haikyu!! | ナノ







――あの頃の僕らはきっと、全力で少年だった。




オー、ファイッオー、ファイッオー、ファイッオー。おいそこ、手抜くんじゃねえ!そっち行ったぞー!オーライオーライ……


きらきら、きらきら。眩しい。沈みかけた太陽に照らされて、部活動に打ち込む高校生の姿に目を細める。野球、サッカー、テニスに陸上。あれはなんだ、ハンドボールか。そこそこ広いグラウンドを分割して、それぞれがそれぞれの青春に全力を向けている。
遠くから金管楽器の音がして、もう少し近くから応援団だろうか、太鼓を叩く音がする。グラウンドの先で、音楽に合わせて体を動かす子たち。サッカーボールを追いかける男子生徒を横目に、お喋りに興じている女子生徒。
そうして、そんなもののもっともっと遠くに、体育館がある。目を閉じる。聞こえてくるのは体育館の音。バスケ、卓球、バドミントン。新体操とか剣道なんかもあったっけ。それから、それから。


「ねえねえ、今度のバレー部の試合、観に行くー?」

「決勝戦だっけ?行こうかなって思ってるよ」

「バレー部の遠藤くん、かっこいいよねえ」

「え、あんたバレー観に行くんじゃなくて遠藤くん目的なの?」


笑いながら後ろを通り過ぎる女子生徒。会話は遠ざかる。いつの間にか止めていた息を吐いて、大きく息を吸う。

――それから、バレー。

体育館を覚えている。天井の高さ、ネットの高さ、コートの広さ、水銀燈の眩しさ。床のワックスのにおい、入り口のドアの重さ、ボールの弾む音。
スパイクの音、ブロックの音、トスを呼ぶ声。繋げ、繋げ、繋げ、と。張り上げる声。名を呼ぶ声。ハイタッチの感触。
悔しさに流した涙。喜びに抱き合ったチームメイトのあたたかさ。喉が張り裂けんばかりに叫んだ。足が千切れそうになるまで飛んだ。テーピングでぐるぐる巻きにした指。擦り切れたサポーター。
広い部室は人数が揃うと少し狭くて、着替えるのにも苦労した。色んな体育館に足を運んだ。中でも一番覚えているのは。東京体育館。センターコート。広くて、狭くて、やっぱり広くて。きらきら、きらきら。輝いていた。
思い出す。思い出さなくても覚えている。ずっとずっと近くにあった。何よりも好きだった。あの頃は本当に、生きる意味だと思っていた。それくらい、バレーが好きだった。


脇に投げてあった鞄からボールを取り出して頭上に投げる。ぽーん、ぽーん。一定のリズムでボールを弾ませる。昔は苦手だったこの動作も難なくこなせるようになったし、長く続けられるようになった。それでも、何かあるとすぐにボゲェ!と怒鳴り散らしてくる元相棒には勝てなかった。年季が違う、と得意げに笑っていたあいつの顔を思い出して噴き出してしまう。笑った拍子にボールがあらぬ方向へ飛んで行く。
あ、やべ。土手を転がり落ちて行くボールを追って駆け出して。青と黄色と白の、くたびれたバレーボールが、誰かの足にぶつかった。


「あ、すんません。それ、おれの……」


ボールを片手で掴んだでかい男。身長も高いしガタイもいい。内心で冷や汗をかきながら駆け寄って、頭を下げる。下げた頭をボールで押さえつけられた。なんだこいつ、初対面で失礼なやつだな。思ったことをそのまま顔に出して、でかい男の顔を、睨み付けてやろうと。


「日向」


聞こえるはずのない声に、呼ばれるはずのない名前に、体がびくりと硬直した。聞き覚えのある声。聞き覚えのありすぎる声。恐る恐る、顔を上げて。夕日に照らされる男の、顔を、視界に収めて。


「……っなんで居る!?」


そこにいるはずのない、つい先程まで思い出していた姿に、おれは。咄嗟にボールを奪い返して、叫んで、後ずさって、きちんと手入れされていた芝生に足を取られて転んで、尻餅をついた状態でそいつを見上げて。
わなわなと震える指でそいつのことを指して、そうして遂に、そいつの名前を呼ぶ。


「影山……っ!」


オー、ファイッオー、ファイッオー、ファイッオー。よーい、スタート!おいそこ、もっと足動かせー……!

学生たちの声が響く。きらきら、きらきら。眩しいものたちを背負って。そいつは、元相棒の影山飛雄は。こてり、と首を捻った。


「なんで、って……、俺んちあっち」


買い物袋をぶら下げた手で向こうの方を指差す影山に、そういう意味じゃねえよと食ってかからなかったおれを誰でもいいから褒めてほしいと、心の底から思った。




*****




おれはバレーをやっている。過去形ではない。現在進行形だ。ただ、昔ほど打ち込んではいないと思う。おれが所属しているのは一般の社会人チーム。リーグに所属しているわけではないが、地域の大会には出場して好成績も納めている。社会人なりに時間を作って本気でバレーに打ち込んでいる人ばかりだ。
バレーは楽しかった。変わらず好きなままだ。ボールを持っていると安心する。スパイクを決めた瞬間は快感だ。おれは誰よりもとべる自信があったし、実際に今のチームではおれより背が高い人ばかりだけど、おれより飛べる人はほとんどいない。
高校、大学とエーススパイカーだったおれを、チームのみんなは歓迎してくれた。中にはおれのことを知っていてくれた人もいて、速攻見せてください!とせがまれたこともある。あの速攻はあいつのトスじゃないと出来ないとおれは知っていたから、やんわりと断っておいたけれど。

朝起きて、仕事行って、たまに残業して、仕事が早く終わった日にはバレーやって、帰ってきて飯食って寝る。そんな生活。
そんな生活を、もう二年近く続けている。
夢を、約束を、捨て置いて、もう、二年だ。




「……っオイ、何で逃げる!?」

「お前が追いかけてくるからだろ!?」

「お前が逃げるからだろうがっ!!」


土手の上を全力疾走。犬の散歩をしているおじいさんや、ランニングしている学生たち。買い物袋を前カゴに入れて自転車を漕ぐおばさん。追いかけっこをする小学生。視界の端を、人々が駆け抜けて行く。いや、駆けているのはおれの方だ。足がもつれる。肺が痛い。こんなに長い距離を全力で走るのなんていつぶりだ。後ろから聞こえる足音はちっとも遠ざからない。むしろ近付いてくる一方だ。
疲れた。苦しい。もう止まってしまいたい。それでも一歩を踏み出すのは、偏に後ろから追ってくるやつに捕まってはならないと本能が告げるからだ。捕まってはならない。顔を見てもいけない。正面からぶつかってはいけない。向き合ったら、だめだ。言い聞かせて、更に一歩、踏み出す。


「日向ッ!!」


左腕が力いっぱい後ろへ引かれて、踏み出した一歩が着地することはなかった。引かれるがまま後ろへ倒れそうになって、腕を引いた張本人の体に頭を強打する。転倒は免れたものの、後頭部に酷い衝撃。いってぇ、と重なるのは自分の声ともうひとつ。


「……何で逃げる」


固い声が頭上から聞こえる。息が荒い。顔を上げられない。目を見ることができない。何故かって。理由はひとつ。後ろめたいことがあるから。


「……別に逃げてねぇし」

「嘘つけ。人の顔見た途端に走り出しやがって」

「……別にお前が怖くて走り出したわけでもねぇし」

「あ?」


凄んだ声の温度は昔から変わらない。お前、声と視線だけで人殺せそうなの自覚した方がいいって。高校の頃、こいつがまだ隣にいた頃。何度言ったって直らなかった。たぶん直す気もなくて、何なら自覚だって薄かった。
そんな声音で、名を呼ばれる。日向。変わらない温度で、変わらない音で、変わらない熱で、名前を呼ばれる。まるでコートの上にいるようだ。それが苦しくて、やっぱりおれは、顔を上げられない。

はあ、と溜め息が聞こえた。掴まれていた腕が離される。買い物袋のがさがさという音が聞こえて、頬に当たる冷たさに飛び上がった。何すんだ、と顔を上げて、ようやく見えたのは、スポーツドリンクと、それを差し出す仏頂面をした影山だった。


「やる」

「へ?」

「さっさと飲め」


運動後にはきちんと水分補給をしろ。口を酸っぱくして言われていた言葉。差し出されたままのスポーツドリンクを受け取って、蓋を開ける。それから一気に半分くらいを飲み干して、思ったよりも喉が渇いていたことに気付く。影山は袋からもう一本スポーツドリンクを取り出して、おれと同じように封を切った。
こいつ、スポーツドリンク二本も持っててあんだけのスピードが出るのかよ。そう思って、自嘲。そりゃそうだ。なんせこいつは、実業団のバレー選手。近々、全日本にも召集されるんじゃないかって噂されている期待の星なのだから。


「影山、すげー活躍してるよな」


ぽつりと出た言葉。妬んでいるようには聞こえなかっただろうか。僻みは滲んでいなかっただろうか。影山はじっとおれを見下ろして、おれはその視線に耐えられない。


「お前はいつ来るんだよ」


がつん、と。頭を殴られたようだった。頭に血が上るようで、血の気が引いていくようで。暑いのか寒いのかわからない感覚。足元が覚束無い。
手のひらを力いっぱい握り締める。ああ、これだから。こいつにだけは会いたくなかったんだ。今更言ったって、仕方ないけれど。


「……お、れは、」


言葉が継げなかった。何と言えばいいのかわからない。だって、約束していた。こいつと。お前を倒すのは絶対おれ。それが十年後でも二十年後でも。絶対。それが日本のテッペンでも、世界でも。
約束だった。守れると思っていた。ずっと同じ舞台にいてやるって。あのときはちゃんと本気で。なのに、なのに。


「お前はあれから、何やってたんだ?」


影山の言葉が重い。そんなのおれが聞きたい。おれは、何やってるんだ。

大学で、エーススパイカーとして活躍してた。してたと思ってた。だけど実業団からのスカウトは一つもなかった。噂されてた。スピードもバネも申し分ない。テクニックだってある。だけど、やっぱり身長が。あれでもう少し身長があれば。
トライアウトを受けるという選択肢もあった。バレーボールを諦めきれないのなら。まだコートの上に立っていたいのなら。影山と同じ舞台にいたいのなら。だけど、できなかった。呼ばれてもいない合宿に乗り込んだあの頃ほど無鉄砲ではいられなかった。簡単に言えば、怖かったのだ。もし、トライアウトを受けてもダメだったら。バレーボールを続けることを否定されたら。お前はここまでだと、言われてしまったら。

黙り込んだおれに、影山は何も言わない。真っ直ぐに、痛いくらいに、おれを見る。見るなと怒鳴ってやりたかった。何も言わない影山に、お前にはわかんねぇよと、当たり散らしてやりたかった。だけど、そんなことできるわけがない。惨めだった。


「お前、連絡先変わってねえな?」


どれだけの沈黙を守っていただろう。ふいに影山が言った言葉をうまく飲み込めなくて、おれは咄嗟に顔を上げる。影山は変わらない表情で、連絡先、ともう一度言った。


「変わってないけど……」

「また連絡する。話の続きはそのときだ」


続きって。おれはもう話すことなんてない。言いたかったけど言えなかった。影山が踵を返す。もうほとんど沈みかけている夕陽に向かって影山は歩き出す。逆光。


「日向」


影山が踏み止まって、名前を呼ぶ。振り返って、おれを見る。逆光でよく見えないけれど、きっとあの、すべてを射抜くような目で、こちらを見ている。


「バレー、続けてんのか」


そんな目で見ているくせに。おれにそう問いかけた声は、ひどく小さくて細くて。一瞬、誰が発したのかわからないくらいだった。影山の顔は見えない。


「続けてる」


続ける勇気はなかったくせに、それでもバレーが手放せなかった。みっともない。笑い出してしまいそうなくらい、格好悪い。でも、棄てられなかった。どうしようもなかった。バレーがすべてだったから。
影山は何て言うのだろう。聞きたいようで、聞きたくなかった。耳を塞げるなら塞いでしまいたかった。影山が、息を吸う。


「なら、いい」


今度こそ影山は歩き出した。徐々にスピードを上げ、走り出す。あっという間に姿が見えなくなって、おれは、ようやく呼吸ができた。

ならいいってなんだよ。もっと言うことあるだろ。一気に力が抜けて、おれはその場に座り込んだ。なんだよ。気を張って損した。ぶつくさと口の中だけで文句を言う。なんだよ、なんだよ。

ーーもっと何か、言ってくれよ。

そんな甘いことを思って、また自嘲。おれは一体あいつに何を求めているんだ。
帰ろう。立ち上がって、歩き出す。ああ、何しにここまで来たんだっけ。家から遠く離れたこんな場所で。スマートフォンを取り出して、現在地の最寄駅を調べる。それから駅までの道と、駅から自宅の最寄駅までの経路を表示させて。必要時間は一時間三十二分。電車の乗り換えは三回。はあ、と溜め息。
何しにここまで来たんだっけ。おれは何を期待してたんだっけ。何を期待して、影山が所属する実業団の練習場まで足を運ぼうとしたんだっけ。馬鹿みたいだ。なんで居る、はおれの方だろ、どう考えても。はあ、と再び溜め息。
何をやってるんだろうなあ、おれ。




*****



「お疲れさまっしたー!」

「おう、お疲れ日向。今日もバレーか?」

「はい!体動かさないと落ち着かないんで!」

「はは、若いなあ!仕事に支障出ないくらいにしとけよ」


仕事が終わって、気持ちよく定時退社。上司に挨拶して、ダッシュで会社から出る。バレーは十九時から。一旦家に帰って飯食って着替えても全然間に合う時間だ。早足で駅に向かいながら、ポケットの中で震えるスマートフォンに気付く。会社の同僚か、バレー仲間か。誰だろうかと画面をタップして、固まる。


「まじか」


画面に表示されたのは『影山飛雄』の名前だった。あれから一週間。何の連絡もないから忘れているものだと思っていたのに。
浮き足立っていた気分がしゅるしゅると萎み、一気に憂鬱になる。溜め息を既の所で堪えて、画面をもう一度タップ。高校の頃にだってそんなにやり取りしたことのない影山からのメール。用件は何だ。


『今日の十九時。こないだ会ったとこの駅』


はあああ。堪えたはずの溜め息をついてしまうのも仕方がないだろう。何だこれ。何だこいつ。王様かよ。いや王様だけど。
メールの文面は端的で、用件も何もない。しかも今連絡してきて今日の十九時って。断っても怒られないような内容だった。影山ってこういうやつだよなあ。なんだか一周回って懐かしくなって笑えてしまった。
バレーに行くつもりだったけど仕方ない。メールを無視してもよかったけれど、久しぶりにちゃんと顔を合わせて話してやってもいい気分になった。何を言われるのかは少し怖い。喧嘩になるかもしれない。ただ、影山がおれと何を話すつもりなのか興味があるのも事実だった。


『了解』


返信は一言。次いでバレー仲間にメッセージを送る。用事ができたから今日は参加できません、すみません。バレー仲間からはすぐに返信があった。了解。さっき自分が送ったメッセージと一字一句同じだった。

電車に乗って、窓に映った自分の顔を見る。すっかり大人しくなったなあ、と思う。たったの二年で社会を知った気になって、未来を夢見ることも忘れて、あの頃のように無邪気に笑えなくなっている。

がたん、がたん。電車の音が心地よくて、うとうとと微睡む。夢を見た。きらきらとした体育館。烏野の十番を背負って、高く高く飛んでいた頃。怖いものなんてなくて、まだまだ上に行けると信じていて。たくさんの強敵と戦って、毎日ボールに触れて。それから、毎日のように、影山のトスを打っていた。間違いなく最強だった、全力で少年だった、あの頃の夢。
落ちた強豪、飛べない烏。かつて聞いた言葉を思い出す。こんな言葉を覚えているのは自分たちくらいしかいないだろう。烏野高校は近年、全国常連になるくらいの強豪校で、飛べない烏なんて言葉はもう相応しくない。だからこれは、烏野を表す言葉じゃない。飛べない烏はおれだ。あんなに飛ぶのが楽しかったのに、いつからおれは、地面に這いつくばったままでいるのだろう。


『――××駅、××駅。お出口は、……』


電車のアナウンスで目が覚める。車内の案内を見れば、目的地としていた駅だった。慌てて立ち上がり、電車に乗り込んでくる人々を掻き分けて、迷惑そうな視線には頭を下げて。飛び降りると同時に背後で電車のドアが閉まる。ほう、と一息ついたと同時に電車が動き出す。
首元のネクタイを緩める。上着を脱いで、シャツの中に風を送る。慌てた拍子に滲み出てきた汗を拭って、スマートフォンを取り出した。メール作成の画面をタップ。


『着いた。どこ?』


送信完了画面を確認して、ひとまず改札を出ようとホームの階段を上がる。この間来た時はそれほどまじまじと見ていなかったが、駅前はそこそこ栄えているようだ。道行く人々を何とは無しに眺めながら、ICカードを改札にかざす。


「日向」


正面から、声。練習着なのだろうジャージを着た影山が、いつも通りの真顔でそこに立っていた。止まりそうになる足を叱咤する。恐ろしいと思ったことを悟らせまいと、笑顔を形作る。職業柄、笑顔を作るのは得意だった。


「おう、影山!こないだぶり!」


おれのその言葉に返事はない。影山は唇を引き結んだまま。沈黙。通りすがりの人たちが、黙ったまま立ち尽くすおれ達を訝しげに眺めては通り過ぎていく。気まずい。
影山は何も言わない。おれも何も言わない。どうしろってんだ、と思いつつ時計に目を向けて。十九時を知らせる音楽が、駅構内に響き渡った。


「……とりあえず、飯でも行かねえ?おれ、腹減ったんだけど」


へら、と笑ってみせると、影山は舌打ちでもしそうな顔でおれを睨んだ。否、視線を向けただけなのだろうけど、鋭すぎる目付きのせいで睨まれたとしか思えなかった。影山の眉間の皺が消えない。
くるりと影山がおれに背を向けた。歩き出す。訳がわからず、おれは慌ててその背を追いかける。影山の歩みは止まらない。


「どこ行くんだよ!」

「……」

「おい、無視すんな!」


駅前を過ぎて、繁華街へ。キャッチのお兄さんや既に酔っ払っているサラリーマンのおっさんたちの間を器用にすり抜けて、影山は歩く。おれはひたすら追いかけて、虚しくなった。いつだってこうやって、おれはお前の背中を追いかけてばかりだ。先に行くぜと言ったお前に、追いつくことができない。
お前はいつだって先を行く。止まって振り返ることなんか知らないみたいに。おれなら当たり前に付いてくるだろうって態度で。先へ先へ。おれを置いて、走っていく。

段々と腹が立ってきた。何でいつもこうなんだ。お前、少しは大人になれよ。少しは、人を気遣うことを覚えろよ。お前が来いって言うからわざわざこんなところまで来てやったのに。振り返りもしない。お疲れの一言もない。勝手だ。影山は、勝手だ。
足を止める。数歩進んで、おれが着いてきていないことに気付いた影山も足を止めた。おれは回れ右して、今通ってきたばかりの道を戻り始める。もういい。おれは話すことなんてないのだ。バレーの時間を削ってまで来てやったのに。そんなことがぐるぐると腹の中で渦巻いた。むかつく。むかつく。
さっさとこの場を後にしようと早足で数歩。左腕を力強く引かれて、その突然の力に逆らえなくて。足が止まって、ひっくり返る。その前に、腕を引いた張本人の胸に強かに後頭部をぶつけた。一週間ぶり二回目。


「ってえな!なにすんだよ!」

「お前こそ、何帰ろうとしてんだ」

「お前が何も話さないからだろ!?人の質問にも答えないで!」

「お前が飯って言ったんだろ」

「はあ!?」


見事なまでに会話が噛み合わない。昔からコミュニケーション力に難ありだった影山だけれど、高校卒業してから少しは改善されたのだろうと思っていたのに。
影山はおれの左腕を掴んだまま、再び歩き出す。カラオケや居酒屋、お洒落なバーを通り過ぎて。少し薄暗くなった道の先。提灯が下がった店の前で、影山は立ち止まる。暖簾にはでかでかとラーメンの文字。影山はおれの手を離すと、慣れた様子でラーメン屋だろう店の扉を開けた。


「いらっしゃいませー!」


威勢のいい店員の声。案内された席は一番奥の個室。店の中からはラーメンのいい匂いがする。チャーハンや餃子の匂いも。途端に腹の虫が騒ぎ出して、口の中が涎でいっぱいになる。


「いらっしゃい、影山さん。いつものでいい?」

「あ、はい。お願いします。……おい、日向。好きなの選べ」

「は!?え、ちょっと待ってちょっと待って!」


ゆっくりでいいですよ、と店員のおじさんが笑う。ちょっと待って、訳がわからない。訳がわからないが食欲には勝てない。腹の虫が、さっさと飯を食わせろと騒いでいる。目の前には美味しそうなラーメンの数々。ええと、ええと。


「ラーメン大盛りにチャーハンと餃子セットで!あ、あと味玉つけてください!」

「はいよ」


メニューをメモして店員さんが引っ込んで、影山と二人きりになる。水を注いでおれの前に出してくれて、あ、ありがと、なんて言いながら水を口に含んで。


「え、お前最初からここに連れてきてくれるつもりだったの?」

「お前が飯って言ったんだろ」

「いや言えよ!」


さっき聞いたときとまったく同じ言葉を言った影山に盛大に突っ込んで、おれは脱力してしまった。そういえばこいつ、こういうやつだったわ。脱力ついでに笑えてくる。緊張してたのが馬鹿みたいだ。


「影山、活躍してるみたいじゃん。全日本入りもすぐだろうって、こないだテレビで言われてたぞ」


言葉は案外すんなりと出てきた。劣等感と罪悪感。それに塗れて死にそうだったおれは、変わらない影山を前にどこかへ逃げてしまったらしい。言葉はするすると喉を通って、だけど未だに目は合わせられないまま。


「お前、テレビとか雑誌とか、めちゃくちゃ取り上げられてんのな。大学の頃からそうだったけど実業団入ってから凄まじいっていうか。……おれも、鼻が高いっていうか」


鼻が高いのは本当だ。今のチームにも、烏野時代のおれたちを知っている人がいる。あの影山飛雄と同じチームだったんだろ、と興奮気味に話しかけてくる人もいる。八面六臂の大活躍の影山選手と同じチームって、日向くんすげえなあ。あの頃の日向影山コンビは敵知らずだったんだぜ。そう言われることも間々ある。鼻が高くて、誇らしくて、それから苦しくなる。
本当ならおれも。あいつと同じところにいるはずだったのに。そう思って。


「お前はどうなんだ」


影山が問いかける。それに答える術をおれは持たない。お前はどうなんだ。お前は、いつになったらここまで来るんだ。
だって、諦めてしまったのだ。夢を、約束を。おれは、置いてきてしまった。


「おれ?おれは、一般の社会人チームでバレーしてるよ。そこそこ力入れてるチームでさ、地域の大会で優勝もしたことあるんだぜ。みんなバレー経験者で、練習も本格的で、」

「日向」


言葉を遮られる。影山の強い視線。射抜かれて、声が詰まる。影山の目を見られないまま。おれの視線は宙を泳ぐ。


「そういうこと聞いてんじゃねぇよ」


わかっている。こいつが何を聞きたいのかわかっている。わかっているから、答えられない。苦しくて、口がからからに渇く。水を飲んでも、喉は渇いたまま。


「お待たせしましたー。ラーメン大盛り味玉付きと、チャーハン餃子セット。それから温玉カレーになりますー!」


そんな沈黙を破ったのは間延びした店員の声。次々にテーブルに乗せられるメニューたちに、だんまりを決め込んでいた腹の虫たちがここぞとばかりに騒ぎ始める。
ラーメン、チャーハン、餃子。それから、カレー。早速スプーンを手に取ってカレーに突き立てる影山を、おれは呆然と見て。


「ラーメン屋で、カレー?」

「おう」

「え、ラーメン屋なのに?」

「うるせえ。さっさと食え」


うまそうにカレーを頬張る影山。おれは箸を手に取って麺を掬う。醤油ラーメン。ずるずると麺を啜って、スープを味わって。たまにチャーハン、時々餃子。腹の虫たちが途端に静まっていく。うまい。
向かいでは、さっきまでの凶悪な顔をどこかに投げ捨てて満足そうにカレーを食べる影山。恐ろしいスピードで食べていくと思ったら、部屋から顔を出して、おかわり、と言った。店員さんはそれを予期していたように、カレーのお代わりを持ってくる。影山は二杯目のカレーに挑み始めて。


「ここ、よく来んの?」

「チームの練習場がこの辺だから、練習終わってからたまに来る」

「で、カレー頼むの?お代わり付きで?」

「この辺だとここのカレーが一番うまい」


口いっぱいにカレーを頬張りながら、影山は言う。おれもラーメンを啜りながら、確かにここのカレーはうまそうだ、だなんて思う。餃子を一口。じゅわ、と広がる肉汁が最高だ。うまい。チャーハンの味を噛み締めて、ラーメンのスープを飲み干して。カレーを完食した影山と目が合って。もう、我慢できなかった。


「ぶ、ははははっ!お前、ほんと変わってねぇな!ラーメン屋でカレー!カレーって!!」

「んだとボゲェ!ラーメン屋でカレー頼んで悪いか!!」

「いや、悪くねぇけど!悪くねぇけどさぁ!!」


笑いが止まらない。ひいひいと声が出て、涙まで出てくる。影山は影山だ。これでこそ影山だ。憮然とした顔つきになる影山に更に笑いがこみ上げてきて、本格的にツボに入ってしまったようだ。笑いすぎて腹が痛い。
目の前で箸が動く。おれの手元に残った最後の一個の餃子。それがあっという間に攫われていって、ぽかんとしているうちに影山の口の中へ。行儀よく箸を揃えて、ご馳走さまでした、と影山が言う。おれの前には空の皿が残っているだけで。


「……おれの餃子!!」

「うるせえ騒ぐな。食わねえ方が悪い」

「いや食うよ!?何やってんのお前!?」


おれの文句もどこ吹く風。こういう顔している影山は本当に人の話を聞いていない。高校三年間で学んだ。いくら文句を言おうと無駄なことはわかり切っているので、早々に諦めた。さよなら、おれの餃子。
水を飲んで、人心地つく。腹いっぱいになって、めちゃくちゃに笑って、さっきまで感じていたぴりぴりした空気も無くなったように思えた。今なら話せそうかな。影山は聞いてくれるだろうか。


「おれさ、スカウト来なかったんだ」


おれの言葉に、影山が目を見張ったのがわかった。そんなはずないだろ、とその目が語る。おれもそう思ってた。そんなはずないだろって。だけど、現実はそうじゃなかった。


「あんだけ大学で活躍したんだ。最後のインカレでも優勝こそできなかったけど、三位だぞ?銅メダル。そこのチームで、一応エーススパイカーやってたんだ。どっかひとつくらい、って思ってた」


最後のインカレで。準決勝で惜しくも負けてしまったものの、順位決定戦では圧勝だった。大学四年間の集大成。やり切ったと思った。だけど、まだまだこれからだって。どこかの実業団に入って、バレー続けて、いつか日本代表に呼ばれて、世界を相手に戦うんだ。そう思ってた。
だけど、現実は思ってたより残酷で。主力だったチームメイトが何人も実業団の監督に声をかけられる姿を見た。内定が決まって喜んでいる姿を見て、おめでとう、って言ってみたりもして。ギリギリまで待った。どこか、どこか。おれにバレーを続けさせてくれ。って。祈るように日々を過ごしてた。


「最後に内定出たチームメイトがさ、そこのチームの監督に言ったんだって。俺より日向を取るべきじゃないですかって。監督、言ったんだってさ。あれでもう少し身長があればな、って」


ずっと聞こえないふりをしていた言葉を叩きつけられたようだった。身長は百七十を少し超えたところで完全に止まって、日本男子の平均身長にも二十センチ近く足りない。世界と比べたら尚更足りない。その分ジャンプ力はあるけれど、人より多く跳ぶということはそれだけ膝に負担がかかるということだ。ケアは欠かさず行っているが、それでも故障の可能性は絶えず付いて回る。そんなリスキーな選手を積極的に取るだろうか、という話だ。


「おれ、バレー好きだからさ。辞めたくなかった。どんな形でもバレーができればそれでいいなって、思った。……思っちゃったんだよ」


諦めないって口で言う程簡単な事じゃない、って昔影山が言っていた。あの頃は何を言っているのかわからなかったが、今になってわかった気がする。諦めないことは、難しい。何かを諦めないと先に進めないことだってあるんだ。


「影山」


おれは、影山の目を見た。影山はおれの目を見ている。コートの上ではあんなにこいつの考えていることがわかっていたのに。今はもう、よくわからない。寂しいな、と素直に思った。


「ずっと同じ舞台にいるって約束。守れなくてごめん」


財布からお金を取り出して机の上に置く。おれ、帰るな。そう言っても影山は微動だにしない。相変わらず何考えてるかよくわからない顔で、じっとおれの目を見ていた。
スーツの上着を羽織って、鞄を持って、靴を履く。影山の視線から逃げるように背を向けて。


「久々にお前と話せてよかった。活躍すんの期待してるぞ」


じゃあな、と言って店を出る。影山に悪いことしたな。ああ、バレーしたい。今から行っても試合形式の練習に間に合うかな。せめて一本サーブ打つだけでも。そんなことを考えて、ぼんやりと駅までの道を歩いて。改札をくぐって、ホームへの階段に足をかけて。


「日向ァ!!」


後ろから聞こえる大きな声に、慌てて振り返る。先程ラーメン屋に置いてきたはずの影山がいた。ぜえぜえと肩で息をして、こいつを見た子供が泣き出してしまいそうな凶悪な顔でこちらを睨み付けて。


「俺は、諦めねえぞ」


静かに、それだけ言った。
瞳が苛烈に燃えている。真っ直ぐ、おれを見ている。惨たらしいほどに、真っ直ぐに。
息が止まった。諦めないってなんだ。お前が、何を諦めないと言うのだ。混乱して、瞬きすら忘れて、道行く人々が、おれと影山を見ていた。影山はさっさと身を翻す。見えなくなった背中を、おれはいつまでも見続けて。


「……諦めないって、なんだよ」


今すぐにでも叫び出したいような衝動を押さえ付けて、決死の思いで電車に乗り込んだ。




*****




影山と会って、数週間。あれから影山からの連絡はないし、おれからも連絡していない。そりゃあそうだ。影山はリーグ戦の真っ最中。これから何週にも渡って強いやつらと試合をするのだ。そうそう連絡なんてしてこないだろう。
影山の試合はテレビで見ている。相変わらずのトスワーク。ゲームメイクも流石の一言。どんなところからでも強気に速攻を捻じ込んでいくのは変わらないプレースタイルだと思う。サーブだって威力を増していて、今あのサーブを受けても取れる気がしないくらいだ。

元チームメイトの活躍が嬉しいようで、寂しいようで、やっぱり少し苦しい。でも前ほどではない気がする。あの日、きちんと謝れたからだろうか。約束守れなくてごめん。ずっと言いたかった言葉を言えたから。少しは前を向こうという気になったから。
あれからバレーの調子もいい。先週末にあった近所のチームとの練習試合でも一番多く得点できた。舞台は違えども、影山も活躍しているんだ。負けてられないな、と思えたのが大きいのだと思う。
おれはおれで、バレーを続けていくよ。そう、一方的にテレビの向こうでトスを上げる影山に語りかける。テレビの中の影山は当然答えてはくれないけれど、それでいい。


――それでいい、って思ってた。


「……なんで居るっ!?」


チームの練習場の前に、影山が現れるまでは。


「調べた」

「いやそういうことじゃねえよ!」


影山は数週間前に見たときと同じジャージ姿でそこに立っていた。いつも通りの無表情。目立っていることを気にも留めず、ただ当たり前みたいに立っている。
なんで、どうして。ぐるぐると頭の中を駆け巡る。なんでここに居る。なんでおれのチームがわかったんだ。今リーグ中じゃないのか。お前のチーム、今週末は九州の方で試合だろう。ぐるぐる、ぐるぐる。何から言えばいいかわからずにただ呆然としていると、影山の方が先に口を開いた。


「お前が住んでるとこは谷地さんに聞いた。家の近所のバレークラブに行ってるって聞いたから、月島と山口にその辺のチーム調べてもらった。で、ひとつひとつ回って行った」


見つけるのに三週間かかった。なんて事ないように影山は言う。月島と山口と谷地さんもグルかよ、と喚き散らしたい気分だった。誰か一人くらい連絡くれてもいいんじゃないか。


「おまえ、え、あのさ。普通に連絡くれたらよくない?」

「お前のチームが見たかった」

「いや、そんな道場破りみたいな探し方しなくても聞いたら普通に教えたって」

「嘘つけ」


一蹴されて、ぐ、と言葉に詰まる。確かに嘘かもしれない。普通に聞かれたところで、おれは影山にチームのことを伝えられただろうか。おれのチームは確かに強い。地方大会でも優勝している。あくまで、一般の部で。
リーグ、しかもプレミアリーグの方で戦っている影山に、胸を張ってチームを紹介できただろうか。恥ずかしいと思わなかっただろうか。思わない、と言えない。ここには本気でバレーに打ち込んでる人しかいなくて、なあなあでやってる人もいない。チームメイトは彼らなりに真面目にやっている。だけど、それでも。おれが求めているものとは、少しばかり違うから。


「……で、影山は何しに来たの」


言葉を溜め息と一緒に飲み込んで、おれはなんとか声を出す。影山は背負っていたリュックを下ろすと、ごそごそと中を漁り始めた。取り出したのは、バレーシューズ。


「お前に、トス上げに来た」


至極真面目な顔でそう宣って、一瞬後に悪どい顔で笑う。全身が震える。体内で熱が暴発したみたいになって、今すぐにでもコートの中を走り回りたい気分。
影山が、おれに、トスを上げる。おれが、影山の、トスを打つ。たったそれだけ。影山が言ったのはたったそれだけのことだった。それだけで、おれは。


「オラ、行くぞ。体育館どこだ」


背中を蹴られて、たたらを踏む。よろよろと、それでも何とか一歩を踏み出して。
気が付いたらいつもの体育館までやってきていた。チームメイトが目をまん丸にしている。ざわざわ、ざわざわ。誰もおれに話しかけてこない。隣の影山は、そんなざわつきも気にならないみたいに当たり前の顔をして歩いている。そんな、いろんなことが。今のおれには遠いことのようだ。


「か、影山選手……!?」


遠巻きにおれたちを見ていたチームメイトの塊の中から、転がるように飛び出してきたのはチームのセッターだった。通称、影山厨。三つ下のこいつはおれたちと同じく宮城出身で、影山に憧れてセッターを始めたんだとか。


「あ、はい。お邪魔します、影山です」

「うおお、ほ、本物……!あの、握手してください……!!」


影山は困った顔をしておれの方を見ている。おれは素知らぬ顔でアップを始める。握手くらいしてやれよ、有名人。そんな顔で笑ってやったら、影山の額に青筋が浮かんだ。ざまあみろ。
アップのために体育館を走り始めたおれの横に数人が駆け寄ってくる。おお、影山効果すげえ。なんてことを呑気に考えていたら、いつの間にかチームメイトに囲まれていた。


「あれ、影山選手だよな!?なんで!?」

「ばか、お前、日向と影山選手って高校バレー界では有名だったんだぞ!宮城・烏野の神業速攻って!」

「っていうか影山選手ってリーグ中なんじゃねえの!?」

「何しにこんなところに来たんだ!?」


大混乱の体育館。影山だって影山厨に捕まっておたおたしている。そんな中、きっとおれだけは落ち着いていた。試合前、公式練習中みたいに。試合開始のホイッスルが鳴って、一本目のサーブが打ち出されるときみたいに。
澄み切った集中。目の前がひどくクリアで眩しい。ああ、早く。早く、飛びたい。


「影山」


影山を呼ぶ。影山が振り返って、ニタリと笑う。


「おれにトス、持ってこい」


早く、早く、早く。
足が震える。足だけじゃない、全身だ。全身が震える。早く飛びたいと、心が叫ぶ。

コートのエンドラインまで下がる。影山がネット際に立つ。ネットを挟んだ向かいにチームメイトがひとり、ボールを掲げて立っていて、他のチームメイトは見守るようにコートの外に並んでいる。
いきます、と声がした。ボールが飛んでくる。アンダーでレシーブ。セッター位置に綺麗に返球。影山が、美しいフォームでボールを待ち構える。駆け出して、踏み切る。全力のジャンプ。ボール、ここに来る。そんで、止まる。
目の前で失速して、緩やかに落ちるボール。その一瞬。腕を振り抜く。掌に当たるボールの感触。コートの向こうに叩き付けられるボールの音。着地。振り返る。影山が、そこにいる。


「「……よしっ!!」」


声が揃う。コートの外から割れんばかりの歓声。影山の目に、おれが映る。おれの目に、影山が映る。
何千、何万と合わせた速攻。ブランクなんてなかったみたいに。離れてた時間なんてなかったみたいに。あの頃と同じように、あの頃を思い出すように。おれたちの武器はこれだと、知らしめるように。

ボールの感触が、ジャンプの瞬間が、ネットの向こう側の景色が、焼き付いて、離れない。深呼吸を二回して、心を着地させていく。静かな興奮を、分かち合うのは。いつだって。
手を合わせる。ばちん、と鈍い音が体育館中に響き渡る。影山とハイタッチ。何年ぶりだろうか。


「お前、打点落ちてるだろ。サボってんじゃねえよ」

「サボってねえし!!」


合わせる方の身にもなれ、と憮然とした表情で影山が言う。噛み付くように反論したが、実際に打点が落ちているのは確かだろう。悔しくて、でもそれだけじゃなくて。
影山のトスを打つ。おれだけのためのトスが、上がる。それがどれだけ尊くて、大切なものだったのかを知って。気づいて。胸が熱くて。込み上げてくる涙を、必死に隠した。

やっぱり、これがいい。この熱がほしい。ずっと、この熱を追いかけていたい。おれはバレーが好きだ。一秒でも長くコートにいたい。何回だって強い奴らと戦いたい。願わくば、影山の、相棒のトスで、頂へと。でも。


「お前、なんでまだこのトス上げられんだよ」


胸に押し寄せる感情を噛み殺す。油断すると泣いてしまいそうだ。そんなのはごめんだ。影山の前で、これ以上みっともない姿を見せたくない。こいつにだけは、負けたくない。
おれの問いに、影山は眉を寄せる。ただ、当たり前のように。応える。


「はあ?お前との速攻はこのトスがねぇと成り立たねえだろうが」


いっそ無慈悲なまでの信頼だと思う。お前は、当然のように、おれが同じ舞台に立つと思っているのか。そんな、無駄になるかもしれない練習を、何時間も、何日も。或いは、離れてからの数年間を毎日。毎日、繰り返して。おれが、お前に追いつけないなんて、微塵も考えなかったのか。


「お前、ばかじゃねえの……」

「そんなのお前だって同じだろうが」


久しぶりだってのに躊躇いなく入ってきやがって。俺がお前の打点間違ってトス上げるとか思わねえの。
そう憎々しげに言われて、今度はおれの方が眉を寄せる番だった。だって、お前ができない訳ないじゃん。そう応えて、その答えを聞いて、ほら見ろ、と影山が言う。


「お前だって、同じだろ」


意地悪そうに、仕方なさそうに影山が笑って、おれはがっくりと肩を落とした。そうか。そうだ。おれも同じ。無慈悲なまでの信頼を寄せたのは、おれの方が先。
お前ならできる。影山ならやる。あの夏。新速攻を練習し始めて。当然のようにそう思ってた。絶対できるって思ってるのに、妥協しようとした影山が許せなかった。あの頃から、ずっと。お前のことを信頼してた。
いや、もっと前。俺を信じてとべ、と。ボールは俺が持っていく、と。影山が言ったその瞬間から。おれはお前を信じていた。信じる以外のことができなかったから。それからずっと、おれはお前のことを信じてる。

でも。おれはやれるのだろうか。壁にぶつかっても、まだ、諦めなくていいだろうか。挑戦してもいいだろうか。夢を掴みたい。後悔したくない。勝ちたい。負けたくない。なんでだって言われてもわからない。負けたくないことに、理由はいらない。
隣で影山が獰猛に笑う。お前はそんなもんじゃねえだろ。遮るものはぶっ飛ばして、纏わりつくものは躱して。止め処ない血と涙で、渇いた心臓を潤せ!相棒にここまで言わせて、立ち上がらないなんて。そんなのはおれらしくないだろう。


「影山」

「あ?」

「お前を倒すのは、絶対おれ!」


にっと笑う。心の底からの笑みなんて、ここ数年忘れていたと思う。影山も同じように笑う。
怯えてたら何も生まれない。


「それが、十年後でも、二十年後でも!絶対!」


もう一回、ここから始めるんだ。全力で、駆け抜ける。大人みたいな言い訳をするのはもう止めだ。


「……てことは、この先お前は俺と同じ舞台に居るってことだな?」


――紛れもなく僕らはずっと、全力で少年なんだ。


「「それが日本のテッペンでも、"世界"でも!!」」




*****




それからの日々は怒涛だった。
まず、リーグに所属していてトライアウトを実施しているチームを片っ端から洗い出すことが必要だった。そして、トライアウトの時期を調べることも。書類選考用の書類を作ったり、体力測定用にトレーニングをしたり。バレーの練習だって今まで以上に打ち込んだ。シーズンオフになってからは影山がオフの度に体育館にやってくるものだから、休む暇もなかったくらいだ。

書類審査で落とされるチームもあった。恐らく身長が原因だろうとわかっていたけれど、そこで落ち込んでいたら前のおれと変わらない。もう二度と、夢を、約束を、捨て置いたりなどしないと決めたから。
身長がないから高さで勝負できない。そんなのは古いってわからせるために、ひたすらジャンプを磨いた。最高到達点は自分より何十センチも身長の高い選手より高い。おれはとべる。それを、誰よりもおれが一番わかっている。


「か、か、影山っ!!」

「なんだうるせえな」

「これ!これっ!!」


夏の暑い日。今日も影山との練習。その前に、大事件。
先に体育館に着いていた影山に体当たりするように飛び付いて、手に持っていた書類を掲げる。チームメイトもなんだなんだと近付いてきて、誰かが書類の文面を読み上げた。


「一次選考、通過のお知らせ……!」


その瞬間、体育館を歓声が取り巻いた。拍手や歓声が響いて、おれの頭をぐしゃぐしゃと掻き回す手があった。なんならおれより先に泣いているチームメイトもいて、仲間に恵まれてるなあと思ったくらいだ。
影山はいつも通りの涼しい顔で、書類を熟読している。何か一言くらい言えよ、とジト目で睨み付けていると、影山が鼻で笑った。これで満足すんな、と顔にでかでかと書いてある。くそむかつくから影山の顔面を狙ってサーブを打ってやった。見事に返されてしまったが。しかも綺麗にセッター位置。腹が立つ。

二次選考は来月。体力測定と実技審査。それから、入団意志を問う面接。体力測定はきっと問題ない。実技審査も、たぶん大丈夫。自分の弱点は認識していて、弱点克服のために恥を忍んで影山に教えを請うたくらいだ。馬鹿にされながらの練習の日々。影山大先生のスパルタ特訓の成果はちゃんと表れている。
大丈夫、やれる。幾重に重なり合う、描いた夢への放物線。その先には。たった一人の相棒との約束があるから。




「日向翔陽です。高校は宮城の烏野、大学は東京のN大でした。高校ではインターハイ、春高の全国大会に出場経験があります。大学では、四年時のインカレで三位入賞しました。ポジションは、高校ではミドルブロッカー、大学ではウィングスパイカーをやってました」

どくん、どくんと心臓が揺れる。体力測定も実技審査も滞りなく終わった。あとは、面接のみ。口から飛び出しそうな心臓をなんとか宥めすかして、考えに考えた文面を頭の中から捻り出す。


「日向くんは、なぜ実業団に入りたいと?今まで社会人のチームでやっていたなら、そこでバレーを続けていてもよかったのでは?」


面接官の目が怖い。でも、怯えていたって仕方がない。真っ直ぐに目を見て。ちゃんと自分の意志を。


「約束があるからです」


最初は、小さな巨人に憧れてバレーを始めました。低身長の選手が、自分よりも遥かに大きい選手と対等に渡り合っている姿が、本当に格好良く思えた。だから、あんな風になりたいと思ったんです。
中学でバレーを始めて、でも中学にバレー部はなくて。ひとりで練習していました。小さな巨人に憧れて、チームに憧れて。おれだけのセッターに憧れて、おれだけのためのトスに憧れて。
高校に入って。バレー部に入って。チームを知って、勝利を知って、敗北を知って。嬉しさも、悔しさも、コートに立っていたいという気持ちも、この人たちとまだ試合をしたいという気持ちも、相棒の隣に立つに相応しい自分で在りたいという気持ちも、すべてをそこで学びました。バレーが、心の底から好きだと。そこで、知ったんです。


「相棒と、約束しました。お前を倒すのは絶対おれだって。ずっとあいつと同じ舞台に居るって。それが、十年後でも、二十年後でも。絶対に」


おれは一度、約束を棄ててしまいました。でも、相棒はずっと棄てずに持っていてくれた。待っていてくれた。おれはもう二度と、あいつを裏切ることはできない。
ずっとコートに立っていたい。強い奴と戦いたい。おれの力で、勝ちたい。できるなら、あいつの隣で。


「だから、このチームで。おれを、戦わせてください」


頭を下げる。なりふり構っていられない。これが最後のチャンスかもしれない。面接官の目を見る。真っ直ぐに。


「うん。君の意志はわかった。ありがとう。……ああ、これは興味なんだけど、最後に聞いてもいいかな?」

「はい、どうぞ」

「君にそこまで言わせる相棒の名前は?」


面接官が今までの厳しい顔を解いて、柔らかく笑う。目尻に皺が寄って、一気に印象が変わる。あれ、この人。見たことある。たぶん、春高でも、インカレでも。おれに、おれたちに、声をかけてくれた人。
期待してるよ、と言ってくれたその人を、思い出して。この人は今の質問の答えを知っているのだろうと思って、一気に力が抜けてしまった。


「おれのセッターの、影山飛雄です」


面接官はくすくすと楽しそうに笑って、おれを見た。おれは緊張の糸が切れてしまって、椅子に座るのもやっとの状態で。面接官の手を借りながら、面接室を後にする。面接官は部屋を出た途端に堪えられないとばかりに声を上げて笑い出して、おれは思わず大丈夫ですか、と声をかけてしまった。


「だ、大丈夫、大丈夫。ただ、可笑しくって」

「え、おれ、そんな面白いこと言いましたか……?」

「いや、違うよ。少し前に、まったく同じ言葉を聞いたなあと思い出してね」


面接官の言っている意味がわからず、首を傾げてしまう。面接官はそれすらも面白いのかまた腹を抱えて笑い出して、目尻に涙を滲ませながら、おれに向かってこう言った。


「うん、今年からいいチームになりそうだ」


結果は後日追って連絡するよ、と面接官は歩き出し、おれは何が何だかわからないままに頭を下げた。そのまま帰途に着き、気付けば自分の家のベッドで眠っていた。




「か、か、影山っ!!」

「なんだうるせえな」

「これ!これっ!!」


それから、数週間が過ぎて。相変わらずオフの度に体育館へやって来ていた影山を捕まえて、おれは影山の顔面に持っていた書類を叩き付けた。よく読め、よくよく読め。とくと読め。そう言いながら書類を押し付ける。邪魔だボゲェ!と怒鳴られて投げ飛ばされても、もう怖いものはない。
なんだなんだとチームメイトが近付いてくる。誰かが書類の内容を読み上げて、そして誰かの嗚咽が聞こえてきた。それを聞いておれも、ようやく、実感が湧いてきて。


「二次選考通過及び内定通知……」


ずび、と誰かが鼻をすすった。そこら中から嗚咽が聞こえる。本当に、いいチームに恵まれた。目頭が熱くなるのが止められない。


「みなさんの、おかげです」


ありがとうございました、と深々と頭を下げる。入ったのがこのチームでよかった。心の底からそう思う。烏野も、大学のチームも好きだったけれど、このチームも同じくらいに好きだった。
頑張ったね、とチームメイトが言ってくれた。おれはこのチームを離れてしまうのに、よかったねと祝福してくれる優しい人たちばかりだった。おれは涙が止まらなくなって、チームメイトひとりひとりに感謝を述べた。この人たちが応援してくれたから、こうやって前に進めたんだ。そう思えた。


「影山」


書類を手に固まっていた影山の名前を呼ぶ。のろのろと顔を上げて、影山がおれを見る。なんだよ、お前が鍛えたんだろ。そんなに信じられないような顔するなよ、失礼だな。


「これで、スタートラインだ」


約束までの一歩。お前と比べると随分遅くなってしまったけれど、これでようやく、お前と同じ舞台で走ることができる。ようやく、お前を倒すための準備ができる。


「見てろよ影山!絶対絶対、お前を倒してやる!」


影山はぼんやりとしていたその目に炎を燃やして、ぎらりとおれを見た。


「上等だ」


かかってこい、と影山が笑う。いつか絶対倒してやる。約束したから、絶対に、もう二度と諦めない。世界を開くのはおれだ。


視界はもう澄み切っている。













四月。真新しいジャージに身を包んで、意気揚々と敷地内を走り抜ける。新しい職場での挨拶も無事に終わり、自分用のパソコンのセットアップもどうにかなりそうで。日向くん、挨拶に行くよ、と監督ーーあの時の面接官だーーが呼びに来て、慌ててジャージに着替えて。
走る、走る。今日からここが、おれの戦う場所だ。これからいっぱい練習して、そんで。


「影山に、絶対リベンジだ!!」


――と、思っていた、のに。


ふわりとボールが投げられる。たん、たん、とリズムを刻んで、そいつが、跳ぶ。ボールが掌にミートしたばしん、という音。ごう、と唸りを上げて、ボールがネットの向こうへ突き刺さる。弾け飛ぶような音を立てて、数度壁に当たって跳ね返ったボールがようやく床に転がる。
ふう、と息を吐いた。黒髪のソイツ。あまりに見覚えがあるソイツの、目が、こちらを、向いて。


「なんで居る!?」


後ろの方で、監督が腹の底から愉快そうな笑い声を上げた。がやがやと聞こえるのはチームメイトの声だろうか。いや、今はそんなことどうでもいい。人違い?いやいやそんなこと有り得ない。おれが間違えるはずがない。間違えるはずがないけど、けど、けど!
やっぱりお前、なんでここに居る!?


「影山飛雄!!」

「うるせえ。名前呼ぶな。あと指差すな」


本人だ。間違いなく影山飛雄本人だ。
おれはもう、本当に何が何だかわからなくて、思わず監督を振り返る。監督は相変わらず腹を抱えて笑っているが、その目は真っ直ぐにおれと影山を見ている。


「相棒と、約束しました。お前を倒すのは絶対おれだって。ずっとあいつと同じ舞台に居るって。それが、十年後でも、二十年後でも。絶対に」

「あ、ちょ、監督!!」


監督が、おれが面接のときに言った言葉を繰り返す。なぜか慌てているのは影山だ。そんな影山はガタイのいいチームメイトに取り押さえられている。


「だから、このチームで。俺を、戦わせてください」


影山が低い唸り声を上げた。状況についていけないおれは、ただただぽかんと監督の顔を見ているだけ。


「この話をしてくれた人に、僕は、『君にそこまで言わせる相棒の名前は?』と聞いた」


聞かれた。覚えている。
だからおれは、影山の名前を。言って。


「彼はこう言ったよ。『俺のスパイカーの、日向翔陽です。』ってね」


思考停止。影山がドスの効いた声で離してください、と言っているのが遠くに聞こえた。監督は未だに楽しそうに笑っているし、チームメイトはやんややんやとお祭り騒ぎだ。
じわじわと、監督の言葉の意味がわかってきて。同時に、これを言った人物もわかって。いろいろなことが繋がって、点と点が線になって。笑えばいいんだか、怒ればいいんだか、泣けばいいんだか。最早よくわからない。
ただ、とりあえず。おれの目標はまた遠ざかったということで。


「影山!」

「あ!?」

「おれにトス、持ってこい!!」


仕方ないから、お前を倒すまでは。何度も、何度でも、お前のトスを呼ぶよ、影山。






全力少年
song by スキマスイッチ


20181202


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