二人分の影が揺れる。肌寒さに肩が震えそうになった。季節はもうすぐ冬になる。黄瀬の左手にはじんわりと温かさが広がっていた。それもそうだ。その左手には小さな右手が収まっている。悴みそうなその手を彼はぐっと握りしめていた。

「名前も来週末は時間あるんスよね」
「ううん…」
「えっ、でもこの前は」
「空いてない、これからずっと」
「…は?」

 二人分の足音は寒々しい風に攫われていく。血の気が引いたような顔をした黄瀬のこめかみにはつうと冷や汗が伝った。どうして、と彼が薄い唇を開いたのを合図にすぐ横の彼女は涙を流し始める。「もう、だめなの」譫言のように繰り返すその言葉に、黄瀬の左手がぴくりと反応した。
 名前の心はもう黄瀬を愛せなくなってしまった。決して嫌いになったわけではなく、キャパオーバーしてしまったのだ。起こって欲しいと願って起きたわけではないスレ違い、ドタキャン。何度笑顔を貼り付けて「大丈夫」と自分に言い聞かせたのか。耳に入ってくる情報も、目に見える文字情報も、彼女にとっては膝を抱えて拒否したくなるものだった。心が病んでいく気がした。もう、ダメだったのだ。これ以上側にいれない、のだ。

「これ以上涼太のこと好きじゃだめなの」
「そんなことない」
「嫌いにはなれなかったけど、もう、苦しすぎるの」

 呆然とする彼の前で、ぽろぽろと涙を流す。ただ悲しいからではない、彼を愛せない自分が憎いのだ。隣にいてはダメだと分かっているのに、心の片隅では彼を求める自分が憎くてしょうがないのだ。
 彼もまたぽろりと涙を流す。どうして。君がいないと僕は。それこそだめになってしまう。ぐるぐると廻る思考を追いかけるように聞こえる、彼女の小さな謝罪。どうして謝るんだ。どうして、どうして。
 堂々巡りの思考回路の中、握っていたはずの手が一瞬だけ緩む。その瞬間を狙って彼女が手を離した。まるでその時を待っていたかのような仕草に、彼の大きな瞳がまた大きくなった。

「ごめんね、涼太。大好きだったよ」

 濡れてしまった笑顔は触れただけで壊れてしまいそうだった。ああ、こんなにも愛おしいのに。
 そう思った時には彼はもう一度彼女に触れていた。もう二度と離さないとばかりにきつく彼女の体を抱き締める。鼻腔をくすぐるこの匂いだって、体中が温まっていくようなこの体温だって。離したくないのだ。離れたく、ないのだ。

「もう一回だけ。幸せにするから、寂しい思いはさせないから」

 涙で震える声は酷く頼りない。ぎゅっと抱きしめた腕は彼女を離さまいと動いているのに、彼の背中には何も回ってくるものがない。なんで。いつもなら回るはずの両の手は、ぶらりと垂れ下がったまま。その事実は黄瀬の心に重くのしかかってくる。
―― もう一緒にいちゃ駄目なんだよ、私達。
 どんっと黄瀬の胸元に衝撃が走る。もう一度だけ見えた表情は、先程と同じ壊れそうな笑顔。触れようとした手の平は空を切って、二度と彼女のぬくもりに触れなかった。
 彼女の唇はうっすらと開き、「ありがとう」を象る。消える、消える。ああ彼女も冬の風に攫われてしまった。彼の喉元に突っかかった「行かないで」は空気を震わすことはない。もう一度、彼女が彼のもとに戻ってくることは、ない。

さよならこころで跳ねる


ぱぷこ様リクエスト/121117
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