このお話の続き


 パンドラの箱。それはゼウスがすべての悪と災いを封じこめ、地上に行く最初の女性・パンドラに持たせた箱。決して開けてはならないと言われていたが、パンドラが好奇心から箱を開けてしまった。するとそこからはたくさんの厄災や不幸が飛び出してきたが、彼女が慌てて蓋を閉めたため、希望だけが箱の底に残ったといわれているギリシャ神話のひとつ。

Kill the spring summer
夏は春を殺すの


 私がゼウスに持たされたパンドラの箱には、淡い淡い恋心が封じ込められていたようだ。もう二度と思い出さないように鍵までかけてくれていたのに、彼に再会した反動で焼け崩れてしまうとは。恋とは本当に恐ろしいものである。
 さて、私も封じ込めていた恋心が飛び出してきたため、慌てて蓋を閉めたのだが…底に残ったものは希望だろうか。それとも絶望だろうか。出来るならば希望に満ち溢れていて欲しいけれど、今となってはそれを確認する術もなく、ただ暗い底に沈んだものをコロコロと転がすことしかできないのだ。
 小さい頃の記憶を抜きしても、健志くんは格好良くて、どうしても私の目を引く存在だった。それが恋だと気付いたのは友達と彼がお付き合いを始めた時。さっきみたいにちりりと胸が焼けて、あー好きだったんだーって気付いた。けれど、その瞬間に私の中のゼウスがパンドラの箱にその気持ちを封じ込めてくれたのだ。もう彼を想って胸を痛めないように、と。
 ただ私もパンドラと一緒で、好奇心には勝てなかった。健志くんが幼い頃に遊んだ「タケちゃん」であるということがきっかけだったのだろう。再熱するちりりとした痛みが焼けこがしたんじゃなくて、もしかするとその痛みがキーだったのかもしれない。
「じゃー、おばさん、また今度ね」
「タケちゃんもキヨちゃんも、いつでも遊びに来てね」
 母がへらっと笑うと、それに釣られたようにして宮地兄弟もへらりと笑う。その横顔はどこか、本当になんとなくだけれど似ていて、血は繋がっているもんだなと実感した。それがちょっとだけ嬉しくて、ちょっとだけ優越感に浸れて、ちょっとだけ…ううん。すごく悲しかった。
「また今度、名字さん」
「名前ちゃん、またな」
 此方を向いて手を振る2つの蜂蜜色に、慌てて手を振り返した。絞り出した「またね」は彼らにどう届いていたのだろうか。すぐ側にあった小さなライトブラウンには怖くて目を向けれなくて、ただただ必死にハニーブラウンを追いかけた私の瞳が知らないというのに、他の人がわかるはずないのに。か細い声が震えていることだって、己の声帯が一番知っているのに。

 リコにすら打ち明けず、その存在すら忘れていた「好き」は、眠っている間にパワーアップしていたらしい。寝たきりの体というのは、すぐには動き出せないのが常だと思っていたが、この気持ちだけは彼へまっすぐ突き進んでいる。ノンストップってやつか、このやろう。私は常に赤信号に引っかかっていいたいのに。
 もう少しで大学の中庭に出る、というところでだった。「あ、」なんて、つい最近聞いて耳が覚えてしまった低いトーンの声に肩が跳ねる。もしかしてなんて憶測は要らない。胸にある確信を握りしめて、そっと後ろを振り返れば「名前ちゃんも此処だったんだな」と微笑む清志さんがいた。
「そうなんです。やっぱり清志さんと同じだったんですね」
「おー…って、やっぱりってなんだよ」
「友達が一緒だって教えてくれたんですよ」
 ちょっとだけ考えこむような素振りをした清志さんだったが、さほど興味はわかなかったらしい。ふーんとだけ答えると、別の話を切り出してきた。それは一緒に昼食でも、という話題だったが…。正直そんな気持ちになれない。彼はもう少し自分がモテる部類の人間だということに気付くべきだ。先程から痛いほどの女子の視線を頂いている。さすがに二人きりは困るというニュアンスで断っているというのに、彼は何を勘違いしたのか「じゃあ晩御飯でも一緒に」って。いや、そういうわけでは。
 時間というのは止まること無くあっという間に過ぎるわけでして。何が言いたいのかというと、どう転んでも私と清志さんがご飯に行くというのは決定事項だったということだ。門付近で待っていた清志さんに呼び止められてしまったため、仕方なく母に連絡をする。と、何故か「キヨちゃんから聞いてるわよー! 久しぶりなんだし、楽しんできなさい」とすでに根回しをされていた。恨めしく彼を睨みつけると「んじゃ行くか」と微笑まれる。こういうこと、イケメンだから許される行動だと彼はいつ知るんだろうか。
 やってきたお店は何処か隠れ家のようにも見える、小さな洋食屋さんだ。彼曰くオムライスがとても美味しいらしい。聞いたその時は「へー」なんて素っ気ない態度で答えたが、内心は諸手を上げて歓び駆け回っていた。知っている人は数少ないが、オムライスは私の中で1位2位を争う好物である。そんな好物が美味しいお店なのに、それを頼まずにいられるわけがない。緩んでしまいそうな頬をきゅっと引き上げて「じゃあオムライスにしようかな」と告げる私とは裏腹に、目の前の蜂蜜色はふにゃっと頬を緩ませた。
「相変わらず名前ちゃんはオムライス好きなんだな」
「え?」
「小さい頃も出掛ける度にオムライスばっか頼んでてさ」
「そ、そんなこと! …あったんですよね」
「おう、あった」
 なんでこの人がそんな事! と考えたが、彼と私には1年という大きな壁がある。たかが1年、されど1年。それが互いの記憶に関わってくるのだから、ちょっと困ったものである。私が知らない私を彼が知っている。言いようのない恐怖感があるといえばあるが、生憎私は好奇心が旺盛なためか、少しでも知らなかった自分に触れてみたいという気持ちが湧き上がるのだ。
 正直なところ、私は宮地清志という人間がすこぶる苦手である。健志くんそっくりな容姿も頭が良すぎるところもモテるところも、それなのに中身は健志くんと違って刺々しいところも、よろしくない感情を引き連れてくるのだ。苦手なものと好きなものを一緒に食べた時に、苦手なものの味がよく分かるあの感覚に酷似している。この感情をなんと呼ぶのか、私はそれを思い出すことも出来ないし、名前も付けかねている。もちろん悶々とした気持ちを抱えて、彼の端正な顔を眺めていても気持ちが晴れることはなかった。
 溜息を流しこむようにお冷を口にした時だった。目の前には彼が美味しいと言っていたオムライスが出てくる。見るからにふわふわであろう卵に包まれたチキンライス…と思わしき中身。デミグラスソースではなくケチャップだというのが、昔なつかしい気持ちにさせる。ゆるりと立ち上がる湯気に食欲が唆られていることが目の前の彼にはバレバレだったらしい。「先に食べていいぞ」なんて、彼が頼んだカルボナーラはまだテーブルに並んでいないというのに、こういう優しいところだって、やっぱり苦手だ。
 少しずつ口に運んでいれば、彼が頼んだものもテーブルにやってくる。お互いに無言で食べ進めている空間というのは、なんというか、居心地はあまりいいものではない。何か言葉にするべきか。そういう空気は相手にも伝染するもので、彼の口元も何か言いたげに歪んだ。
「あのさー」
「ん、ぁい」
「あ、食ってから返事してくれていいわ」
 つるり。遅れてきた一本が彼の口内に吸い込まれる。
「名前ちゃんってさ、タケの事好きだろ」
 ふわふわの卵が凶器のように私の喉を襲いかかる。ゲホゲホとむせる私に水を差し出しながら、清志さんは「図星か」と笑った。どうして、何で。そんなにわかりやすい反応を見せてしまったのだろうか。疑うような視線を向けていると、彼が口に含んだ分を咀嚼した後に言葉を発した。
「オレも好きだったんだよ」
「え?」
「アイツの彼女…っていうか、今は嫁か。あれ、オレの元カノなの」
 呆然とする私を余所に、彼は淡々と食事を進めながら言葉を紡いでいく。オレら一緒の心境なんだよなあとか言ってるけど、全然違うわけで。彼と健志くんのお嫁さんになる予定の女の子には、恋愛的な確固たる繋がりがあった。けれども私と健志くんの間には細すぎる感情でしか繋がりがなかった。複雑な心境といった点では酷く似ているが、根本的に違うのだ。
「一緒じゃないです。一緒にしたら失礼ですよ」
――― あなたの気持ちに。
 その言葉は一口分だけ掬い上げたチキンライスと一緒に咀嚼して体内に流し入れる。彼の反応が怖くて、少しだけ伏せた世界で見えた表情は、言葉にするまでもなく驚きに満ちていた。それが意味する感情を私は知っているけれど知らないふりをする。
 清志さんが美味しいと言って勧めたオムライスはとても美味しかったはずなのに、口の中に広がるのは何処か焦げた味だった。
 
(130105)
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