TOD2 18th Anniversary | ナノ







 そこは、いつ訪れても雨が降っていた。十八年前の騒乱のその後、降り注いだ外殻は大半が取り除かれることはなく、かつて栄光を極めたセインガルドの、その王城は今や見る影もない。正面には大きな門があった。花々が咲き乱れ、大きな噴水が城を訪れた者を出迎える。多くの兵士や研究者、政治家、使用人なんかが忙しなく行き来する城の前。中へと続く扉を開ければ豪奢な飾りが目を奪う。煌びやかな空間。目を閉じれば簡単に思い出せる。そこで生きた記憶は、僕の中ではまだ新しいままだった。
 王城のすぐ傍。外殻の落下から運よく逃れたのだというその建物は、いつだってそこに佇んでいる。ダリルシェイドの誰もが知っていたその屋敷の主はもういない。空っぽの屋敷は、今では教会となっているようだった。なんて皮肉な話なのだろう。自らが神に取って代わろうと神の眼を奪い、世界を混沌に陥れた男の屋敷が。そして、今まさに神に逆らって神を打ち倒さんとしている男が暮らしていた屋敷が、神を称える教会になるだなんて。屋敷を見上げて笑ってしまった。屋敷の前で食事を配給する女が、こちらを訝しげに睨んでいた。


「……何か御用ですか?」

「ああ。中を見学させてもらいたい。構わないだろうか」

「教会はどんな人も拒みません。ご自由にお入りください。あなたにアタモニ神の御加護がありますように」


 自分の家に戻るのに他人の許可を得る必要があるだなんて、あの頃の自分が知ったら大層憤慨したことだろう。けれど、今の僕には何の感慨も浮かばない。かつての自分が住んだ屋敷。確かに、この場所には大切なものがあった。何があろうとこの屋敷に戻ってくる、明確で絶対的な理由があった。それももう、遠い昔の話だ。
 屋敷の扉を潜る。何度来たって面影はない。王城とはいかないまでも派手に飾られたエントランスホールには、朝から晩まで誰かがいたものだった。マリアン、声を上げれば、彼女は何の仕事をしていたって僕のことを出迎えてくれた。おかえりなさい、エミリオ。最後にそう微笑む彼女に迎えてもらったのはいつだったか。思い出そうとしてやめる。思い出の中だけでも彼女が微笑んでくれている。それだけで充分だった。


「あなたもお祈りですか?そんなところにいないで、どうぞ、神の前へ」


 ぼうっと立ち尽くしていた僕に、いるかいないかもわからない神に祈りを捧げていた神官がそう声を掛ける。声に従って神官の前に立った。見上げたそこには女神像がある。既視感。エントランスホールの中央、そこから上の階を見上げると、女性の肖像画が見えたものだった。ちょうど、女神像が掲げられているあたり。薄く微笑む女性が、僕の母親らしかったその人が、いつでもそこで佇んでいた。
 さあ、ご一緒に。神官に促されるが、生憎と神に祈るつもりはない。目を閉じる神官に背を向けて、僕は足音を立てないようにそっとその場を後にした。広い屋敷の隅の方。暗闇に紛れてしまいそうなその場所に、地下へと続く階段がある。以前訪れた際は警備兵が立っていたのだが、丁度持ち場を離れているらしい。杜撰な警備に失笑しながらも、騒ぎを起こすつもりもなかったので今はその杜撰さには目を瞑る。僕はただ、忘れ物を取りに来ただけなのだ。


「……ここは相変わらずだな」


 明かりもまともに灯っていない薄暗い地下室。ただの物置だったはずのそこが地下牢として使われていると知ったとき、唖然としたことを覚えている。何も言えない僕に代わって、背中に隠した相棒が何事かを騒いでいたことも。その声に冷静さを取り戻して、いつになく素直に相棒に向かって感謝の言葉を紡げたことも。忘れるほど遠い過去の話ではなかった。
 薄闇に目を凝らす。燭台に火を灯せば多少は視界も良くなるだろうが、戻ってきた警備兵に見つかってしまうのはできれば避けたい。だからこうして手探りで目的の部屋を目指すしかないのだ。何をそこまで必死になる必要がある。頭のどこかで呆れたように囁く僕の声がした。僕はその声に小さく笑って、本当にな、と同意の言葉を返した。
 こつん、と爪先に何かが当たる感触がした。足元に目を凝らし、俯けていた顔を上げる。床に横たわる何かの根本から、うっすらと明かりが漏れていた。綺麗に両断された木の板。もとい、かつては分厚い扉だったもの。本来であれば垂直に立っているはずのそれが床に横たわっているのは、以前、僕が叩き斬ったからである。あれからそれなりの時間が経っているにも関わらず放置されているだなんて、神官や警備兵たちは余程この屋敷の状態に無頓着らしい。まあ、修繕されていたら再び叩き斬るところだったので、その手間が省けたとも言えるのだが。


「……ふ、懐かしいな」


 ぼんやりとした明かりが灯ったその部屋は、以前訪れたときと何ら変わらない。薄汚いベッドがいくつか。きちんと置かれているのか、放置されているだけなのか、判断に迷う雑貨たち。天井に吊るされたハンモックには、所狭しと蜘蛛の巣が張っている。シャルがぎゃあぎゃあと騒ぐ声が聞こえた気がした。蜘蛛の巣を払うのにシャルを使ったら、彼は泣き喚くようにして、ひどいですよ坊ちゃん!と叫んだのだった。思い出して、堪えきれずに笑いが漏れる。彼と別れたのもそう遠い日のことではないというのに、ひどく懐かしい気分になった。
 エルレインだかフォルトゥナだかに再び命を吹き込まれて、真っ先に訪れたのはここ、ダリルシェイドだった。ダリルシェイドの惨状に絶句して、あの時の自分が犯した罪を自覚して、何かに縋るように、或いは逃げるように、唯一自分の記憶のままの形を保っていたこの屋敷にやって来た。中に足を踏み入れ、そこに、自分の知る屋敷はもうないということを思い知らされて、屋敷の中を彷徨うようにしてこの地下室へ迷い込んだ。
 薄暗いここで、シャルを抱えながら。ぐずぐずと痛む胸を押さえて、自嘲した。何故、僕はここにいるんだろうな。漏らした言葉は、確かに弱音だった。その言葉を拾ったシャルが言う。何故かは僕にもわかりません。言葉に続いて、コアクリスタルがちかりと瞬いた。だけど、坊ちゃんは今ここで生きています。じゃあもう、生きるしかないんですよ。


「生きているからには、生きるしかない、か。よく言ったものだな、シャル」


 背中に手を伸ばす。そこに相棒の姿はない。いつだって傍で僕を見守ってくれた相棒であり、兄弟であり、僕の唯一であった彼は、彼の意志で、この世界を続けることを望んだ。かつての仲間たちと共に世界を救う道を選んだのだ。本当は、離れたくなかった。だなんて。そんな我儘、言えるはずもなかった。
 坊ちゃん。僕を呼ぶ声が聞こえた気がした。幻想を振り払うように首を振る。いつまでも彼に甘えているわけにはいかない。生きているからには、生きるしかないのだ。後ろを振り返ってもいい。横道に逸れることも時にはあるだろう。けれど、生きているからには、前に進まなければならない。進まなければ未来はない。未来がなければ、その先もない。その先で待っているだろう幸福も、奇跡も、何一つ訪れやしないのだ。
 僕はもう、そのことを知っていた。いいや、教えてもらったのだ。僕が導くつもりで、いつの間にか僕が導かれていた。僕を『ジューダス』と呼んで、何もかもを知っても受け入れて、共に行こうと手を引く彼らに。呆れるほどにお人好しで、馬鹿みたいに真っ直ぐで、愚かなほどに前しか見ていない、僕の仲間たちに。


「なあ、お前も一緒に見届けてくれないか?」


 無造作に置かれた机の引き出しを静かに開ける。少ない明かりを反射して、きらりと輝いたのは金色だった。手に取るとしゃらりと軽い音を立てる。金色のイヤリング。いつだって僕の傍にあって、僕の選択を見守り続けてきたそのイヤリングを、ここに置いていったのは決別のつもりだった。
 過去との決別。或いは、過去を捨てたかったのかもしれない。『リオン・マグナス』の一生を見届けたこのイヤリングをこの屋敷に置き去りにすることで、すべてを過ぎ去った時間の中に埋めてしまいたかったのだ。そんな人間はいないと、大罪人である人間が生きていてはいけないのだと、言い聞かせるように。僕が、正しく自覚するように。きっとシャルはすべてをわかっていたのだろう。いいんですか。イヤリングを外す僕に小さく問い掛けて、僕が肯定を返して、その後はもう何も言うことはなかった。


「お前はいつだって僕と共に在ってくれただろう?だから、最後まで見届けてほしいんだ」


 ずっとずっと幼い頃まで記憶を遡って、どこまで遡っても、このイヤリングは僕と共に在った。誰かに贈られた記憶はない。そもそも、僕に贈り物をする人間などいなかった。それにも関わらず、このイヤリングは僕の手元にあり、耳元で揺れていた。これは、恐らく、僕が持つ唯一の家族との繋がりなのだろう。真実は違うのかもしれない。けれど僕は、そう信じていた。僕は、どこかで家族と、誰かと繋がっていると、そう信じていたかったのだ。
 僕はいつだってこのイヤリングを外すことはなかった。誰も何も言わなかった。こんなちっぽけなものに縋るしかなかった愚かで弱い僕を憐れんでいたのかもしれない。それでもよかった。僕はひとりではない。そう思えることで、僕は立ち上がることができたのだから。
 イヤリングを握り締め、その度に手のひらに広がっていた無機質な冷たさを思い出した。あの頃を生きた僕が、その冷たさを振り払うようにしてイヤリングを身に着ける。耳元で鳴るしゃらりという涼やかな音が、本当は少し嫌いだった。惨めな僕を認めるようで。僕は哀れな人間なのだと自覚するようで。記憶の中の小さな自分が、心のどこかで泣いていた。手のひらに広がる切り裂くような冷たさは、きっと、僕自身の痛みだった。

 イヤリングを握り締める。手のひらに広がるのは、じんわりと染み渡るような、あたたかさだけだった。


「……僕は、リオンではない。僕は、ジューダスだ」


 イヤリングから伝わるぬくもりが、全身に広がっていくのがわかる。あの頃は、冷たくて痛くて仕方なかったそれが、ただただあたたかい。その理由を、僕はもう知っている。僕はもう、リオン・マグナスではないから。僕は、ジューダスという、ひとりの人間だから。そう生きることを許してくれた仲間がいたから。僕はもう、ひとりではないから。


「一緒に行こう、リオン・マグナス」


 イヤリングを握り締めた。手のひらに広がるあたたかさを少しも逃すまいと、僕は目を閉じる。
 僕はもうひとりではない。仲間を信じると決めた。仲間を見守ると決めた。仲間を導くと決めた。仲間と共に最後まで歩くのだと決めた。ジューダスとして生きることを、決めたのだ。誰かを信じることができた。誰かを信じる自分を信じることができた。僕は、もう、あの頃を孤独に生きたリオン・マグナスとは違う人間なのである。
 暗い暗い地下室で、膝を抱えて眠り続ける小さな少年の、血が滲むほどに握り締められた手を引いた。本当は誰よりもひとりが恐ろしかったくせに、誰よりも誰かと繋がっていたかったくせに、誰よりも愛されたかったくせに、誰よりも愛したかったくせに、自分の感情に正直に、真っ直ぐに生きることを拒んだ少年に。手を引かれることのあたたかさを、教え込む。僕が仲間たちから与えられたその熱を、冷え切った彼の手に分け与える。顔を上げた少年に、僕は小さな声で囁いた。僕は、幸せだ。そう、一言だけ。
 イヤリングが僅かな光を弾いて煌めいた。月の明かりが涙を弾くようなその光に、僕は、もう一度だけイヤリングを握り締める。共に行こう。今度こそ、薄暗い場所ではなく、陽の当たる青空の下で、その日を迎えるのだ。仲間たちと笑い合いながら、燦燦と降り注ぐ陽の下で。
 それが、ひとりぼっちを嫌った僕らが、『エミリオ・カトレット』が望んだ、たったひとつのことだった。僕はそのことをきちんと知っていた。




彼方者よ、どうか此方まで




20201103


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -