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フィリアと仮面の彼の話




 アジトと呼ばれている浮遊島の建物の一角。書庫の隅のよく陽の当たる場所には大きめのテーブルがひとつと数脚の椅子が置いてある。そこで本を広げているのはほとんどいつも同じ人たちで、彼らは各々の目的のために本と向かい合っている。ある人は研究のため、ある人は物語に没頭するため、ある人は持て余した時間を潰すため、またある人は、他人の目から逃げるため。本を捲る音だけが響くその空間は在りし日の知識の塔を思い出すようで、私はその場所をとても好んでいた。テーブルの、入口から見て右奥。いつの間にかその場所が私の定位置になっていて、私がどんな時間に書庫を訪れて、他のどの椅子が埋まっていても、その椅子だけは常に空いていた。ここを利用する人たちのさりげない優しさに感謝して、私は今日もその椅子に座る。私の右側にはリタさんが、左側にはクラースさんが。同じような顔をして、同じような分厚い書物に目を通している。いつも通りの風景。
 そして、私のちょうど真向かいに当たる場所。入口から見て左の手前側。そこにいるのは黒い服を着て白い仮面を被ったその人だった。
 その人はいつでもそこに居た。数冊の本とティーカップがひとつ。いつでも彼の前には置かれている。彼に気づかれないようにそっと積まれた本を見たことがあるけれど、決まったジャンルを読んでいるわけではなさそうだった。小説から哲学書、科学の本や古文書。時には子ども向けの絵本まで。書庫の端から順に持ってきているのだろうかと思うほど雑多なそれに、私は瞠目したことを覚えている。彼にとって本が読めればそれでいいのだろう。本当の目的がどこにあるか、私にはわからない。私は彼と話したことがないからだ。


 その日もいつもと同じように数冊の本を手に取って、持参したノートに自分の考えを書き連ねていた。自分の考えに没頭できる時間は好きだった。まだ神殿にいた頃、研究に夢中になりすぎてつい時間を忘れ、本来の業務の締切に間に合わないこともよくあった。その度に文句を言いながらも手伝ってくれた同僚の、その姿を思い出す。ああ、なんだかとても懐かしい。言葉は悪いけれど、彼はとても、心から優しい人だった。鼻の奥がつんと痛み、視界が烟る。こんなことで泣いていたら怒られてしまう。眼鏡を外して涙を拭い、顔を上げる。窓の外が夕焼け色に染まっていることに初めて気がついた。
 またやってしまった、と慌てて席から立ち上がり、ガタンと大きく響いた椅子の音に肩を跳ねさせる。きょろきょろと辺りを見渡して、リタさんもクラースさんもいないことに驚いた。二人どころか、テーブルの周りには誰もいない。私が訪れたときには満席だった椅子は、すっかり冷たくなってしまった様子だった。私の悪い癖だわ、と溜め息をひとつ。資料として使っていた分厚い本を閉じ、本棚へと戻そうと歩き出して気づく。私の座っていた場所の真向かいに当たるそこ。ひっそりとテーブルに置かれたティーカップ。その隣にはまだ何冊かの本が積まれていた。


「……どこに行ったのかしら」


 通りすがりに積まれた本の表紙を眺める。今日は哲学書や宗教書を読んでいたらしい。生と死、魂の循環、輪廻とは、それから、天国と地獄。そんな仰々しいタイトルが刻まれた本に、思わずびくりと手を止めた。だってそれはあまりにも。


「僕に何か用か」

「っ!」


 正面から掛けられた言葉に、声にならない悲鳴を上げる。持っていた本を取り落とし、静かな書庫に派手な音が響いた。自分の鈍臭さに溜め息をつきそうになる。けれど、溜め息をついたのは私ではなかった。


「……すまない。驚かせるつもりはなかった」


 黒衣の彼が私の落とした本を拾い上げている。本についた埃を丁寧に払い、私に差し出してくれる彼。正面から見たら仮面の奥など丸見えで、その向こうにある顔にはとてもよく見覚えがあった。泣きたくなる。


「ありがとうございます、……ジューダスさん」


 言い慣れぬその名を呼んで、私は無理矢理に微笑んだ。ついと目を逸らした彼は定位置に座って本を広げる。天国と地獄、と銘打たれたその本の真ん中あたりを開いて、彼はもう私と話すことなどないと言わんばかりに私から意識を外す。一見すればひどく冷たいその行動が、然して私を、他人を想う故の行動であると、気づいていた人は何人いたのだろうか。
 彼は優しい人だった。私の同僚と同じくらいかそれ以上に。優しくて、気高く誇り高く、他人を思いやる気持ちに溢れた人だった。私は知っている。誰もそうだと言わなかったけれど、彼は優しくて、優しすぎた人なのだと、私は、彼の優しさを幾度となく受けた私は知っている。
 足手まといだと私を遠ざけようとした。戦う力のない私に危険が及ぶことを危惧してのことだった。同僚の死に嘆く私を置いていった。そのおかげで彼の死を悼む時間を取ることができた。あの日、あの場所で、私たちに剣を向けた。それは愛する人を、そして私たちを守るための尊い決断だったと、私たちはもう知っている。


「ジューダスさんは今、幸せですか?」


 本を読む手を止めて、その宝石のように美しい紫色が私を見た。何を言っているんだ、と言わんばかりのその瞳に、私はくすくすと笑ってしまう。冷たい表情を貼り付けて、人を突き放すような言動ばかり取るけれど、本当は優しくあたたかな人。彼の本当の顔は、今の彼の仲間たちと共に過ごしている時に見せる、案外子どもらしいあの顔なのだろう。私たちには見せてくれなかった顔。『元の世界の』私たちには、見ることができなかった顔。


「今、幸せですか。ジューダスさん」


 私はもう一度問い掛ける。答えが欲しかった。彼からの言葉が欲しかった。あの日、伸ばした手は届かなかった。私も、スタンさんも、ルーティさんも、みんな、嘆き、悲しんだ。悔いて、泣いて、それでも、彼が繋いでくれた命だからと、私たちは、元の世界を生きた私たちは、光を取り戻すために、必死に立ち上がった。

だから、今、この世界を生きる私たちが立ち上がって前に進むために。彼からの言葉が、欲しかった。


「……僕に、幸せになる権利など、」


そう言って目を伏せる彼の手を握った。あの時掴めなかった手。この世界ならば、しっかりと掴める。


「いいえ。それは違います」


 あの日の悲しみを、苦しみを、痛みを、きっと一生忘れることは無いだろう。あの日、彼だけを置いて走ってしまった自分を悔やむことは、これから先、何度も何度もあるだろう。何度も何度も、何度も。あの日をやり直したいと思うことはあるだろう。


「人は等しく幸せになる権利を持っています。それは誰にも脅かされない。誰にも奪われてはならない。誰にも奪うことはできない。それがたとえ神であっても、……自分自身であっても」


 この世界で共に生きる『彼』の顔を見る度に、きっと、何度も、何度も。何度も、悲しみ、苦しんで、痛む心を押さえ付けて、それでも後悔はしないと、あれが私たちの選択だったのだと、その道が正しかったのだと、ただひたすらに、信じて。
 だからこそ、目の前にいる『彼』の、言葉が欲しかった。その先を生きた『あなた』の言葉が、欲しかった。私がこの先を生きるために、ひとさじの救いを、どうか、あなたから。その言葉を、口にすることはできないけれど。


「だから、ジューダスさん。誇ってください。あなたが今ここで生きていること。仲間と共にあること。今、幸せであるということ」


 私は握ったままの彼の手を自分の額に付けた。祈るように、懺悔するように、希うように、それから、彼に祝福がありますように、と。


「あなたが今を誇ってくれれば、私たちも、あの時の選択を後悔せずにいられるから」


 彼はやわく私の手を握り返して、それからそっと私の手の中から自分の手を引き抜いた。正面に見えた彼の目は、ひどく穏やかで、とてもあたたかで、私はようやく、前に進める気がした。


「ジューダスさん。今、幸せですか?」


 黒衣の彼は、ジューダスさんは、柔らかく目を細め、小さく頷いた。


「ああ、お陰様でな」


 私とジューダスさんは目を合わせて、それからどちらからともなく笑い出す。笑って、私はこの奇跡に、神の気まぐれに、感謝する。
 あの日、私たちが失ってしまったもの。あの日、私たちが強く望んだもの。あの世界の私たちがもう二度と手に入れられないもの。そして、この世界の私たちが、もう二度と失ってはならないもの。この世界を生きる私たちは、まだ、『彼』を失ってはいないのだから。


「ジューダスさんは読書がお好きなのですか?」

「暇潰しに読んでいるだけだ」

「そうなのですね。よろしければ今度、おすすめの本を教えてください。私ももっと見聞を広めなくてはなりませんから」

「……そうだな。お前にぴったりの本があるぞ」

「あら、本当ですか?」

「ああ。『人を疑え』という本だ」

「ええと、私、そんなに人を疑わないように見えるのでしょうか……?」


ああ、神よ。私は祈る。どうか、今を生きる私たちに祝福を。




Dum fata sinunt vivite laeti




20200907


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