が今まで居座った場所には他の誰かが腰を落として、彼女の唇をかすめ取る。…嫌だな、なんて。今となっては無駄な独占欲に胸に溜まったどろどろの感情が更に汚いものになっていく感覚がした。
 刹那、隣に座ったらしい人から彼女の匂いがする。彼女、サナエさんが使ってたシャンプーの匂いだ。心地よくて、汚いものが浄化されていく匂い。思わずそちら側に首を傾けてしまった。
「えっ?!」いい匂いがする。
「あの、ちょっと、」サナエさんよりも少し高い声だ。
「…あれっ」凭れかかった肩はサナエさんのものよりも柔らかい。
「黄瀬、涼太…?」同じ匂いなのに、全然違うんだ。
 同じ人は居ないんだと分かっていたのに、必死に彼女のことを探してしまった。ハッとして首を上げるも、隣に座ってしまった女性は酷く困惑した表情を浮かべている。
「すんません」
 口だけの謝罪。作り慣れた笑顔を貼り付けて、紡ぎなれた言葉を並べる。そうすれば大抵の女の子はしょうがないなという顔をして許してくれた。許してくれなかったのは桃っちとサナエさんくらいで。だから隣の女性も同じような表情をするのだ。
「黄瀬涼太くん、ですよね」
「ああ…そうっスけど」
 なんだ、オレのファンか。それならさっきの行動はゴホービみたいなものだろう。さっきの笑顔だって、一番近くで黄瀬涼太の笑顔が見れたんだ。きっと彼女の人生の中で一位二位を争う素敵な出来事に並んだのだろう。自意識過剰と言われてしまいそうだが、そんなことを思ってしまった。
「女の子みんなにあんな事しちゃダメですよ。勘違いしちゃうから」
 違う。違う違う。彼女みたいな顔して笑わないでくれ。その笑い方は、ちょっと、駄目だ。だってサナエさんもそうやって笑うんだ。オレの行き過ぎた行動を制する時は決まって、困ったみたいな。でも優しくて全てを包み込むような、そんな笑顔で「ダメ」って。
「サ、ナエさ…」
「え?」
 隣の彼女はサナエさんじゃない。そんなのわかってるのに、軽くなった左手で彼女の腕を捕らえる。また彼女が黄瀬涼太の人生にやって来る。どうしてだかそんな期待に胸が踊ってしまった。
「…皆にはやらないっスよ」
「いや、その、手…」
 戸惑う仕草までサナエさんと一緒。同じ人は居ないけれど、ここまで似た人だっているのだ。彼女より大人っぽくはないけれど、頬を染めて目をそらす姿はそっくりだ。彼女より色気は無いけれど、鎖骨付近でちらりと光る華奢なチェーンがどこかいやらしい。
「キミにだけだよ」
 もう一度手に入れる。わざとらしく絡めた指がもう一度あのシルバーを求めているように見えた。
 
(130119)
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