ダークブルーの水面に白い月が朧げに浮かぶ。ざぁっという波の寄せては引いていく、あの独特の音に思考回路を委ねながら、空に浮かんだ星屑よりも儚くて遠い背中を追いかける。左手の腕時計は午前2時を指している。該当すらない場所でもこんなに明るいのは、此処が世界とは切り離された場所だからだろうか。
 夜風に揺られて、彼の細いベイビーブルーが流れていく。見た目を裏切らないソープの香りがする其処に、何度鼻を寄せただろうか。記憶が薄れても鼻腔が忘れないその香りを、私は死んでも欲するんだろう。妙に虚しくなった心を満たすために彼の手を掴みたくて、少しだけ歩みの速度を上げる。途端にぱしゃっと音を立てる足元。足首より下に感じる水温は冷たいはずなのに、私の神経は疾うの昔に麻痺してしまったようだ。
 空と海を一緒の絵の具で描いたような景色を淡い青をまとった彼と歩く。まるでこの世界に二人しかいない感覚になるのはどうしてだろう。波の音は未だに聞こえているはずなのに、鼓膜に焼き付いて離れないのは彼の呼吸音だけだった。

「今夜も月が綺麗ですね」

 いつの間にか歩くことをやめていたらしい、彼の少しだけ大きな背中に衝突する。刹那、ふわりと鼻腔をくすぐるフローラルソープの香りに胸の奥が摘まれた感覚に陥った。額に感じる人肌は、全てを包み込んでくれる母の温かさにも似ている。

「それって愛の台詞なの」
「さあ…、お好きなように」

 悪戯っ子のように語尾を上げた口調で彼は笑う。くすくすと押し殺しているのに、静かな夜の空気は揺れて私の元までたどり着く。すぐ側にいるのに、地球一周分ぐらいの距離が彼と私の間にある気がした。左手の小指から垂れた赤い糸は目の前にいる彼に届くまで、どれだけの時間を要するんだろうか。
 濃紺の海に沈んでいけたら。彼と二人、星屑を散りばめた海へ身を投げれたら。…どうやら私はこの『世界』の終わりを望んでいるらしい。彼といたら幸せになれるとばかり思っていた、若き日の私は此処にはいない。現実は彼の隣にいても辛く厳しいもので、この世はくそったれだと何度も嘆いた。それでも彼と二人だけの世界ならば、なんて甘ちゃんみたいなことを思うのは、彼に依存してしまっているからなのか。
 突然の大きな波に足がさらわれる。あ、と声を漏らした時には、彼と一緒に暗い海に沈んでいた。…のなら良かったけれど、実際は浅瀬に二人で転がっただけ。初冬だというのに水温は何故だか暖かくて、ちょっとだけ笑ってしまう。

「…とんだおちゃめさんですね」
「海が悪いの、海が」
「大自然相手に喧嘩ふっかけますか」
「テツヤくんが私の味方なら」

 彼の淡いブルーがひとつ、またひとつと水玉を生み出す。その様子がとても幻想的で、月明かりの下に舞い降りた水の妖精みたいだった。彼は天に愛される人。輪郭が不安定なのも、神の子だと分かるように、息子贔屓した神の仕業なのかもしれない。
 どうしてこんな私とずっと一緒にいてくれるのだろう。下着までびちゃびちゃになった体をもう少しだけ海水へと沈める。どうして天に愛される貴方が私なんかをずっと選んでくれるのだろう。暗いステージの上、二人だけで淡いスポットライトを浴びる。薄明かりの中でも確認できる、ゆらゆらと漂う私のスカートは、大海原に飛び出せない臆病な浅瀬の生き物のようにも見えた。

「世界に取り残された、みたいな場所ですよね、ここ」
「…うん」
「こういうシーン、ゲームで何度も見かけましたよ」
「、小説では」
「そうですね…よくあるシーンかもしれないです」

 彼の背中に付けいていた額には、いつのまにか己の前髪がくっついていた。濡れてしまった部分は夜の冷えた空気のせいであっという間に体温を失っていく。温かった場所も彼の体温を覚えた場所も、瞬きの間に冷たくなってしまった。なぜだかそれが哀しくて、空を仰いでため息を吐く。思ってた以上に寒いらしい夜に、私の生温かな空気は白く濁ってすぐに消えた。
 視界にゆっくりと彼の白い腕が現れた。かと思えば、その腕は私を首の後ろから掻っ攫うように抱いて、冷えてしまった体を温めだした。鼻腔を通るのは先程よりも薄くなったフローラルソープ。体が覚えてしまった彼の体温も、少しだけ冷たいものになっていた。

「また嫌なことあったんでしょう」
「別に、」
「世界の終わりみたいな顔して、こんな真夜中に散歩に行こうなんて言い出すくせに」
「テツヤくんが優しいから」
「貴女にだけです」

 びしょびしょになった体で抱きしめ合うなんて、青春時代にもやらなかったことを成人してからやるだなんて。海水はべとべとするから嫌いと言って、夏の海水浴にすら行かなかったくせに。全身に感じる嫌な感覚も彼と一緒なら心地いい物に変わる気がした。

「この世界はクソッタレだから、テツヤくんと二人の世界に行きたいな」
「そうですか」
「うん」
「…でも、こんなクソみたいな世の中も、貴女がいるなら悪くないなって思えるんです」

 絵画にでもなれるような綺麗な笑みを浮かべてテツヤくんは水を弾いた。白い指先から作り出された水玉は、同じように綺麗な弧をつくって、私の足下に吸い込まれて行く。緩い波紋は歪に揺れて、すっと消えた。
 ベイビーブルーの髪の毛は漆黒に染まることを知らない。朧げな月明かりは彼だけを照らすのだと思っていた。彼に包まれた今、それすら勘違いに思えてきて、少し歯痒い。

「じゃあ嘘でもいいから愛してるって言って」
「それはさっき言いましたから」

 歪に揺れた波紋の全てが消えてしまえばいいのに。先程からちらつく銀色が体中を掻き毟っていく。私がいるならって言うくせに、私だけじゃダメだなんて。貴方は本当にずるい人だ。

そうして二人にやって来るのが同じでありますように


(121107)
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