地に足をつく。懐かしい匂いが備考をくすぐって、灰から体中すべての至る所に染み渡っていく。

「私…先生のことが好き」

 あの頃とすっかり季節は色を変えて、表情を変えた。何もかもを祝福していた春は終わり、芽吹いた青を伸ばす為の陽射しが容赦なく降り注ぐ。

「それは恋ではなく、憧れだ」

 表情は柔らかかったのに、突き放すようなあのつめたい微笑み。壁一枚だけの拒絶だったなら良かったのに。子ども騙しみたいな断り文句を並べてくれたのならば、私は今此処に居なかっただろうに。可哀想な貴方と私。


 リクルートスーツに包まれた体は、そうすることを強いられているかのように姿勢が正される。しゃんと伸びた背筋。履きなれないヒール高だというのに、不恰好に曲がらない膝。失礼にならない程度に塗られた紅。傷つけない程度に切りそろえられた爪には、派手過ぎないヌードピンクのマニキュアが塗られている。

「本日より実習生としてお世話になります名字名前です。在籍中にお世話になった先生はご存知かもしれませんが、数年前まで此処、秀徳高校で勉学に勤しんでおりました。至らない点が多々あると思いますが、なにとぞご指導よろしくお願いいたします。」

 朝一の職員朝礼。通勤時間(―― この場合は通学にあたるのだろうか)中に考えた挨拶をなぞらえるように口にしていく。模倣的な挨拶だと思われてしまっただろうか。けれども今の私にはこれがいっぱいいっぱいだ。胸が張り裂けそうな喜びでどうにかなってしまいそうなのだ。この数年、忘れることの出来なかった愛しの人の姿。
―― ようやく追いついたよ、先生。
 一瞬だけ交わった視線が私の体に雷を落とした。


 こうして英語科の準備室に席を並べるために、苦手だった英語を必死に学んだ。目指す予定のなかった教職を将来の夢に設定した。

「お久しぶりですね」
「そうだねえ…3年ぶりかな」

 相変わらず間延びしたような独特の物言い。はじめは、この先生の周りだけゆったりと流れていく空気やマイペース過ぎる授業が面倒くさくて、嫌いで嫌いで仕方なかった。元から嫌いだった英語が更に苦手になっていく感覚が手に取るように分かった。
 何年生の時だったろうか。恐らく2年生だったとはず。その時に初めてまぐれみたいな高得点を英語で叩きだした。信じられない。きっとその感情は私の顔にでかでかと書かれていたのだろう。先生は「名字は頑張る子だからねえ。当然の結果ちゃあ結果だねえ」と、あまり変わることのない表情がふっと緩まったのだ。あの時、私は生まれて初めて恋に落ちる音を聞いた。
 もちろんその恋は実るはずもなく、高校卒業時にあえなく撃沈。晴れて先生と生徒という関係から開放されるその日に胸の内を伝えると、先生は心底困った顔をした。そして「それは恋ではなく、憧れだ」そう私に告げたのだ。
 確かにあの時はガキだった。恋と愛の違いが分からなければ、恋とあ憧れも混同してしまうような浅はかな知識しかなかった。けれど、先生に向けたあの気持ちだけは憧れではないと自負できる。二十歳だって疾うに超えた。世間的にも大人として認められるようになった時、私の心には真っ先に先生が思い浮かんだ。

「先生。私ね、もう大人になったんだよ。好きと憧れの違いだって分かるんだよ」

 別にモテないと嘆くほど、なんのラブロマンスにも恵まれなかったわけではない。先生を忘れるために、別の男性と付き合ったことだってあった。それでも心の何処かに先生がちらついて。手を繋ぐにもキスをするにも、もちろんセックスをするにも、薄くぼやけた世界では相手の顔が少しずつ先生へと変貌していくのだ。

「だから自分の気持ちがどういうものなのかだって知ってる」

 一歩、また一歩と先生が座る古びた椅子へと近づいていく。久しぶりに見下げた顔は以前よりも皺が深く刻まれているようにも伺えた。他に変わったところは何処だろうか。もっと近く、もっと近くで見なければ。
 近くで見なければと思ったのに、瞼は自然と降りていく。残り数センチで先生のがさついた唇に触れるんだと思った。けれどもその衝撃は一向に感じられない。代わりに唇よりも固く、きめ細やかな何かが私のそれに触れた。少しずつ開けていく視界で、私と先生の唇の間に何かが居ることがわかった。その向こう側で、あの人同じような顔をした先生が居るのもわかった。

「私の下についている間は、まだ君は生徒だよ、名字先生」

 もうずっと大人になったのに。私と先生の間には、隔たれた唇みたいに絶対的な壁が存在する。それは私が作り上げたものではなく、先生が作り上げたもの。『先生と生徒』の垣根はこちらが壊すものではなく、あちら側から崩されなくては意味が無いのだ。
 あまりの悔しさに触れるはずだった下唇を噛み締める。ああ、痛い。強く噛んだ唇よりも、薄汚れた夢を描いた愚かな自分の妄想が、だ。

「…諦めませんから」

 ただ残念ながら私は一度進んだ道を後退りしてまた選びなおすような事はしたくないし、そういう器用なことは出来ない人間だ。要は諦めの悪い人間。これはまだ終わりなき過ちの序章にすぎないのだから。

(130115)
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