彼、黄瀬涼太は日本でもトップレベルの航空会社に務める国際線のパイロットだ。技術力もさる事ながら、甘いマスクと機内に響く流暢な英語で密かにファンが居るとか居ないとか。彼に恋をするフライトアテンダントも後を絶たないというが、彼が振り向くことは一切ない。どうやら彼には愛してやまない彼女がいると専らの噂なのだ。
 そう。彼は国際線のパイロット。今日も今日とて、別の国から日本に帰ってきたばかり。だからうっかりしていたのだ。日本で言うところの今日は12月24日。恋人たちが待ちわびていたクリスマス・イブだということを。

「もう涼太くんってば、イブ終わっちゃう」
 泣き出しそうともとれるような震える声が彼の鼓膜を揺らす。発信源はこの部屋の中ならば、たった一人しか居ない。彼が唯一心から甘えれる人。
「んー…、ごめん、寝かせて」
 恋人たちのクリスマス。彼の冷たい一言により、彼女の中でそれはガラガラと音を立てて崩壊した。いくらなんでも酷すぎる。何が毎年クリスマスは一緒に過ごそうね、だ。一緒の空間にいるけれど、これじゃ一人で過ごすものと変わらない。なんて彼女が信じられないといった顔で文句を垂らす。
 膝を抱えたまま腰掛ける、二人で座っても余裕ができるソファは広々と感じだ。今日は絶対に一緒になんか寝ない。そう決め込んだ彼女は、そのあたりに置きっぱなしにしていたブランケットとストールを2枚重ねて体にかける。恋人たちのクリスマスなんてまやかしだ、幻想だ。

 翌朝になり目が冴え、頭が冴えた黄瀬は絶叫したくなった。デジタル時計が示す日付は12月25日。一緒に過ごそうねと言っていたイブは彼が気持よく夢見ている間に終わってしまったのだ。さらに彼女は隣に居ないときた。同棲するようになってから、初めて、一緒の空間にいるのに同じ場所で朝を迎えなかった。さあっと冷えていく頭の隅で絶望したような声を漏らす彼女が蘇る。やばい、怒らせてしまった。バタバタと音を立てて向かった先はリビングで。其処には身を丸めてソファで眠る彼女の姿があった。
 ブランケットはしっかりとかけているくせに、その上にかけていたストールは今にもずり落ちてしまいそうだ。寒かったろうにな。そう思いながら彼はストールをかけ直す。
 日付は変わってしまったけれど、彼女に渡さなくてはならない物がある。それを思い出した彼は、通勤カバンをごそごそと漁る。中から取り出したのは、先日のフライト先であるフランス・パリから購入したばかりのものだ。満足気に小さな包みを眺めたあと、部屋着であるスウェットのポケットにそれを入れて彼女のもとへとまた戻る。
「なまえ」
「…」
「ほら、起きて」
 彼の声が目覚ましかのように、彼女はごしごしと目元を擦る。
「おはよ」
「……ん」
 どうやら昨日からの不機嫌は治っていないようだった。むっと唇を尖らせたままの彼女は彼の方を一切見ようとしない。相当嫌だったんだろうな。そんなことを思いながら、彼は彼女の脇の下に手を差し入れ、そっと抱き起こす。座れるほどのスペースが出来上がった時、彼と彼女はソファの上で向かい合った。
「昨日はごめんね」
「…別にいいよ」
 本当は彼女だってわかっているのだ。彼がこういう仕事をしているからこそ、長時間フライトのあとはとても疲労が溜まっているということを。寝れるのであれば、寝れるだけ寝たいということも。自分の我侭のせいだと分かっているのに、彼が申し訳なさそうに眉を垂れ下げる。彼女もまた申し訳なさにふいっと視線をそらした。
「ねえ、なまえ。手出して」
 彼の優しい声が指示する。言われるがままに彼女が彼に向かって手を差し出せば、そこにちょこんとした小さな小箱が乗せられた。しかしながら、それはただの小箱ではない。ドラマで感動的なシーンに使われているあの、小さくてしっかりした箱。中に入っているのは恐らく。その事に気付いた彼女は瞳をこれでもかという程に大きく見開いた。
「気づいた?」
「りょた、くん…これって…」
 ぱちくりと瞬きを繰り返す彼女の頬を、柔らかい笑みを浮かべた彼がゆるりと撫でた。
「随分待たせちゃったけどさ、そろそろ黄瀬になろうよ」
 効果音が付きそうな位の勢いで彼女が俯く。表情こそは見えないものの、体が小さく震えていて、全身で泣いているのだと訴えてきた。
「今の私って、寝ぼけてるし寝ぐせ酷いし、すっぴんだし…もう最悪」
 聞こえてきた悪態に彼の口元から小さな笑みが零れた。
「それにめちゃくちゃ待ったし、もうアラサーだし、おばちゃんだし、全然可愛くないしさ…こんな私で涼太くんのお嫁さんになれるのかな」
――― あーあ、もう可愛いな。
 ふるふると震える小さな体を彼が思い切り抱きすくめたくなった。だけどもう少しだけ我慢。
「なまえでいいんじゃなくって、なまえがいいの」
 彼がその言葉を発した途端、胸元が小さな衝撃に襲われる。「どうしよう、もうすぐ30なのにサンタさん来たみたい」と彼女は泣きながら笑った。彼女は知らない。彼の肺いっぱいに広がる彼女の匂いが、時には彼の心を落ち着けたり、時には彼の心を高揚させたり。彼の心を酷く掻き乱しているということを。彼、黄瀬涼太にとって、彼女、みょうじなまえは世界でたった一人の特別な女の子なのだ。
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