平均寿命は40代前半といわれ、以前までの女の賞味期限は20歳までだった。そんなご時世に政略結婚など珍しくないことである。それは、今年学習院を卒業したばかりのみやこも例外ではなかった。
 最近、父の会社の経営が波に乗ってきた。今までも並よりも良い暮らしをしてきたのはみやこの幼い感覚でもよくわかった。だが最近はそれに拍車が掛かっている。疑問に思ったみやこが近くにいた使用人に聞いても、表情を濁すだけで明確な答えは返ってこない。悶々とした気持ちを抱え、日々を生活するしかなかったのだ。しかし、その疑問は思わぬところで、衝撃の答えをみやこにもたらした。

 ある夕食での事だった。広すぎる空間は家族が揃って食べる事を前提として造られていたが、近頃は皆バラバラに食事をすることが多かった。しかし今日は珍しい事に母も父も、それに上の兄たちも揃っての夕食である。一代で日本で名立たる企業にのし上げた父を兄たちは尊敬していた。今彼らが交わす会話の節々からも、そういったものが汲み取れる。数カ月ぶりの家族団らんの賑やかな食事。心が暖かくなる感覚にみやこは湧き上がる笑みを噛み殺した。

「こうして家族皆で食事をするのも今日が最後だからな」

 ぽろりと父が溢した一言。その言葉に母は眉を顰め、兄たちは驚きを含んだ諦めの表情を作った。最後とは一体どういう事なのだろうか。一人状況を理解できていないみやこを他所に、父は話を進めていく。

「みやこの将来も安泰、うちの会社も安泰。明日は素晴らしい門出の日だ」
「あなた、まだみやこには…」
「…ああ、すまない。そうだったか」

 不安そうな目をするみやこを視界に捉えたのだろう。父の声が少しだけ言い淀む。兄たちも気持ち沈んだような顔をしながら父の話を聞いており、ますますみやこの不安は募っていくばかり。父が鼻を少しだけつまむ。その仕草は、彼がなにか言いづらいこと、後ろめたいことがある時に出る癖だ。ただの不安が、ずしっとした重量を持ちだした。

「我が社にな、とても心強いバックがついたんだ。皆も名前は聞いたことあると思うが…、あの赤司財閥だ。『ある条件』を飲めば、うちに支援してもいいと向こうから提案していただいてな。これから更に会社を大きく安泰なものにしたいと思って、私はその条件を飲むことにしたんだ」
「父さま、」
「その条件というのが赤司財閥の一人息子と結婚すること、だ」
「ねえ、もしかして、そのお相手って」
「ああ、みやこ。お前だ」

― カラン。
 あまりの衝撃にみやこの手から銀食器が滑り落ちる。シンと静まりかえった部屋にはやけに大きな音となり、誰しもの耳に悲痛なものとして届いた。至極息苦しい静寂。家族が無言を貫く中、ぽろぽろと涙を溢すみやこの嗚咽混じりな、小さなちいさな否定の声が木霊する。

「いやよ、わたし、とうさま、わたっ、」
「すまない」
「やだ、だって、りょ、たさ、」
「決まったことだ」
「でも、わた、きょう…」
「みやこ、私はお前をそんなに聞き分けのない子に育てた覚えはない。…お前はうちを出ても栗原家の子には変わりない。例え赤司の名字頂いたとしても、栗原の名に恥じぬよう肝に銘じておけ」

 普段は柔らかな父の声が鋭い刃物となり、みやこの心に突き刺さる。先ほどまでそこで温かみを感じていたというのに。父の言葉に温度など存在しなかったのだ。
 食事もそこそこにみやこは泣きながら席を立つ。後を追いかけようとした母を「放っておけ」と父が冷たく制した。その言葉に従い、それから誰も彼女を追いかけるものはいなかった。ただ一人を除いて。

 齢18の少女に宛てがわれたにしては広すぎる部屋。その部屋の片隅で、彼女は丸くなって涙を流す。どれだけ理不尽だと思っても、時代が時代なのだ。父には抗えない、女が男に勝てるなど不可能。わかっていても、理解りたくないこと。結婚するということはとても喜ばしいものだと知っているのに、込み上げる涙を抑える術など生憎みやこは持ち合わせていない。
 彼女がしゃくり上げ出した頃、きぃ…と扉の軋む音がする。誰かが部屋に入ってきたのだろう。気配なく大広間から出て、気配なくこの部屋まで来れる者をみやこは一人しか知らない。顔を上げずとも分かる存在の名を呼べば、「はい」と彼の声が聞こえた。ああ、やはり。この部屋を訪れたのは彼だ。

「ねえ、テツヤ…」
「なんでしょうみやこさん」
「貴方も、このことを、知っていたの」
「…すみません、存じておりました」
「そう…っ」

 黒子テツヤ。両親が栗原家の使用人として仕えており、また彼も幼い頃からずっとみやこの側に仕えてきた。彼女の嫌いなこと、好きなこと。彼女の初恋も、ファーストキスの相手も。彼がみやこのことで知らないことは殆ど存在しない。だから彼には彼女が流す涙の意味も手を取るようにわかってしまう。それは例外なく、今もだ。

「気に病んでおられるのは、黄瀬様のことですね」
「…テツヤにはばれちゃうのね」
「いえ、常にご家族よりも想っていらっしゃった相手のことですから…」
「それもそうね。…私は涼太さんと結婚するんだと信じて疑わなかったのに。顔も知らない、声も知らない、年齢も性格も何もわからない男性の所に輿入れしなきゃならないなんて…。父さまの口ぶりだと、明日のことなんでしょう」
「…お察しのとおりです」
「やっぱり。…私達は別れすら惜しめないのね」

― 哀しいわ。
 顔を上げたみやこに月明かりが降り注ぐ。小さな頃から抱いていた淡いピンク色の夢は儚く散り、夜空の星屑となってしまった。きっとこの部屋から月見するのも、これで最後なのだろう。枯れることを知らない涙が、つうっと頬を伝う。部屋の入口で立ち尽くした黒子には、それがとても幻想的なものに見えていた。

・。

゜。

゜・

 翌朝目覚めた時には、クローゼットに仕舞っていた服は殆どなくなっていた。恐らくみやこが寝ているうちに準備されていたのだろう。今日という晴れの日を祝わんとばかりに、使用人たちは嬉々としてみやこを粧しつけた。袖を通した着物は、今まで着たどんなものよりも肌触りが良い。
 玄関の外に出れば、車の排気ガスが嫌いだというみやこの為に、今までに乗ったどんな馬車よりも豪華なものが用意されれた。それは、どれだけ今回の輿入れが重要なものなのか。理解りたくないと遮断したみやこの思考にも、深く侵入してくる。

「今日からお前は赤司家の人間だ。もう栗原の名は語れないが、栗原家の娘として恥じぬ行動を心がけるんだぞ」
「…はい」
「ごめんなさいね、みやこ」
「母さま…」

 きっと母も『そう』だったのだろう。娘の気持ちが痛いほどわかるのか、目には涙を浮べている。同じように涙を浮かべ下唇を噛む娘の姿を、かつての自分の姿に重ねているのだろう。この結婚がどれだけの苦痛を伴うのか。それは経験したものにしか分からない痛み。晴天に恵まれた、素晴らしい門出のはずなのに、おめでたい顔をしているものは一人もいない。
 家族や使用人に別れを告げた後に、ゆっくりと乗り込もうとした馬車。着物では乗りにくい高さに悪銭苦闘していると、車中からそっと手が差し伸べられる。やけに見覚えのある掌の先には黒子の姿があった。心底驚いた彼女が何故と尋ねるのは仕方のないこと。黒子は栗原家に仕えていたのであって、みやこ自身に仕えていたのではない。驚いたままのみやこの手をとり、そっと車内へエスコートする。その顔は薄っすらと笑みを浮かべていた。

「本日付けで、赤司家の使用人となりました」
「どういうこと…?」
「旅立つ娘へ、奥様の計らいでございます」
「テツ、ヤ」
「僕がみやこさんのことを、これからもお側でお守りいたします」

 彼の言葉が発車の合図だったのだろうか。車内はガタガタと揺れだし、少しずつ家族と離れていく。もう帰れないのだと、何処かで確信していた。もう戻れないのだと、心に刻み込まれていた。
 車窓を流れる景色。暫くは近所のこの景色を見ることも叶わないだろう。網膜に焼き付けるように眺めていると、見知った黄色が視界に入る。向こうも彼女の存在に気付いたのだろうか。一瞬であったが、確かに彼は目を見開き、薄い唇は彼女の名前を象った。

「あれは、」
「りょう、たさん…」
「そのようですね」
「…結局お別れも言えなかったわ」

 みやこの瞳が諦めの色に染まる。幼い頃からの夢だった、彼のお嫁さんになることは叶わぬものとなった。世界経済にしか祝福されない、哀しい結婚。もしも相手が彼だったならば、世界中の誰にも祝福されなくとも、幸せなものになっただろう。きっと彼はお世辞抜きにみやこのことを一生愛してくれたのだろう。もちろん与えられるだけではない。みやこ自身も彼を愛し続けたのだろう。そんな事を考えれば考えるほど、みやこの目頭は熱くなる。

「二度と会えないわけではありません」
「…そうだといいわ」

 気休めにしかならない言葉も、今のみやこには暖かすぎた。二度と会えないかもしれないのは、何処かで分かっていたはずなのに。会えたとしても、それは栗原みやことしてではなく、赤司家の妻として、だ。最愛の人の前で、別の男性の妻を名乗る。想像しただけでも吐き気を催しそうなシチュエーションに、みやこの瞳からまた滴が流れた。

・。

゜。

゜・

 見慣れない門の先にあるのは、見慣れない大きなお屋敷。赤司家は純和風な住宅だと有名だが、みやこの前に現れたのは何処からどうみても洋館である。今日から此処が貴女のご自宅です。と黒子が抑揚のない声で告げるも、みやこには何の実感もわかない。ただ大きすぎる屋敷はどこか寒々しい空気を纏っていて、何処か居心地が悪いものに思えた。
 馬車を降りれば、この家の使用人と思われる眼鏡の男性が一人。ペコリと会釈をすれば、深々とお辞儀を返される。その仕草一つをとっても、優雅なものだった。これが赤司家に仕える人間の姿、なのだろうか。

「お待ちしておりました、奥様。旦那様が中でお待ちでございます」

 『奥様』に『旦那様』、聞きなれない単語に、みやこは思わず顔をしかめた。そんなみやこを注意するように、黒子は小さく手をはたく。眼鏡の男性は、歩きながらではあるが自身が赤司家の使用人兼赤司家一人息子の側近であること、名前が緑間であることを告げた。世界的な財閥の使用人。おそらく上級位の者だろう。一つひとつの仕草が異様に優雅だ。
 玄関を開けた先には、さぞやたくさんの優秀な使用人が居るのだろう。そう考えていたみやこの想像は、綺麗に打ち砕かれてしまう。…中には誰も、いないのだ。閑散とした廊下を進み、緑間と名乗った使用人曰く『旦那様』の書斎へと案内される。控えめにノックされた音へ、落ち着いた男性の声が返ってきた。
 通された部屋は、所狭しと並んだ書籍と溢れかえるほどの書類。決して散らかっているわけではなく、綺麗に整理整頓されている。部屋の主の性格がよく出てるようだ。その中に鎮座する、赤。きっと彼が…――。

「いらっしゃい、みやこさん。ああ、いらっしゃいと言うのも変だね。僕が赤司征十郎です」

 これからよろしく。腰を落としていた場所から立ち上がりはせず、彼はみやこたちへ挨拶する。― とても綺麗に笑うのに、瞳がまったく笑ってない。寂しいお人 ―。それがみやこの抱いた、彼、赤司征十郎へのファーストインプレッションである。
 今日から二人は夫婦という型に収まり生きていく事になった。それが吉と出るか、凶と出るか。今はまだわかりやしない。

(121004)
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