古書の匂いとお香の匂いが入り混じる部屋。応接セットに腰掛けたみやこは目の前の赤司に視線を合わせる。少しだけ黄味がかった左目と、彼の髪と同様な色素の右目。その双眼は決して笑わない。妙な緊張感に膝の上にクロスさせた両の手が汗ばんむ感覚に、みやこの喉は一段と乾きを訴えた。

「僕との結婚についててだが、」

 柔らかなカーブを描いた彼の唇が言葉を告げる。そのカーブとは真逆で、冷たい印象を与える彼の口調。この人には逆らえない。そんな感覚にみやこの体が警報音を鳴らした。隣に座る黒子もそれを感じ取ったのだろう。ポーカーフェイスを崩し、眉を寄せて、彼の言葉に耳を傾ける。

「これは紙面上の契約でしか無いと僕は思っている。互いの利害が一致している、それだけだ。」

 此処に愛は存在しない、結婚という名の契約。まるで会社間の取引のような音色で紡ぎだされた言葉に、この結婚の意味をみやこは改めて突きつけられた。姓は栗原から赤司に変われども、彼は己と夫婦になるつもりは毛頭ない。そう言っているのだ。そんな相手に苛立ちのような感情を覚えた彼女は、せめてもの反抗に小動物のような睨みをみせる。勿論彼には痛くも痒くもないものだが。

 仮面夫婦故なのかどうかは置いておいて、彼と別室というのは極めて有難いものだった。栗原家の自室と似たような作りの部屋と持ってきたばかりのであろう自身の衣類。黒子に一言だけ告げ、きつく絞められた帯を解き、洋服に着替える。呼吸がしやすくなった体で思い切り酸素を取り込み、盛大に溜息を漏らしたみやこに、黒子は呆れたような笑みを漏らした。

「…すっごく嫌な人だったわ」
「そうも、見えますね」
「テツヤにはそう見えなかったの」
「いえ、そういう訳ではないんですが」

 寂しそうな目をした彼と、諦めの色に染まった彼女の目。彼らは何処か似ていると黒子は感じてしまった。しかし主であるみやこも赤司も、それを強く否定するのだろう。思わず出てきそうになった言葉を飲み込んで、彼にも我々には話せない事情があるんでしょう等と口から出任せ…、とまではいかないが、嘘を滲ませた言葉を吐き出す。
 残りの昼夜は自室で読書に勤しみ、食事も自室で黒子と頂く。現代でいうところの引き籠りのような態度をとるみやこに黒子は頭を抱えた。いくら名ばかりの夫婦とはいえ、夫婦間、そして彼らの会話があれだけでは世間にも示しがつかない。大財閥と大企業の提携、そして結婚。いくらコソコソと動いていたとしても、何時かは世間にバレてしまう。それどころか彼らの両親はいつ世間に公言しようかと話している、なんて噂もある。
 まずはみやこの心の蟠りを取り除くところから始めなければならない。そう思い立った黒子は、一人がけのソファに腰掛け、洋書を読み耽る彼女の肩を叩き、その意識を此方に引き戻した。

「みやこさん、せっかくですし黄瀬様にお手紙を書いてみては如何でしょう」
「…でも、此処のお家から郵便を出すのは」
「僕がこの手で黄瀬様にお届けします」
「テツヤ…」

 黒子の一言に弾かれたようにみやこは机に向かう。お気に入りの万年筆と便箋。みやこが彼に向かって手紙を幼い頃以来である。今まではそんなツールが無くとも、互いに愛を囁き合えたのに。今はこれらの媒体なしには本音も気持ちも伝えられない。黒子の提案に感謝しながら、筆を走らせるみやこは鼻歌を漏らす。逢えない彼にこの気持ちだけでも届けられれば、と。


「ねえ真太郎。君はこの度の結婚のこと、どう考える?」

 赤司財閥の現在の財務諸表を眺めながら、コーヒを一口だけ嚥下した赤司が近くにいた緑間に声をかける。現在の経営状況、そしてこれからのこと。全てを計算した上で客観的に判断しても、栗原家との提携は赤司財閥にとってプラス要素が少なすぎた。栗原家の前期P/Lとそろばん片手にこれからの事を計算するも、すぐに先が見えて飽いてしまう。
 じゃあどうして彼女との結婚が提案されたのか。赤司家の両親は政略結婚だと言い張っていたが、彼は裏があると睨んでいる。この結婚の裏側で財閥に関わる何かが動いているのか。それとも、自身に関する何かが動いているのか。思慮深さに比例し、同様に深くなる赤司の眉間の皺に緑間は小さなため息を漏らし、彼を優しく苛んだ。

「貴方様は深く考えすぎです」

 緑間真太郎。かつて、彼は赤司家のバトラーだった。しかし赤司が本家を出るにあたり、その職を辞し、今は赤司の側近として、彼の右腕となり様々な分野で手助けをしている。みやこと黒子にも似たような関係だが、ある意味では彼らよりも深い信頼が。またある意味では彼らよりも浅はかな関係だろう。
 そんな彼は今回の結婚で赤司の肩の荷が降りないものかと考えている。今まで彼は「独り」でいる時間が多すぎた。愛も優しさも知らない環境で育ちすぎた。ただただ「赤司財閥の後継者」という看板を背負い込んで、人生を歩み、生き急いでいる。赤司自身にその気がなくとも、緑間の翡翠色の瞳にはそう映った。彼にとってみやこは救世主のようにも見えた。少しばかり不機嫌そうな顔も、内に秘められている感情的なものも、全て赤司征十郎という人間には欠落しているもの。彼女と過ごすことによって、少しでも刺激になればいい、安息の地ができればいいと。

「もう少々、気楽に構えられてください」

・。

゜。

゜・

 翌朝、みやこが目を覚まし背伸びをしていると、部屋のドアが開かれた。ノックもなしにみやこの部屋に入ってくる人間はただ一人。お構いなしに今朝の献立は何なのかと尋ねるも、その問に対する返答は無い。少しの間を開けて、「本日の朝食はリビングでとりましょう」と微笑んだ彼の有無も言わせぬ口調に、みやこは首を縦に振るほかなかった。
 リビングには朝だというのに大層豪華なものが食卓に並んでいた。しかしながら、此処の使用人はみやこが視認したところ、黒子を除いては緑間しかいなかったはずである。では一体誰が。用意されていた席に腰掛けながら、彼女は近くにいた黒子へとその疑問をぶつける。無論、料理は苦手としている黒子が作っているという答えを省いて、だ。

「それは私がご用意させていただきしました」

 カチャン。座ったばかりのみやこの前に温かなスープが用意される。声の主は、やはりというか緑間だ。お上手なんですねと声をかければ、ゆるやかな笑みを浮かべ会釈を返された。彼は何処までも優雅という言葉が似合う使用人である。
 食事を進めていく内に、とある違和感にぶち当たった。…― 彼の、赤司の姿が見えない。グラスに注がれた水で食事を流し込み、彼の側近である緑間に声をかける。

「あの、赤司さ…、いえ。征十郎、さんは」
「旦那様なら早朝に出社されました」
「そう、ですか」

 夫婦とはいえ、本当に互いに干渉しないつもりなのだろうか。ただの同居人なのだろうか。否、仕事に行く行かないなど、最低限のことは同居人でも知っている。それ以下の存在ということを目の当たりにしてしまったようで、みやこの気が少しだけ滅入る。小さい頃から共に過ごしてきた黒子には、彼女が考えていることがわかったのだろう。握りしめた拳の内側に、ほんの僅かであるが爪痕がついた。


 「じゃあ行ってきますね」 

 みやこから黄瀬への手紙を預かった黒子が赤司家を後にする。本来ならば許されない行為ではあるが、緑間は目を瞑ると言ってくれた。彼の厚意に甘えつつ、黒子は「すぐに戻ります」とだけ告げた。
 緑間と二人きりのリビングはやけに広く感じる。赤司家は純和風な佇まいだという噂をかねがね耳にしていたが、この家の様子から見ると息子は洋風が好きらしい。紅茶を用意するから待っていて欲しいと言われたみやこは、ソファに座りながらそんな事を考えていた。

「おまたせいたしました」
「ありがとうございます」
「敬語はよしてください。貴女は旦那様の奥様なんですから」
「えっと…、はい」

 いくらみやこといえど、知り合ってまだ二日目の人間と二人きりという空間は辛いところがある。立場が同じであればよかったのだが、現在対峙する相手とは主従関係、になる。ちびちびと紅茶を飲むみやこの様子を窺う緑間。彼らの関係が対等であれば、今頃は緑間も共に紅茶を楽しんでいたのだろう。
 鼻を抜けていくアッサムの香りと午前中の緩やかな時間をみやこは楽しむ。気にしないようにすれば、必要最低限の言葉しか交わさない緑間なんて、彼女にとっていないも同然。カップを手に取りもう一度口をつけた。

「旦那様のことですが」
「え、」
「あの方は決して冷たいお人では御座いません」
「…唐突なんですね」
「奥様にはどうかそれだけは知っていて欲しく」

 逆光で彼の表情はみやこには伺えない。ただその言葉尻から感じる、彼の微笑みにみやこは眉を潜めた。怪訝そうな顔つきが逆側に居る緑間には筒抜けである。そんな彼女をみて、緑間はまた眉を下げながら微笑んだ。

・。

゜。

゜・

 黄瀬家のエントランスで、黒子はお目当ての人間を待つ。栗原家より大きく、赤司家と同じような佇まいを醸しているのは、やはり此処も大財閥ということだろう。
 数分後、綺羅びやかな黄色を纏った男性が不機嫌そうに黒子の元にやって来た。少しだけ視線がきついのは致し方無いと、黒子はその鋭い眼光を受け入れることにする。

「みやこさんからのお手紙です」
「は、」

 己の眉も寄ってしまっているのかもしれない。顔面を弛緩しようと思った刹那、驚いた黄瀬によって手の中の手紙は掻っ攫われた。あっという間に彼の手の中に渡っていった手紙。愛しくて仕方なのない相手からの文に黄瀬の手も、視線も止まることを知らない。
 みやこからの手紙の内容は『お別れもできずに申し訳ない』『貴方と結婚するのだと思っていた』『出来る事なら貴方と幸せになりたい』『今でも貴方を愛しています』というもの。彼らがどれだけ互いに愛し合っていたのか。ゆらゆらと揺れるハニーイエローが、ぽろりと小さな水晶を溢す。相思相愛だからといって、全ての恋が結ばれ愛になるとは限らない、ということだ。
 ぐしゃりという音に黒子の胸は飛び跳ねた。その音の出処である黄瀬にそっと視線を送れば、彼の左手にあるみやこからの文は、込められてしまった力のせいでくしゃっと潰れてしまっていた。…潰れるのが文だけであれば、どれだけ良かったのだろうか。

「テツくん、これ、本当なんスよね」
「勿論です。僕が代筆したわけでなく、みやこさんが直々に」
「そう。…青峰、青峰はいるか」

 青峰という名を叫んだ彼の顔は依然として険しいまま。それどころか、彼の体は怒りに震えているではないか。そんな少しだけ俯いた彼の後ろから、深い青色の髪をもつ男性が気怠そうに歩いてくる。引き摺るような足音が黒子の勘を裏付けた。彼、青峰大輝はまだ黄瀬家に雇われているのか。

「んだよ、黄瀬。昨日も遅くまで扱き使われて、超眠てえんだけど」
「赤司を潰す」
「…は?正気かよテメー」
「冗談でこんなこと言うと思ってんスか」
「ま、いいんでねーのっ。何をやるにもスリルがねえと面白くねえしな」

 にやり。口の端だけ笑うような顔をした青峰に、黒子の背中に悪寒が走った。表向きは何でも屋だが、本来は夜の闇に紛れ、暗殺を遂行する殺し屋である青峰にとって、赤司家を潰すということは大層な暇つぶしなのだろう。何人もの人を殺めてきた彼の手がパキポキと音を鳴らした。
 前述のとおり、赤司家よりは幾らかは劣るが、黄瀬財閥も相当大きな財閥だ。そこが赤司を喰らおうとしている。ただ一人の女性を巡る財閥間の争い。引き金は小さなちいさな女性だが、巻き起こるは世界経済を揺るがす争いになりそうだ。

(121010)
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