今年も夏が来た。その事には何の意味もない。ただ季節がいつも通り巡ってきた、それだけのこと。容赦無い日差しは青春時代と変わらず、その眩しさに思わず目を細めた。照りつける太陽がただひたすらに恨めしい。そんな世界の条理の中、黄瀬の思考だけがあの日へ懐古する。

確か、あの日も太陽が眩しくてどうしようもなかった。

握られた手はじっとりと汗をかいていた。自然と日陰を目指す歩みと劈くような蝉の声と、額に汗を浮かべた彼女の名前。いつかの授業で習った漢詩のワンフレーズだけが脳内を占める黄瀬に彼女を気遣う様子は見られない。というよりは、余裕が無いのだ。きっとそれを名前も気付いていた。少しだけ擡げた頭だけが彼の視界の端に捉えられた。目的地まではもうすぐだ。

「暑いね」
「そっスね」

口数少なく目指した、海が見渡せると噂の公園。潮風がベタつくはずなのに、何も感じないのは何故だろうか。潮風が名前のスカートの裾をさらって揺れる。揺らぐ思考回路。消えてしまいそうな笑みを浮かべた彼女を前に何と言葉を紡げばいいのだろうか。

「好きっス」
「え?」
「好きっスよ、名前」

ぽろり零れたのは好意の欠片。そして彼女はまた笑う。知ってるよ、と。彼女はわかっているのだ。黄瀬が紡ぎたがっている言葉はそれではないと。揺らいでいるのは彼の思考回路だけではなく、彼の瞳もだと。嗚呼、なんだか泣きそうだ。まだ泣けないのに。空を仰ぎ、呼吸を整えたのはどちらが先立ったのか。

「夢が、でっけえ夢ができたんスよ」
「へー」
「絶対に叶えたいと思って、でも」
「うん」
「そこに名前の姿があるビジョンがどうしても浮かばない」
「…うん」

遠まわしに投げられた別れ。なんとなくでも悟っていたのに、名前は涙腺が緩んでいくのを感じた。彼は言ったのだ、自分の未来にお前はいないと。息が詰まる。呼吸ってのは、こんなにも難しい運動だったろうか。無意識になされていたことですら、今はどうしてか上手くいかない。また、黄瀬自身も息を潜めた。あんなに大きいと、頼り甲斐のある女性だと思っていた彼女がこんなにも小さい。否、小さくしたのは己だった。どうしてだか、呼吸のリズムが掴めそうにない。

「そっか、うん。そっかそっか…」
「ごめん」
「謝んないでよー、なんか、ほら、惨めじゃん」
「…ごめん」
「だから、謝んなっての…」

なんでアンタが泣くのよ。触れただけで割れそうな表情を浮かべた名前が笑う。どうして彼女はこんなにも強いんだ。違う、強がらせているのは他でもない黄瀬自身だと彼はわかっていて。謝罪の言葉を零しながら涙を流す。嫌いになった訳でもなく、嫌なところがあった訳でもなく。ただ、ただ、彼の未来に彼女がいなかった。それだけなのだ。

瞼を閉じれば今でも浮かぶ、彼女の泣きそうな笑顔。…泣きそうな?いや、違う。きっと彼女も泣いていた。それでも黄瀬に涙を見せようとしなかったのは、彼女なりの強がりなのだろう。視界の端に捉えた、擡げられた顔に隠れた悲痛な叫び。あの時、彼女は泣いていたんだろう。今となってはそれを確認する術もないのだが。

人工的な光に伏せていた目を開く。炎天下の今日に限って、街中での撮影だなんて。ギャラリーの黄色い声援にひらひらと手を振り答え、水分補給をする。夏の日差しのせいなのか、何度もリテイクをとられ、精神的にも体力的にも限界が近い。ふーっと長く息を吐き終えたとき、懐かしい人影に黄瀬の目が見開かれた。

「名前…」

ずいぶん大人びたように見える姿と変わらない顔つき。2人の間にどれだけの歳月が過ぎていたのか、よく分かってしまう。彼女がいなくても呼吸は続け、歩みは止まらなかった。なのに、彼女を見かけた途端に、また息が止まるなんて。未練がましい気持ちに蓋をする。あの日、手を離して背中を押してくれたの人が見てくれているのだ。黄瀬は自身に喝をいれ、もう一度、呼吸のリズムを捉える。彼女の隣に立った男性の姿を知らぬふりして。





また君のいない夏が過ぎていく。僕は夢を叶えました。君はどうですか。

−−−−−
▽彗様リクエスト
ご参加ありがとうございました。
120730
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -