これの続き

結局、あの日は何もなかったかのように黒子くんは私に接し続ける。相手がそんな態度をとっているのに、此方が下手に出ることをすれば、あの時のタヌキ寝入りがバレてしまう訳で。対になって座ったテーブルの向こう側、真剣な顔つきでゲーテのファウストを読む彼の様子を伺う。相も変わらず難しい本を読むのがお好きな事。私はこの恋愛小説でいっぱいいっぱい、手一杯。忙しなく目が追う文字の羅列。その中に現れる「キス」「接吻」「口付け」。もう一度彼の唇に触れることが出来たのならば、今はどんな味がするのだろうか。この前と同じ甘いバニラだろうか。それともさっき渡したガムのベリーの風味だろうか。あ、でもそれはまだ彼の手元に鎮座しているや。じゃあ…、彼そのもの?

「名前さん?」ふと名前を呼ばれたことで、ピントの合わなかった視界にスカイブルーが鮮やかに染色される。わあ、今日のどんよりした鈍色のお空よりずっと空って感じだわ。なーんて、現実逃避もほどほどに。なるだけ平然を装って「ん?」と返答です。「ぼーっとしてたので…つい」「うーん、ちょっと眠いのかも」疑っているような伏し目がちのベビーブルーにそっと微笑みをあげましょう。まあ、彼は腑に落ちないという表情を作った後に、また難しい文字の羅列を追い出すのだけど。その反応はその反応で、ちょっぴりわびしい味がするといいますか。はあ…、本の中ではヒロインが涙を流して昔の恋人にキスをせがんでいて、あ、キスした。『触れるだけの接吻が彼と彼女の心の隙間を埋めるようだ』ですって。その接吻で、私と黒子くんの距離は埋まるどころか、ぐーーんと開いてしまいましたけども。

キスにばかり思考が持っていかれて、内容が入ってこないまま読み進める。「その本、面白いですか?」耳触りのいい声が本の感想を求めるので「面白いよ」と伝える。彼が読んでいるものに比べれば、うんと読みやすい文章なのだけれど。「どういうお話なんですか?」「えーっと、幼馴染で恋人同士二人が色々あって遠距離になっちゃって。なんとか関係を続かせようとするんだけども、障害は大きくて。んで、今はね、その二人が再会してキス…を、」口に出した途端に現実味を帯びるあの日。今目の前にある、薄い唇が私に触れた。その記憶が鮮明に蘇ってきて、赤みがかってきた顔を思わず伏せる。彼の表情は見えないけれど、きっといつものようなポーカーフェイスを浮かべているんだろう。居心地の悪い沈黙が二人を包み込む。「あの時、…黒子くんが早く帰っちゃった時。私にキスしたのは黒子くんだよね?」ちらりと見あげれば、ポーカーフェイスを崩さない彼の喉が上下する瞬間に遭遇する。「どうして、そう思うんですか?」純粋…とは思えない問への答えは心の何処かで決まっていたのかもしれない。「いつも近くで嗅いだ、大好きな人の匂いは間違えない、ですから」照れ隠しのために尻すぼみになるつぶやき。恥ずかしさのあまり顔から火が出そうだ。文庫本を持ったままの手が少し汗ばんで、気持ち悪いな。なーんて思ってると、本ごと私の手を奪う、少しだけ骨ばった手。「あまり可愛いこと言わないで下さい…期待しちゃいますから」その手の持ち主は少しだけ頬を赤らめて、困ったような笑みを浮べている。そんな表情してそんなこと言われちゃったら、私の方が期待しちゃうよ。「期待して欲しいんです」おんなじような顔するから、またあの日と同じようなキスを下さい。あの甘いあまい口付けを。
だいすきっていう内緒話を待ってる

幸様リクエスト/120904
×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -