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橙が降ってくる。
山の向こう。遠い向こう。向こうの方から、橙が降ってくる。空を覆うように、世界を包むように、何かから守るように、すべてを隠してしまうように。その橙は、等しく世界に降ってきた。そんな様子を、影山飛雄は、小さな部屋の中からじっと眺める。
橙が降ってくる。世界は俄かに最後の日を迎えた。テレビでも新聞でもラジオでも、橙が降ってくることに怯えた人々が騒いでいた。さわさわと揺れる声。何かが壊れる音。笑い声や泣き声、声を潜めて愛を紡ぐ人々。抱き合って、手を繋いで、来るべきその瞬間をじっと待ち構えている世界に、影山は飽き飽きとしていた。


その報が世界を駆け巡ったのはつい数日前のことだった。いつも通りの時間に起床して、いつも通り朝練の支度をして、いつも通りの朝食の席で、いつも通りではなかったのは彼の母親だった。青褪めた顔でテレビ画面を凝視する母の姿を横目に、影山は大きな欠伸をしていた。やけに騒がしいテレビ。近所の犬が、いつも通りでない空気を敏感に察して吠え立てている。それでも影山はいつも通り、いってきますと母に声を掛けて、テーブルの上の弁当を手に取った。今日の朝練ではどんなプレーをしようか。影山の頭の中にはいつも通りのそんなことしかなくて、だから彼は、母が縋るように自分を捕まえたとき、ひどく狼狽したのだった。
いつも通りの朝。いつも通りでない世界。母は影山に、家に居なさいと告げた。普段は穏やかな母の、常に無い強さの口調に、影山は黙るしかなかった。ひとつ頷くと、母はあからさまにほっとしたように息を吐く。ごめんね、飛雄。何が起きているのかわかるまで、部屋にいてちょうだい。母の言葉に素直に頷いた影山は手に取ったばかりの弁当をテーブルの上に戻し、自分の部屋へと踵を返した。扉の閉じる音が、やけに大きく聞こえた気がした。


それから、数日。世界は混乱を極め、家から出ることも許されず、テレビの前で祈るかのように両手を組む父や母の後ろ姿をぼんやりと見て、窓の外の橙を眺めて。そうして影山の一日が過ぎていく。とてもつまらない日々だった。バレーしてえなあ。呟いた言葉は宙に溶け、持ち慣れているはずのボールもここぞとばかりに影山から逃げ出した。ああ、バレーがしたい。

部屋に戻り、デッキに入れっぱなしだったDVDを再生する。何度も何度も繰り返し見た、全日本男子の試合。プレーは頭の中に入っているし、なんならスコアだって諳んじることができる。相手は強豪イタリア。まずは日本のサーブから。強烈なジャンプサーブを放った選手は、確か自分より数個年を重ねている程度だったはず。唸りを上げるボールを拾うのはイタリアのリベロ。綺麗にセッター位置へ返球され、セッターはレフトへとボールを送る。ここでまずはイタリアに一点。歓声。続いてイタリアのサーブ。細身の選手から放たれたジャンプフローター。ボールの軌道が変わって日本のコートに落ちる。二点目。
わあ、と響く歓声に混じって、プルルル、と機械的な音がした。影山は意識をテレビから離し、辺りを見渡す。プルルル、と催促するように音が鳴る。滅多に鳴ることのない、携帯電話の着信音。プルルルル、と三度。ようやく見つけた携帯電話の画面には、見慣れた四文字が並んでいた。発信ボタンを押して、数秒。スピーカーからはノイズ混じりの声が漏れていた。影山はのんびりと耳に携帯電話を当てる。


『なあ、聞いてんの影山!おーい!もしもし?影山くーん?』


実に数日ぶりに聞く声だった。あんなに毎日、飽きるほど聞いていたのに。電話越しの日向翔陽の声は、いつにも増して耳に響くようだった。


「うるせえ。聞こえてる」

『あ!影山!よかった、お前電話の出方も知らないんじゃないかって焦ったじゃんか』

「電話の出方くらい知ってる」

『その割には返事するの遅かったですね?』


携帯電話を握り、テレビの前からベッドへ移動する。テレビから目を離すことはない。イタリアのミドルブロッカーの高いブロックに、日本のエーススパイカーの渾身の一撃が止められる。イタリアに八点目。ブザーが響き、テクニカルタイムアウト。影山はそこでようやく映像を一時停止し、何事かを喚く日向へと意識を向ける。


『なあ、お前聞いてんの?まさか寝てる?』

「起きてる。こないだのオリンピックのゲーム観てたんだよ」

『ああ、お前んちでこないだ観たやつ?お前ほんとそれ好きだよな。もうゲーム展開覚えてんじゃねえの?』

「スコアも覚えた」

『マジかよ!その記憶力、勉強に生かせよな!』


電話の向こうでけらけらと笑う日向はいつも通りだった。そういえば、この橙は日向に似ている。降ってくる橙を見上げて、影山は唐突にそう思った。
突然降ってくるところも、世界を覆ってしまうところも。人騒がせなところも、いつの間にか呑み込まれてしまっているところも。この橙は、ひどく日向翔陽という人間に似ていた。じゃあ、世界中の人々は。今、あんな圧倒的な熱量に当てられて生きているのか。否応無く引き摺られて、もっともっとと急き立てられて、圧倒的で、絶対的で、恐ろしいほどの熱を持って飛ぶ、あの獣のような。橙を浴びて、呼吸をしている。影山は笑ってしまった。あの直射日光を浴びてしまったのならば、世界が終わってしまうのも道理である。現に、影山の世界は、一度ならず何度でも、日向翔陽にぶっ壊されているからだ。


『ああ、そうだ影山。おれ、こんな話がしたくてお前に電話したんじゃないんだって』


電波に乗せて、獣の唸り声がする。影山はまた窓の外を見て、墜ちてくる橙を見て、そうして、ハンガーに掛けられた真っ黒なジャージを手に取った。箪笥の一番上の段を開けて、丁寧に畳んで仕舞われた一張羅を引っ張り出す。一張羅とスポーツタオル。それから、バレーボール。携帯電話を片手に、高校入学を機に買ってもらったエナメルバッグにそれらすべてを器用に詰め込んで、影山はジャージを羽織る。
シューズは部室だ。ドリンクはどこかで調達すればいい。体育館は開いているだろうか。橙が降る前、鍵当番は誰だっただろうか。スピーカーの向こうから、がちゃん、と自転車のスタンドを押し上げる音がした。いってきます、と笑い混じりの日向の声。いってらっしゃい、と涙混じりの、恐らく日向の母であろう女性の声。兄ちゃん、と呼ぶのは彼の妹の夏だ。日向は、獰猛な肉食獣のような、軽快に鳴く烏のような声で、影山を、呼ぶ。なあ、影山。


『バレーしようぜ!』

「当然」


電話を切って、携帯電話をジャージのポケットに押し込んだ。階下から香ばしい匂いがする。影山は主張を始める腹を宥めすかし、忘れ物がないか、振り返る。ジャージも、着替えも、タオルも、ボールも、サポーターも、爪やすりも、念のためと持ち歩いているテーピングや絆創膏のようなものも、ハンカチも、ティッシュも、いつも通り、エナメルバッグに入っている。あと一つ、足りないとすれば。
階段を下りる音が聞こえていたのか、リビングのドアから母が顔を出す。目元は赤く滲んでいて、首からエプロンを下げている。必死にいつも通りを装う母親のその優しさに、影山は何故だか、胸が苦しくなる。


「飛雄。これ、お弁当」


いつもの青い包みの中に、ずっしりと重たい弁当。弁当ひとつでは足りない自分のために、母はいつだっておにぎりをふたつ、用意してくれている。弁当の中身だって知っている。自分の好物がたくさん詰められた、それでいて栄養バランスも考えられた、母の気持ちがこもった弁当だ。母のもう片方の手にはペットボトルのスポーツドリンクが握られている。その両方を受け取って、エナメルバッグの一番上に置いて、影山は、母を見た。自分の肩より少し下の母の顔は、こんなに小さかっただろうか。


「今日の夜は、あなたの好きなポークカレー作っておくから。温玉も用意しておくね」


いつも通り、母は玄関まで見送りに来る。父はリビングでコーヒーでも飲んでいるのだろう。いってらっしゃい、と父の声が遠く聞こえた。
スニーカーを履いて、立ち上がる。玄関を開けて、橙の眩しさに目を細める。橙が墜ちてくる。世界に、落ちてくる。それでも影山は、バレーがしたかった。


「いってらっしゃい、飛雄」


母の声が、もう遠い。


「いってきます」


ぱたん、と軽い音を立てて、玄関の戸が閉まった。世界の終わる音も、こんなに呆気なかったらいいのに。影山の独り言は、父にも母にも、届くことはない。


世界は橙に染まっていた。空も、山も、見慣れた通学路も、自分の影すらも。世界は見事に橙色をしていた。
橙色。オレンジ色。オレンジコート。バレーがしたい。シューズが床を擦る音。ボールの弾む音。サーブを打つ前の静寂が好きだ。強い相手と戦うときの緊張感が好きだ。やってもやっても喉が乾く。ボールに触れていないと飢えてしまう。ボールが繋がる瞬間が好きだ。自分のトスワークでスパイカーからブロックを引き剥がした瞬間が好きだ。早く、早くバレーがしたい。影山は走り出す。響き渡る声援が好きだ。きらきら光る体育館が好きだ。仲間が好きだ。烏野が好きだ。何より、影山は、バレーボールという競技を、一等愛していた。


「かっげやまーっ!」


後ろから自転車の音がする。橙色の世界で、たったふたり。走っている。息をして、手足を動かして、前を見て、まだ、生きている。
生きているから、バレーをやらなければならない。生きている限り、バレーをやりたい。影山飛雄は、バレーがある限り絶望しない。影山飛雄の世界は、バレーがある限り、希望で満ちている。影山飛雄は、そんな人間だ。影山は、自分自身がそんな人間であると、バレーに出会った瞬間から、知っている。
そしてそれは、後ろを走る、日向翔陽も同じであると。彼と出会った瞬間から、知っている。


「おい!自転車ずりぃぞ!走れよ!」

「へっへーん!お先ィ!」

「おいこら待ちやがれボゲ日向ボゲェ!」


静まり返った住宅街を、影山と日向は大声を上げながら真っ直ぐ走る。坂ノ下商店の前を通り過ぎ、坂を登って、見えてくるのは、烏野高校。校門が開いていることに何の疑問も抱かず、律儀に駐輪場へ自転車を停めに行った日向を横目でちらりと伺い、しめたとばかりに速度を上げる。日向は負けじと脚に力を込めて、いつも通り、いつだって同じように、影山と日向は、デッドヒートを繰り広げる。
橙に染まる世界を、いつも通りのふたりが、走り抜ける。ゴールは部室。部室棟の階段を駆け上がって、先に部室の扉に触れた方が勝者である。影山は、歯を食いしばって、一歩を踏み出した。その手が扉に触れる、一瞬前。扉が開き、中からは、たくさんの笑い声。


「あ!チーッス!遅くなりました!」


一足先に呼吸を整えた日向がいつも通りに挨拶をする。中からは、いつも通りに返答がある。聞き慣れた声。毎日聞いている声。


「おお!おっせーぞお前ら!」

「毎日毎日一番に来るくせに、こんなときだけ遅刻かー?」


田中がいて、西谷がいた。部室を覗き込めば、木下や成田、縁下もいた。揃いの黒のジャージを羽織って、ひとつ上の先輩たちが笑う。影山は息をするのも忘れて、彼らの笑い声を聞いていた。


「お前らなら絶対来ると思ったからな」

「二年も全員揃ってるのにはさすがに驚いたけど、まあそりゃあそうだよなあ」


澤村がいて、菅原がいて。東峰がいた。東峰は着替えている途中で、いつもぎりぎりの時間にやって来る彼らしいと影山は思った。ちんたらすんな、と澤村に蹴りを入れられている姿も、いつも通りだ。


「ちょっと王様。そこにいたら邪魔なんだけど。さっさと中入ったら?」

「そうそう。影山も日向も、早く中に入りなって」


月島がいて、山口がいた。いつも通りの部室。いつも通りの仲間。いつも通りの位置にエナメルバッグを置いて、バッグから一張羅を取り出す。黒地に橙のライン。刻まれた背番号は九番。着ていたシャツを脱ぎ捨てて、烏野高校排球部のユニフォームに袖を通す。バレーをするためだけにあるこのユニフォームが、影山は特に好きだった。着ていると気持ちが引き締まった。バレーが出来ると気分が高揚した。
影山の隣には日向が並ぶ。彼のユニフォームには十番の文字がある。憧れの番号だと言っていた。ユニフォームを着る度に、日向の熱量は膨れ上がっていく。まるで、世界を終わらせようとしている、あの橙のように。
サポーターとタオルを取り出して、ペットボトルを手に持った。ボールは必要ない。体育館に行けばいくらでもある。今日は何の練習だろうか。サーブ?レシーブ?スパイク?コースを狙う練習かもしれないし、コンビネーションの合わせかもしれない。この間菅原と話していたフォーメーションも試してみたいし、日向との速攻も合わせなければ。
やりたいことがある。一試合でも多く勝ち残るために。一秒でも長くコートにいるために。やらなければならないことがある。たくさんある。バレーに上限はない。どんなにプレーしたとしたって、きっとバレーに飽きることもないだろう。満足することもないだろう。影山は、バレーのために生きている。だから、たとえ世界が終わりを迎えたとしても、両手があって、ボールに触っていられるうちは、バレーをしていたいと願う。願った。


「なあ影山、知ってる?今日、世界は終わるんだって!」


日向が、その大きな瞳をぎらりと光らせた。世界の終わりさえも飲み込んでしまうような彼の闘争心や向上心といった熱が、影山をも焦がしていく。心地良い熱。熱くて熱くてたまらない。ああ、バレーがしたい。


「知ってる」


橙が落ちる。落ちて、墜ちて、堕ちて。世界が、橙色になる。燃える太陽のような、目の前で歯を剥く小さな獣のような、焦がれて止まないオレンジコートのような、そんな色で、世界が染まる。そこら中から崩壊の音が聞こえるようで、ただただ静かだった。そこに響くのは、ボールの弾む音だけだった。シューズが床を擦る音だけだった。仲間たちの声だけだった。だから影山は、絶望しない。


「だからどうした」


世界が終わっても、そこにコートがあって、ボールがあって、仲間がいて、相棒がいれば。そこにバレーがあれば。
影山飛雄の世界が終わることは、ないのである。


「ボゲ日向。さっさとバレーするぞ」





世界が終わるその日まで残った、たったひとつのちいさなねがい






20180110


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