哀しいけれど、僕と彼女の関係はここで終わりを迎える。
夕暮れにも似た部屋の照明は、色素の薄い彼女の頬を柔らかく染める。綺麗で暖かなノスタルジックカラー。そんな彼女を撫でるのが堪らなく好きだった。人差し指でつうっとなぞる度に、くしゃくしゃの笑顔を浮かべて身を捩る所も。彼女、名字名前という存在そのものが僕の全てだと思っていた。
しかしながら、柔らかな関係の終わりとは呆気ないものだ。
あまりの居心地の良さに気付かなかった綻びは、知らぬ間にとても大きなものになっていた。ぽっかりと出来てしまった溝は、後戻り出来ないほどに深すぎた。
気付かなかったんじゃなくて、気付きたくなかった…が正しいのかも知れない。
何故なら、その綻びには何度か修復されようとした痕が見えるのだ。それは言うまでもなく、彼女が藻掻いた痕。彼女は己が理解しているよりも、ずっと賢かったのだ。ずっと、この終わりをわかっていたのだ。
ゆるゆると彼女の作る湖が水嵩を増していく。もうすぐ、決壊だ。湖の向こう側、ライトブラウンのガラス玉に映る自分は情けないくらい、下手くそな笑顔を浮かべていて。この関係の歪さを語っているようだった。
「私のこと、好きだった?」
――好きだったよ。
どうしてだろう。なぜだか喉につっかえて、思わず言葉を飲み込んだ。
好きだった、大好きだった。彼女は、初めて「一生大事にしたい」と思えた人なのに。何時の間にか愛は日常に溶け込み、彼女への愛情も何もかも、その濁流に攫われてしまっていた。大好きだった。愛していた。そのはずなのに、なんの確信も持てないのだ。彼女のことを1番に想っていた自分でさえ、あの濁流に飲み込まれて消えてしまったのだ。
口籠った事に気付いたのか、彼女は取り繕ったような笑みを浮かべて「ごめんね」と呟いた。ぽろり。ああ、決壊だ。
きっと僕は彼女にとって、史上最低の彼氏になるだろう。愛情か同情か、何がなんだか分からない相手と無駄に時間を過ごしてしまったとか。そんな感覚に陥るんだろう。
だけど、だけど…。
彼女の中で根深く己が存在していく事に、何処かで喜んでいるのだ。最低でも、彼女を傷つけて終わる関係でも。そこまで考えて気づいた。
――ああ、僕は彼女の中に一生居座りたいだけなのだ、と。
今流した涙も誰のためでもない僕を想って零したもの。そう思考を巡らせれば、何故か満たされる感覚がしたのだ。
最低だな、と自分でも思うが…、この関係に終止符を打つ事で君の中で僕は永遠になるのだ。
「俺は、名前という存在が大切だったよ」
「…最後だよ、好きって言ってよ」
「嘘はつけない素直な俺が良いって言ってただろ、…ごめん」
「ほんと、嫌い…」
嫌いでもいいよ。だって君の流す涙は僕を想って流すものだろう?だからこんなにも頭を擦りつけて、僕を覚えようとするんだろう。
君のとなりに居座ったのは愛情でも同情でもないと知ったら、彼女はどんな表情をするんだろう。今みたいに涙を流して、額を擦り寄せて懇願するのだろうか。それとも絶望の色を瞳に宿して、空虚のビー玉に僕を映すんだろうか。それとも…、感情の赴くままに僕を傷つけようとするんだろうか。…そのどれだっていい。彼女の心に「黄瀬涼太」という人間が深く刻み込まれる事には変わりない。彼女の永遠に寄り添えるのならば。
哀しいけれど、僕は彼女の永遠になるために、この関係を捨てる事にします。ただ、この焼けるような胸の痛みを「哀しみ」と呼んでも良いのか。それだけは些か疑問が残るものではあります。
「嫌い…涼太なんて、嫌い」
「うん」
「大嫌い…、でも、好きなの」
「うん」
彼女が僕に根深く依存していることも知っているのに、手放すのはそれを確固たるものにしたかったからかもしれない。彼女は気まぐれの猫のようで、忠実な犬のようで。唯一言えることは、僕のことに関しては、裸足のままでも駈け出して掴もうとする…ことだろう。
『共依存』と言えば聞こえはいいかもしれない。しかし、そんな単純なものでも綺麗なものでもない僕らの関係を、恋人というジャンルに括るには歪みすぎていた。暖かな関係とはかけ離れすぎた、熱すぎて、けれども冷たすぎる関係を「恋人」とは呼びかねた。
…ああ、だからそんなに泣かないで。僕の大切で綺麗で、だからこそ壊したくなる可愛い貴女。そんなに懇願しないで。例え肉体は離れることになっても、君の中に僕はずっと居座るのだから。寂しくない、いつまでも死んでもずっと、君を暖めてあげるよ。
哀しいけれど、僕らは永遠になります。そのために恋人の僕らは今日で終わりを迎えることになったのです。
愛死たりない
(121024)