私の知っている幸せは90%の幸せと10%の切なさから出来ている。

 彼の部屋に増えていく『私』の存在は、とても喜ばしい事実である。ひとつずつ刻み込まれていく彼の中の私が嬉しくて。でも心臓を掴まれるような切なさも孕んでいて。どうしようもない感情に何度も泣きたくなった。
 どうしてそんな衝動にかられてしまうのか、なんて私が一番知っている。いつか来るかもしれない別れを考えて、ひとり彼の苦しみを思うのだ。
 彼の中に私が棲みつくということ。彼の中に私が居座るということ。私の中の征服欲に似た独占欲は溢れんばかりに満たされる。でも、その「もしも」が来てしまったら?きっと彼の中に棲みついた私は、彼を苦しめる存在になる。そんな未来を思い描いてしまった私を、彼は考えすぎだとか言って笑った。

「ただいま〜」

 ほんわかとした声が玄関に響く。ぱたぱたとスリッパの音を立てながら、彼の出迎えに向かった。「おかえり」そう伝えた私を見つけて、彼はにーっと笑う。この世界のすべてが蕩けてしまいそうなほど、甘い笑みを浮かべた彼はもう一度「ただいま」を伝えてきた。私のもとにやって来た足取りは少しだけふらついている。

「…お酒臭いよ」
「んー?」
「もう、どんだけ飲んだの…」

 口先だけの咎めの言葉。いつもとは違う彼に口元は少しだけ緩んでいて、肩の辺りに感じる彼のぬくもりがとても心地良かった。

「お部屋いこっ」
「ん、」
「んもー、重いんだってば…」

 引き摺るように彼をリビングに連れて行く。彼が帰ってきても寒くないようにと暖めていた部屋は、彼の眠気をさらに誘ってきたようだ。部屋に入った途端、彼の力がもっと抜けてしまった。
 ソファに座った彼は、譫言のように私の名前を呼んだ。何度も何度も確かめるように。ここにいるよと言えば、瞳は閉じられているのに、笑みを浮かべたような顔をして。体中が幸せに包まれているのに、心臓は抉られるよう痛かった。

「名前」
「なあに」
「名前」
「どうしたの」
「…忘れないから」
「え?」

 いつか貴方が私に苦しめられること。いつか貴方が私を忘れてしまうこと。それがとても怖いんだと打ち明けたことがあった。そのいつかはきっとやってくるはずだからと、それを考えると胸が張り裂けそうになるんだと。彼はあの日のことを思い出して伝えてくれてるのだろうか。

「…、ありがとう」
「んー」

 それが嫌で一度だけプロポーズを断ったことがあった。馬鹿馬鹿しいと思われたかもしれないが、私にとってはとても大きな問題だった。ごめんなさいと口にした私に、彼は苦笑いを浮かべて大丈夫だと抱きしめてくれた。
 あれからまたプロポーズを受けた時に、渋々ながら頷いた私の前で、彼は手放しで喜んでいた。その光景に胸が暖かくなって、言いようのない切なさも同時にやってきたのは記憶に新しい。彼の未来を私で縛ることになったのだ。

「ねえ」
「…」
「黄瀬くん」
「…きせ、」
「黄瀬、くん」
「りょーた」

 舌の上で転がすように彼の名字を繰り返していると、薄っすらと眼を開けた彼が砂糖菓子よりも甘い声で己の名前を伝えた。「涼太、くん」噛み締めるように告げた名前に、今度はメープルよりもとろけた甘い笑顔で返事をする。ああ、どうしてだろう。なんだか、とても、泣きそうだ。

「ごめんね」
「なんでー」
「私で、貴方の未来を、」
「名前はさー、今、幸せー?」

 くいっと引っ張られた勢いで、彼の膝の上に座ることになってしまった。いつもは見上げていた端正な顔を見下ろす。リビングの蛍光灯に照らされたさらさらの髪の毛は、乱反射して、目に痛いほど眩しかった。

「幸せ、かな」
「俺はねー、すげー幸せなのー。一回は名前にフラレちゃったけどー、こうやって名前と結婚してー、おんなじ黄瀬になってー。帰ったら名前が俺のこと待ってんの。すんげーフツーのことだけど、すんげー幸せなのー」
「ん…、単純すぎる幸せだね」
「へへへー、でもねー、泣きたくなるぐらい幸せなのー」
「うん」

 私の知っている幸せは90%の幸せと10%の切なさから出来ている。だからいまも、噛み締めた幸せに涙を溢してしまうんだ。
幸福溶性

(121111)
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