haikyu!! | ナノ







びしゃーん!と、音にするならそんな感じで、俺の脳天に雷が落ちた。
年が明けてすぐ。東京体育館。熱気と歓声が溢れるこの場所で、俺は確かに雷に打たれた。


目の前で、赤いユニフォームと黒いユニフォームが戦っている。赤いユニフォームはうち、音駒高校のチーム。黒い方は宮城の代表チームらしい。
春の高校バレー。名前は聞いたことあったしテレビで中継されているのも見たことがある。箱根駅伝と同じような、年明けすぐの風物詩。そんなイメージしかなかったそこに足を運んでみたのは、一重にクラスメイトが試合に出るらしいと風の噂で聞いたからだった。
クラスメイトの名は、孤爪研磨という。頭を派手な金髪に染めて、染めるだけで満足したのか根元からは地毛だろう黒色が覗いている。大きな猫目に丸くなった背。小柄で細身で、とてもじゃないがスポーツ選手になんか見えないその姿。俺はいつだって、こいつが運動部なんて嘘だろうと思ったし、俺だけじゃなく、きっとクラスのほとんどの奴らが孤爪は補欠かマネージャーだと思っていただろう。


「クロ!」


思っていたのだ。今日、この日。目の前の試合が始まるまで。赤いユニフォームを身に纏った孤爪研磨は、コートのネット際で、時にはネットから遠く離れた場所で、誰よりも多くボールに触り、ほんの少しの動きで自由自在に敵を味方を操っていた。
孤爪研磨が声を上げ、黒髪の、バレー部の主将が高くジャンプする。振り下ろされる手はボールを撃ち抜き、相手側コートへすごいスピードで叩き付けられる、かと思った。黒いユニフォームの方の、一際目立つオレンジのユニフォームの選手が、ボールを拾い上げた。ぱぁん、と耳に心地よい音でボールが跳ね上がり、彼以外の選手が一斉に走り出す。
孤爪よりも大きい、背番号九番の男が、腕を指先を天に向かってまっすぐ伸ばす。ボールに触れた刹那。瞬きのその一瞬。ボールはオレンジ髪の小柄な選手に撃ち抜かれ、音駒側のコートに落ちた。一点。


「すげえ」


そう呟いたのは誰だっただろう。もしかしたら俺だったのかもしれない。バレーボールなんて体育の授業でしかやったことがなかったし、テレビでやっている大きな大会にもそれほど興味はなかった。ボールを打って繋いで、三回以内に相手コートに返せば終わり。それくらいの知識で。
孤爪研磨はどうやらボールを繋ぐ役割のようだということが、目が慣れてきてようやく分かってきた。誰も彼もが研磨、研磨さんと孤爪の名前を呼ぶ。孤爪は汗だくになってボールを追う。ボールを渡す相手を見たのか見ていないのか、そんなタイミングで手からボールを送り出す。そこにはちゃんとスパイカーが待っていて。ずどん。二点。


「孤爪って運動できるんだな」


隣にいた俺と同じクラスのやつが驚いたように言った。彼がそう言うのも無理はない。なんせ孤爪研磨という男は、とにかく運動が嫌いなように見えたのだ。
体育の授業は如何にサボるか考えているようだったし、実際何度かサボっているのを見かけた。どんなに怒られても絶対に本気を出さない。走れと言われれば仕方なく走る。けれど、実は俺は知っていた。のろのろと走る孤爪の息が少しも上がっていないこと。ジャージの裾から見える手足にはしっかりとした筋肉が付いていること。同年代の同じ体型の奴らよりかは体力も筋力もあること。それに気付いたとき、孤爪がどれだけバレーにひたむきであるかの証明のように思ったのだ。


「あれ、うちのヤツらと相手校って仲良いんだっけ」

「え、知らない。なんで?」

「ほら、ちょいちょいネット挟んで喋ってね?なんか楽しそうだし」

「おお、ほんとだ。孤爪も喋ってんな」

「孤爪って他校生とも話せんだな」


俺と孤爪はただのクラスメイトだ。出席番号が近くて何かとセット扱いされることが多いため、他のクラスメイトよりかは彼と近い位置にいる気がしなくもないが、たぶん友達ではない。
何せ孤爪研磨は極度の人見知りだ。人と目を合わせることを嫌い、目立つのを嫌い、大きな声を聞くことも出すことも嫌っている様子だった。俺だって普通に目を見て話せるようになったのは二学期の半ばを過ぎた頃だし、それでも雑談のようなものはしたことがあるかないか。
そんな俺と孤爪の、数少ない会話の話題は専らゲームだった。スマホのゲーム。携帯ゲーム機のゲーム。据え置き機のゲーム。俺もゲーマーだと自負していたが、孤爪研磨は更に上を行くゲーマーだ。休み時間になればスマホか携帯ゲーム機を取り出して、人の視線を避けるようにゲームに没頭する。俺は孤爪と同じゲームをやっていればパーティ組むし、そうでなかったら彼の向かいの席で別のゲームをやりながら彼が攻略中のゲームについて聞くのである。
今、何か面白いゲームある?ゴールデンウィークが明けてすぐ、彼にそう問い掛けたことがある。その頃はまだ彼とそんなに親しくなかったけれど、彼はその大きな猫目をそっと細めて、あるよ、と一言言った。何てゲームかは教えてくれなかった。たぶん興味ないだろうから。孤爪はそう言った。今なら分かる。孤爪が面白いと言ったゲームは、きっとバレーだったんだ。


「すげ。一セット取った」

「孤爪も山本も福永もすげえな。バレーってこんな激しいスポーツだったっけ」


いつの間にか一セット目が終わっていた。一セット目を先取したのはうちの高校で、でも相手校の雰囲気は全然悪くないようだった。うちの選手も相手校の選手も何故だかめちゃくちゃ楽しそうで、応援席も釣られてテンションが上がっていて。スポーツ観戦は初めてだったけれど、浮き足立つような気分になって。
孤爪研磨は何をしているんだろう。きょろりと視線を動かすと、ベンチに座って何やら話をしているようだった。孤爪の話を頷きながら聞くチームメイトたち。ここからは声まで聞こえないけれど、きっと次のセットをどう攻めるかのミーティングをしているのだろう。
あの孤爪研磨を中心にして。いつだってクラスの端っこで人の目を避けるようにしている孤爪研磨が。タオルで大粒の汗を拭いながら、ドリンクを飲みながら、真正面に立つ自分よりも背の高い人たちや先輩後輩を見据えて。
あの大きな猫目をぎらぎらとさせて。烏を喰い散らかしてやらんとばかりの目をして。そのぎらぎらがあっという間にチームメイトに伝播して。そうしてネットの向こうの烏にまで伝染して。孤爪研磨の熱量が、広がっていく。


「お、二セット目始まる」


生きているのか死んでいるのか分からない、無気力なやつだよな。そう、孤爪研磨を評しているやつがいた。同じクラスのサッカー部。部活大好きって感じの男で、日に焼けた肌は健康的だった。ゲームばかりしている俺のようなやつにも分け隔てなく話し掛けてくれる稀有な存在。そんな男が、孤爪のことを見てそう言ったのをよく覚えている。
何故なら俺は、そうだろうか、と思ったからだ。
生きているのか死んでいるのか分からない。そうだろうか。無気力なやつだよな。そうだろうか。
好きなものの話をするとき。孤爪研磨はぎらぎらする。獲物を狙う猫のように鋭い目で笑う。それはゲームであったり、チームメイトであったり、幼馴染で先輩のことであったり、バレーのことであったり。ぎらぎらと笑うのである。
孤爪はよくノートに落書きをしている。俺はよく孤爪に予習したノートを借りていたから知っている。長方形の中に小さな丸がいくつか。それから矢印。恐らくチームメイトのものであろう名前。山本と福永の名前があったから、たぶん合っている。バックアタック、パイプ、Aクイック、その他たくさん。誰がどう動いたら効率的で、そのためにはどういう風にボールが返ってこなきゃいけなくて、そのための課題と、クリアした事柄について、ノートの隅から隅まで書いてあるのを知っている。
孤爪はそのノートを、攻略本、と言った。


「ワンタッチ!」

「チャンスボールッ!」

「戻れ戻れっ!打ってくるぞ!」


バレーにはいろんな戦略がある、とノートを指差しながら孤爪は言う。例えばここの一人を囮に使って左右から攻撃することだってできるし、相手がこういう動きをしたらこちらはこうやり返すことができる。じゃあここでこんなことをしたら相手はどう思うと思う?孤爪は無表情のまま言う。ムカつくだろうな、と答えると、それはそれは楽しそうな顔で正解、と言った。
バレー好きなんだな、と言うと、そうでもないよ、と答える。疲れるの嫌いだしね、と孤爪が言うので、それは見てれば分かる、と俺は返した。孤爪は少し驚いたように目を丸めて、はあ、と溜め息。運動できないフリしてるんだから誰にも言わないでよね、と小さな声が聞こえた。体力ないから体育の授業で使い果たしたら部活できないし。続けてそうとも聞こえた。
生きているのか死んでいるのか分からないなんて、孤爪研磨を知れば知るほど思えなくなった。孤爪は今を全力で生きていて、きっと彼なりに楽しんで生きていて、こいつの大きな目にはいつだって何かが映っていて。
なあ。孤爪研磨。お前は今、最高に楽しいんだろ。だってな。そういう顔してるもんな。俺、お前のそんな顔、今初めて見た。


「たーのしー」


ボールを取り損なって床に伏せた孤爪の声が、何故だかとても大きく聞こえた。いつも通りの小さな声だっただろう。だけど、確かに聞こえたのだ。彼の猫目がぎらぎらと燃え盛っているのが見える。だからあれはきっと、楽しいと、全身全霊で発している姿なのだ。
ネットの向こうで小さな烏が吼えた。力強いガッツポーズ。それから、孤爪研磨の幼馴染で主将の彼が、天を仰いで笑ったのが見えた。彼らは孤爪研磨の心の一部なのだろうと思った。孤爪研磨がバレーを続ける理由はきっと彼らだった。孤爪研磨が書き溜めた攻略本は、きっと彼らのためにある。
クラスメイトの孤爪研磨が、ここにいる誰よりも輝いて見えて。俺はもうダメだった。浮かんできた涙。眼鏡を外してそれを拭う。次から次に、胸の中に熱いものが溢れてくる。
孤爪研磨が走る。汗だくでよれよれで、それでも一歩を踏み締めて走る。ボールを拾って繋ぐ。やられたらやり返す。長めの髪を振り乱して、まるでボールしか見えていないみたいに追い掛ける。繋いだボールを赤いユニフォームの彼らが更に繋ぐ。返されたボールを黒いユニフォームの彼らがもっと繋ぐ。繋ぐ。繋ぐ。繋ぐ。
打って、返して、打って、返されて。弾かれたボールと孤爪研磨。ボールはまだ落ちない。


「バカ!!!ボール!!!まだ落ちてない!!!!」


びしゃーん!と、音にするならそんな感じで、俺の脳天に雷が落ちた。


よそ見をした一年に孤爪研磨が怒鳴りつけた。聞いたことないほど大きな声。張り上げすぎてがさがさの声。会場中に聞こえただろう声。孤爪研磨が声を張る。立ち上がって、走り出す。ボールはまだ落ちていないから。諦めるのはまだ早いから。まだ、ゲームは終わっていないから。


「すげえ」

「うん、すげえ」

「孤爪、カッコいいな」

「うん、すげえカッコいい」


年が明けてすぐ。東京体育館。熱気と歓声が溢れるこの場所で、俺は確かに雷に打たれていた。


クラスメイトの孤爪研磨が本気を出す。いつだって何だってのらりくらりとクリアしてきた孤爪研磨が、本気を出す。言うなれば、きっとこれは彼にとってのラスボス戦。レベル上げは充分。シュミレーションもしてきた。攻略本だってある。最強の武器と最強の仲間たちがいる。今の孤爪研磨は無敵だ。絶対無敵、完全無欠の勇者様だ。
外した眼鏡の向こう。涙に霞んだその先で。きらきらと、今この瞬間が何よりも楽しいのだと言わんばかりの顔で、眩しく光る空を見上げる。孤爪研磨が笑っている。


まだ終わっていない。まだ、まだ、終わらない。終わらせたくない。終わらないでほしい。まだ、まだ。まだ!
そう言って、剥き出しの感情で、孤爪研磨が地を踏みしめる。一歩を大きく踏み出した。彼の視線の先。ボールの行方は。






心臓を打ち鳴らせ






ピ、ピー。ホイッスルの音。次のボールは打ち出されない。選手たちがコートに倒れ込む。二十一対二十五。勝者は宮城県代表の烏野高校だった。
会場から溢れる拍手に、ようやく試合が終わったのだと実感する。夢を見ているようだった。あっという間の三セットだった。ただ呆然と拍手を送り、コートの上で互いの健闘を讃え合う選手たちを見る。
もしかして、自分は、自分たちは、とんでもないものを見たのではないか。終わってしまうのが勿体無い。まだまだ見ていたい。願わくばずっと、彼らがコートの上でボールを追いかけてくれますように。そんなことを思った。呆然としているのは自分だけではなく、拍手を送っているのも自分だけではなく、会場中を惹きつけた選手たちは、満足気に笑い合っている。握手を交わして、抱き合って。眩しくて仕方ない。


「すごかったな」

「うん」

「終わってほしくねえなって思っちゃったよ」

「うん、俺も」


コートから選手たちが去っていって、途端に足から力が抜ける。孤爪研磨は最後まで笑っていた。あんなに笑う孤爪研磨を、俺は今日初めて見た。なんだ、お前、笑えんじゃん。俺はまた目頭が熱くなって、ぐすりと鼻をすする。隣のクラスメイトが苦笑して、俺にティッシュを差し出した。遠慮なく頂戴する。


「帰るかあ」

「そうだな」


まだどこか夢見心地で、会場の熱気に頭がくらくらする。俺が見ていたのは現実だろうか。雷に打たれた衝撃で夢を見ていたんじゃないか。そう話すと隣を歩くクラスメイトは、俺もそんな感じ、と笑った。


「あ、」


小さな、だけど聞き覚えのある声に、反射的に振り返る。真っ赤なジャージに真っ赤なユニフォーム。一際目立つ金髪を、汗で額に張り付かせて。孤爪研磨がそこにいた。
突然立ち止まった孤爪に、後輩だろう銀髪長身の男が不思議そうに孤爪の名前を呼ぶ。孤爪は先行ってて、と言うが、銀髪長身の男は動かない。おら、行くぞ!彼の尻を蹴り飛ばしながら、色違いのユニフォームを着た人が男を連行していった。この人は確か三年生。彼の目元が赤いのが見て取れて、せっかく引き締め直した涙腺が簡単に緩んでしまう。


「来てたんだ」


孤爪の声に慌てて涙を引っ込める。孤爪が泣いていないのに何で俺が。孤爪は笑うでも泣くでもなく、いつも通りの表情で俺を見ていた。つい先程までコートの上で走り回っていた孤爪研磨と別人のようで、だけどいつもより覇気のない彼に、ここに立つ孤爪研磨はコートにいた孤爪研磨と同一人物なのだと納得する。当たり前なのだけれど。
何を話せばいいのか分からなかった。途端に孤爪が遠い存在のように感じてしまったのだ。あんなものを見せられたのだ、当然だ。
まごついていると、クラスメイトに背中を押される。ちゃんと言えよ。そう言われているようだった。今言わなければ、もう二度と、この気持ちを孤爪に伝える機会はないだろう。眼鏡を外してもう一度涙を拭って。


「孤爪!お前、すげえカッコよかった!」


孤爪が驚いたように目を丸める。それから、居心地悪そうに視線を逸らす。


「……カッコいいのはおれじゃなくてみんなだよ」


ぼそぼそとそんなことを言うもんだから、俺はさっきまでの緊張も忘れて孤爪に詰め寄った。お前にとってはそうかもしれない。カッコいいのは自分じゃなくてみんなだって。強いのも、頑張ってるのも、自分じゃなくてみんなだって。そう思ってるのかもしれない。だけど、だけど。


「俺にとってはお前が一番カッコよかったっ!」


他でもないお前が。孤爪研磨が。
コートに立つ誰よりも楽しそうで、誰よりも輝いていて、誰よりも誰よりも、カッコよかったんだ。


孤爪研磨が小さく笑う。大きな猫目を細めて、照れ臭そうに。満足そうに。


「うん、……ありがと」


後から聞いた、『ゴミ捨て場の決戦』という名前。この試合が持つ意味、試合を待ち望んでいた大勢の人がいたこと、たくさんの想いがあったこと、孤爪研磨と"ヒナタショウヨウ"との勝負のこと。
それから、新たな約束が交わされたこと。

来年もやるから、観に来てよ。
孤爪研磨がぎらぎらしている。笑っている。次の決戦に向けて、猫は爪を研ぎ始めたばかり。





20181022/20190415


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