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たとえばの話をするジューダスと否定するリアラの話




もし僕が志半ばで死んだとして。春のはじめに咲いた花がはらはらと宙を舞い始める頃。向かいに座った彼がぽつりとそんなことを言った。冗談でもそんなこと言わないで。咎めると、彼は朝焼けの空のような瞳をまあるくして、口端だけで小さく笑った。たとえばの話だ。重ねる彼にわたしは渋々口を閉じる。彼の話を遮りたいわけじゃなかった。たとえばの話にしては随分と縁起でもない話をするものだから思わず口を衝いて出てしまっただけで。わたしが不満そうな顔をしているのに気づいたのだろう彼はもう一度、たとえばの話だからな、と念押しした。温くなった紅茶に口を付けて、そうして話し出す。もし僕が志半ばで死んだとして。朝焼け色が遠く、遠くを見た。その先には眩しいものがあったのだろうか。それとも、見たくないものでも見えたのだろうか。そっと細められた瞳に映るものはわからない。けれどわたしは口を開かなかった。彼は遠くを見つめたまま、何度か口を開いては閉じて、目を伏せて、誤魔化すようにカップを手に取って。自分が話し始めたくせに、と詰りたくなった。喉元まで出かかったその言葉を呑み込んで、呼吸すらも呑み込んで、わたしはじっと彼の言葉の続きを待つ。はらはらと、どこからやって来たのだろう薄桃色をしたはなびらがひとつ。わたしと彼の間に降って落ちた。彼が口を開く。その時は、どうかお前たちの手で、僕を海へと還してくれ。その声の穏やかなこと。ちらりと見えた彼の口端にはやはり笑みが滲んでいた。まるで、世界中のしあわせを小さな鍋に詰め込んで、砂糖と一緒にぐつぐつ煮詰めて、シロップに溶かして、その上に真っ白な生クリームと瑞々しいフルーツをたっぷりと添えたような。そんなほほえみ。朝焼け色はわたしを見ない。どうして? わたしは問うた。どうして海へ? まさかわたしが問い掛けるとは思っていなかったのだろう。どろどろの微笑みが僅かに揺れて、わたしはその横顔をただただ見つめていた。海へ。それだけを紡いだ彼が再び目を伏せた。時計が時間を刻むかちかちという音がやけに響いて聞こえた。海へ還れば、どこへでも行けるだろう。かちかち、かちかち。わたしと彼の間に割って入るようなその音に耳を澄ませた。そうでもしないと彼の言葉を聴き逃してしまいそうだった。どこかへ行きたかったの? わたしは問いを重ねた。彼はゆるゆると首を横に振り、どこへも行きたくないんだ、と笑う。海へ還れば、海にとけてしまえば、海とひとつになってしまえば。どこへだって行ける。どこにだって在ることができる。海はこの世界のすべてに繋がっている。滑らかに彼の口からこぼれ落ちる言葉たちを拾って掻き集めた。この言葉たちを忘れてはいけないような気がした。朝焼け色は遠くを見ている。彼には海が見えているのだろうか。ひとりで海を見ているのだろうか。たったひとりで、果てを見ているのだろうか。嫌よ。吐き出した声は震えていた。はたはたと膝の上で握り締めた拳の上に雫が落ちた。嫌よ、絶対に嫌。海へなんて還すものですか。海になんてあげない。世界になんてあげない。だってあなたは。喉の奥が引き攣れて、みっともない音がする。遠くに居た朝焼け色がようやくわたしを映した。朝焼け色にわたしが映っていた。だってあなたは、わたしたちと一緒に生きるんだもの。目の前の彼は困ったように、或いは呆れたように肩を竦めた。人の話を聞いていたか? どこか馬鹿にしたような声音にかちんと来て、握った拳で乱暴に目元を拭った。聞いていたわよ、もしあなたが死んだらって話でしょう。自分でも驚く程に強い口調。当然彼だって目を瞠る。わたしは言葉を止めない。あなたが死んだって海には還さないわ。あなたはずっとずっとわたしたちと一緒に居るの。わたしたちと一緒に生きるの。離れるなんて許さない。どうしても海へ還りたいって言うのなら。椅子から立ち上がり、彼の横に立つ。普段はそれほど変わらない位置にある朝焼け色を見下ろした。それいっぱいに映ったわたしの顔は、ひどく悪魔めいたものだった。聖女だなんて名ばかりの、きっとわたしは悪魔だったに違いない。そう確信するくらいには。わたしたちも連れて行ってくれなきゃ許さないから。ぱち、ぱち、と二度瞬き。朝焼けの空の中、光る星がひとつふたつ。数えるのを止めてしまったその星の中にわたしの姿もあったのだろうか。わたしの疑問を読み取ったように、わたしに見下ろされた彼が全身を大きく震わせた。お前はもう少し賢いと思っていたのだがな。口元を華奢な手で覆い隠す彼。指の間から漏れる吐息はくつくつと弾んでいる。その吐息を聞いているうちに胸の内で渦巻いていた薄暗い、苛烈な感情が少しずつ晴れていくのがわかった。わたしはその感情の名前を、ぼんやりとだけれど知っていた。ジューダスが変なことを言うからじゃない。たとえばの話だとはじめから言っている。だとしても! 彼はなんでもないように、今まで交わした言葉たちがすべて綺麗さっぱり消えてしまったかのように、もしくは、そのすべてを丁寧に宝箱へ仕舞い込んでしまったように。いつも通りの顔をして紅茶を飲んだ。冷めているだろうそれに嫌な顔ひとつせず、それどころかとても美味しそうにする彼を睨んで、睨み付けて、わたしは目を閉じて、細く長く息を吐く。リアラ。わたしの名前を呼ぶ彼の声。彼が視線で示す先には薄くも厚くもない扉がある。扉の向こうから聞こえてくるのは太陽の足音だった。今の話、カイルには黙っていろ。細められた目。星が光る朝焼けの空。そこに映る口を尖らせたわたし。話したっていいじゃない。わたしは彼の正面の席に戻って椅子に座った。彼と同じようにカップを手に持って、同じように紅茶を口に含んだ。やはり冷めていた紅茶は、不味くはなかったが特別美味しくもなかった。きっと、カップの底に溜まったどろどろの砂糖のせいだろう。どうせ、カイルだってわたしと同じことを言うに決まってるわ。朝焼けが瞬いて、口元には薄らと三日月が浮かぶ。まるで、世界中のしあわせを小さな鍋に詰め込んで、砂糖と一緒にぐつぐつ煮詰めて、シロップに溶かして、その上に真っ白な生クリームと瑞々しいフルーツをたっぷりと添えたような。それを口にしてしまったときのような、そんな微笑みを浮かべた彼は、そうかもしれないな、と朝焼け色を揺らしながら肯定を紡いだ。ゆらゆらと、凪いだ海のようにささやかに揺れる朝焼けの空に太陽が昇るまで、あと。




に艶羨




20210410


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