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甘い香りが鼻腔を擽った。きつくもなく薄くもなく、ほんのりと淡く、どこか懐かしくて優しい香り。すん、と鼻を動かせば、その香りの元はすぐにわかった。通りの向かいにある喫茶店からだった。その香りに釣られるようにして喫茶店へと向かう。気がつけば僕の手はドアの取っ手にかかっていて、手を引こうとしたときにはもう、ドアベルがからんと軽い音を立てて店の主に客の来店を知らせていた。
いらっしゃいませ。店主の声。入ってしまったものは仕方ない、紅茶の一杯でも飲んで出よう。窓際の隅、よく日の当たるそこに座って、僕は店主が差し出したメニューに目を通す。紅茶にコーヒー、軽食。それからデザート。写真入りのそのメニューは使い古されているのかところどころ色褪せている。メニューが古くて申し訳ないね。店主がからからと笑って、僕は首を振ってそれに応えた。この店を開いてからずっとメニューを変えていないんだ、だからどうしてもね。店主は続けて言う。
紅茶を一杯、そう言おうとして、メニューを捲って。最後のページにやけに鮮やかな写真が一枚。僕はそれに目を奪われていた。
鮮やかなのはフルーツだった。数種類のフルーツが器を飾り立てて、生クリームの白が色をより鮮明に引き立てる。その中央。滑らかな黄色と、つやつやとした茶色。懐かしくて、思わずじっと見つめてしまった。紅茶と、プリンアラモードでいいかな?店主の笑い混じりの声に、頷いてしまうのは懐かしかったから。だから、これも仕方がないのだ。
物心付いた頃はそれほど甘いものが好きではなかった。甘い菓子は舌が痺れる。いつまでも口の中に残る甘みも苦手だった。それに、菓子は子どもが食べるものだ。僕には必要ない。屋敷の料理人が作ったデザートを押しのけて、食事の席を立ったことは一度や二度ではない。坊ちゃんは贅沢ですね、僕のオリジナルが生きた時代には甘いものなんて貴重だったのに。不満そうにそう言うシャルに、じゃあお前が食べればいいだろうが、と反論したこともまた、一度や二度では済まなかった。
野菜は嫌い、菓子も嫌い、果物も嫌い、肉が嫌い。そう言って食べるものが偏っていた僕に使用人が手を焼いていたことも知っている。そもそも僕は食事に価値を見出せなかったから、生きるのに必要な栄養だけ摂取できればそれで問題ないと思っていた。シャルはそんな僕に最初こそ小言を連ねていたが、何を言っても僕の意識が変わらないと悟ったのか、やがて僕の食事についてとやかく言うことも無くなっていった。
そうしてしばらくして、再び僕の食事に口を出してくる人が現れた。マリアンだった。マリアンは僕の食事にとにかく気を遣って、どうすれば僕が好き嫌いなく食事をするかを苦心していたようだった。料理長と何度も話し合っていたらしい。らしい、と言うのも、僕が出された食事を完食するようになった頃にマリアンに教えてもらったのだ。マリアンは楽しげに笑いながら、本当にあの時は大変だったわ、と言っていた。
何を出されても食べようとしない僕に、マリアンが出してきたのがプリンだった。何の変哲もないただのプリン。黄色と茶色。生クリームもフルーツも載っていない。淡い香りがするそれを差し出して、一緒に食べましょう、とマリアンは笑った。プリンが二つ置かれたテーブルの向かいにマリアンが座って、スプーンを持っていた。僕は彼女の真似をして、恐る恐るスプーンでプリンを掬って。口に放り込んで、飲み込んで、甘い、と一言。マリアンがひどく嬉しそうに微笑むから。二口目を掬って、それから。空になった器を持ったマリアンは、また一緒に食べましょうね、と。そう言って、僕と指切りをしたのだった。
お待たせしました。ことりと店主が僕の前に置いたのは色とりどりのプリンアラモード。日の光を浴びてきらきらと光るそれに、僕は口元が緩むのがわかった。懐かしくて優しい香り。店先まで香ってきていたのはこれだったらしい。隣に置かれた紅茶の湯気が細く靡いていた。ああ、いい香りだ。
食事に意味を、価値を見出すようになったのはそれからだった。嫌いな食べ物が減っていった。味がしないと思っていた食べ物にもきちんと味があることを知って、僕が何かを食べるだけで喜んでくれる人がいることも知った。食事は誰かが作ってくれていることも、食事が出されることは当たり前ではないということも、自分で作ることが想像よりも遥かに難しいことも、きっと僕一人では知ることもなかっただろう。
美味しいかい、お客さん。店主が人のいい笑みを浮かべて僕を見ていた。ああ、美味い。僕が答えると、店主は満足そうに店の奥に戻っていった。かちゃかちゃと店主が食器を洗う音だけが響いていた。
あ、それオレが食べようと思ってたやつ!へっ、早いもん勝ちだ!弟分におかずを分けてやることもできないのかい、あんたは!ちょっと待て、人聞きの悪いこと言うな!あ、おかわりちょうだい。どれくらい食べる?んー、もうちょい、そう、それくらい!あっ、ずるいよ!オレもおかわり!はいはい、いっぱいあるから慌てないの。
思い出すのは賑やかな声だった。彼らと共にする食事はいつだってうるさいくらいに賑やかで。食事くらい静かにできないのか。僕が呆れてそう言うと、彼らは一斉に僕を見た。それから似たように笑って、少年の、賑やかな方がご飯も美味しいだろ!という言葉に同意するように頷いた。ジューダスだってそう思ってるくせに。そう言って笑った少女に否定の言葉を吐こうとして、出会った頃よりたくさん食べるようになったもんな、という男の言葉に閉口して。手に持った器いっぱいに入った食事に、僕は。
ご馳走様、スプーンを置いて、紅茶を最後の一口まで飲み干した。財布を取り出した僕に店主は、お代はいらないよ、と笑う。あんなに嬉しそうに食べてくれる人からお金なんて受け取れないよ。弾んだ店主の声に、僕ははじめて、自分が笑っていることに気づいたのだった。




あの日のペールモーベット




20200715

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