haikyu!! | ナノ







私はヒロインになりたかったわけじゃない。私はいつだって、ヒーローになりたかった。


昔から身体が小さくて、勉強はそこそこできたけど、運動はからっきし。性格だってそれほど明るくないし、クラスの端っこでぼんやりと人気者を眺めているような子どもだった。輪の中心で笑う彼らをすごいなあ、と思えど羨ましいとは思ったことはない。彼らとは住む世界が違うのだと理解していたからだ。私は私、彼らは彼ら。住む世界が違う彼らと同じであることを望むのなんて烏滸がましいにも程がある。だから私は、私のままでいい。こうやって端っこで、眩しい彼らを眺めているだけでいい。ずっとそう思っていた。
私はヒロインになりたいわけじゃなかった。物語の主人公になりたいわけじゃない。目立たなくていい。中心になんて立たなくてもいい。村人Bで構わない。だけど私は、ヒーローになりたかった。誰かにとってのヒーローに。何かにとってのヒーローに。私自身にとってのヒーローに、私はなりたかった。





*****





「谷地さんはさ、どうしてマネージャーを続けてくれてるの?」


高校一年の、ある夏の日だった。汗だくの選手たちにタオルとドリンクを配って、空になったボトルを受け取り、タオルを洗濯して、ボトルを洗って新しいドリンクを作って。そんなことを、目を回しながらもなんとかこなしていた夏の日。ひいひい言いながら清水先輩を手伝っていた私に声を掛けてきたのは山口くんだった。


「あ、ええとさ。変な意味じゃなくて。大変だよね、マネージャー。暑いし、ドリンクも重いだろうし。汗だくのタオルなんて汚いじゃん。しんどくないのかなって」


日頃運動なんてしていない私には体力的にぎりぎりで、始めたばかりのマネージャー業は覚えることがたくさんあったから頭もフル回転させなければならない。山口くんの言うように、体育館は暑いし、ボトルいっぱいに作ったドリンクは一本でもかなり重い。それを選手の人数分、予備も含めたらもっと作って体育館まで運ばなければならない。普段から家事はしているので汗だくのタオルを汚いとは思わないけれど、これだけの人数がいたら洗濯だって一苦労だ。
選手たちが試合を始めたらスコアを記録したり、スコアボードを手伝ったり、時には審判だってやらなければならない。まだバレーのルールも完璧ではない私には分からないことだらけ。身体を使って、頭を使って、へとへとになって帰る日々。
どうしてマネージャーを続けてくれているの。山口くんの問い掛けは、そんな私を心配してくれているのだろうとすぐに気が付いた。現に、こちらを見ている山口くんの顔は、少しだけ心配そうである。そんなに心配されるほどひどい顔をしていたのだろうかと内心落ち込んだ。同時に、山口くんの問いに対する答えを考える。


「……どうしてだろう?」


考えてみる。清水先輩に誘われて、実際に試合を見学させてもらって。きらきらぎらぎらした選手たちは格好良くって。バレーってこんなにすごいんだとか、こんなに熱いんだとか、迫力あるなあとか、いろんなことを思った。やりたいならやればいいという日向の言葉、新しいことを始めるのに必要なのは少しの好奇心だけだという清水先輩の言葉。そんなものに後押しされて、私はこの世界に飛び込んだ。
では、どうして続けているのだろう。なんとなく?いや、そんなはずはない。これだけ本気で頑張っている選手たちを見て、なんとなくマネージャーを続けられる人がいたら会ってみたい。じゃあ、誘われたから仕方なく?いや、これも全然違う。だって、マネージャーをやると決めたのは私だから。じゃあどうして?どうして、どうしてだろう。続ける意味、そんなことを考える暇もなかったように思える。どうして。


「集合ー!紅白戦始めるぞ!」


体育館から飛んできた主将の声に、私と山口くんは揃って顔を上げる。山口くんは心底困ったような顔をして、私にごめんねと言った。


「ごめんね、谷地さん。変なこと聞いた。いつもサポートありがとう。これ、よろしくね」


そう言いながら山口くんは空になったドリンクのボトルを私に差し出した。私はそれを受け取りながら首を横に振る。謝ることなんか何もないよ、そういった意味を込めて。山口くんはその意図を汲み取ってくれたのか、照れ臭そうに笑って私に背を向ける。体育館に吸い込まれていくその背中を、私は黙って眺めていた。どうしてマネージャーを続けているのか、かあ。


「仁花ちゃん?どうかした?」

「あっ、スミマセン!すぐドリンク作りますね!」


ぼうっとしていた私に、清水先輩が声を掛けてくれる。ようやく思考の海から顔を上げて、清水先輩に笑ってみせた。疲れたなら休んでいいよ、と言ってくれる先輩に、全然元気です!と答えながら。私は考え続ける。私は、どうしてマネージャーを続けているのだろう。


体育館からはボールの弾む音が聞こえてくる。清水先輩は紅白戦のスコアを取るために体育館の中へと戻っていった。水道でざばざばと水を流し、ドリンクボトルを洗って新しいドリンクを作っておく。ドリンクを作ったら体育館に運んで、さっき干したタオルももうきっと乾いているだろうから取り込んで、それくらいになったら丁度一戦目が終わる頃だろうからタオルを配って。それから、それから。
マネージャーの仕事に集中し始めれば時間はあっという間に過ぎていく。マネージャー業の合間を見てバレーのルールを勉強して、実際に試合を見て選手たちの動きに慣れておかなければ。清水先輩に呼ばれたら先輩のサポートをして、ボール出しを手伝って。烏養コーチの隣でスコアを取りつつ、休憩時間になったらまたドリンクを配って。やることだらけ。
いつの間にか外はぼんやりと暗くなっている。午後五時半過ぎ。そろそろ部活も終わりの時間だ。


「集合ー!」


主将の号令に、選手たちが一斉に集まってくる。簡単なミーティングのあと、コーチから解散の指示。解散、といっても体育館を出て行く人なんてほんの僅かで、多くの選手たちはここから自主練を始める。ストイックである。
今日はあれをやろう、これの練習に付き合ってくれ。そんな声でがやがやする体育館は、第二ラウンド目突入といったところか。自主練は自分のやりたい練習を目一杯やれるからか、心なしか部活の時間よりもみんな元気に見える。


「谷地さん」


低めの声が私を呼び止める。最初の頃は少し怖かったけれど、今はもうすっかり慣れてしまった。振り返って見上げると、いつも通りボールを片手に真顔で立っている影山くんがいる。今日もトス練をするのだろう。日向のための新しいトスは絶賛練習中である。


「いいよ、ちょっと待っててね!」


両手に抱えたタオルを見て、影山くんは頷いた。影山くんを待たせるわけにはいかないと、私は洗濯機まで全速力で走る。途中、段差に躓いて転びそうになったところをたまたま外に出ていた東峰さんに助けてもらったのはご愛嬌だ。いつもすみません、と頭を下げると、東峰さんは困ったように、気を付けてね谷っちゃん、と声をかけてくれる。嬉しい。そして気を付けなければ。
洗濯機にタオルを放り込んで、洗剤も入れて、スタートボタンを押す。そのタイミングで清水先輩が試合で使ったビブスを持ってきたので、それもまとめて洗濯してしまう。


「洗濯終わったら私が干しておくから、仁花ちゃんは影山の方、よろしくね」

「了解です、ありがとうございます!」


練習後の洗濯やドリンクボトルの片付けはこうやって清水先輩にお願いすることになっている。明確に役割分担を決めたわけじゃないけれど、まだまだ不慣れな私を少しでも長く体育館に留まらせるための配慮だと私は思っている。まだ入りたての頃、先輩にばかりやらせるわけにはいかないと申し出たら、こっちはいいから体育館に戻ってね、とやんわりと断られてしまったのだ。それ以来、私はお言葉に甘えて体育館に直行するようにしている。
体育館に戻ると、各々が自主練を始めていた。サーブ練、レシーブ練、スパイク練。コンビネーションの合わせをしている人もいるし、体育館の隅で戦略についてコーチと話し合っている人もいる。体育館の中に姿がない人たちは既に隣の体育館に行っているのだろう。女バレの練習後に体育館を借りれるように交渉したと主将が言っていたから。
そんな中で影山くんはコートの半分を陣取って黙々と空のペットボトルを並べていた。私は慌ててボールの入った籠を押して、影山くんの隣に並ぶ。


「ごめんね、お待たせ!」

「うす」


自主練のとき、私はこうやって影山くんの練習に付き合うことが多い。みんなそれぞれやりたいことがある今、ボール出しを頼める人がいないのだと言っていた。影山くんにお願いされたとき、私は、私でも役に立てることがあることが嬉しくて二つ返事で了承したのだけれども。
ボール出しを侮るなかれ。影山くんの頭上にボールを投げるという単純な動作だけど、それがまたとても難しかった。そもそも私は背が低いので、ボールを投げたところで大した高さにならない。高く投げられたとしても影山くんの求めている場所に落ちるかは運任せだった。何度影山くんの頭にボールをぶつけたことか。目にうっすらと涙を浮かべて、眉間に皺を寄せて。でも決して影山くんは怒らなかった。大丈夫ッス、慣れてる、とか言っていた。たぶんあれは嘘だろう。


「高さはこれくらいで大丈夫?もうちょっと高くする?」

「あー、今はこれくらいで。後でもう少し高くしてもらってもいいか?」

「もちろん!」


今でこそボールを高く投げることにも高さを調整することにも慣れたけど、最初の頃は本当に酷かった。何度謝っても足りないくらいだった。だから私はこっそり、ボールを上に投げる練習をしたりもした。影山くんの、選手のサポートをするのがマネージャー。なのに、そのマネージャーが選手の邪魔をしてはいけないと思ったから。
ボールを山なりに投げる。影山くんの頭上にボールが落ちてきて、彼の両手がボールに触れる。瞬間、ボールは彼の手を離れて、また落ちる。落ちた先には空のペットボトル。からん、と音を立ててペットボトルが倒れる。そんな一連の流れが、とても綺麗だなといつも思う。今日の成功率は上々。ちらりと時計を見ると、午後七時ちょっと前。そろそろかな、と体育館の入り口に目を向ければ、ばたばたと忙しない足音が聞こえてきた。


「影山!トストス!トスくれっ!」

「うっせえ日向ボゲェ!レシーブ練ちゃんとやってきたんだろうな!?」

「当然!」


体育館に飛び込んできたのは日向だ。自主練の時間の半分をレシーブ練やサーブ練に費やし、残りの半分を影山くんとの速攻に費やすのがここ最近の日向のサイクルである。谷地さんお疲れ、と私に声をかけるのも忘れない。
私にとって、二人が揃ってからが自主練の本番になる。体育館の隅に置いた小さめの方眼ノートとペンを取り、新しいページに今日の日付を入れる。このノートは日向と影山くんの速攻の成否を記録しておくものだ。方眼ノートにはあらかじめ百までの数字を入れておき、五回に一回くらいのタイミングでノートに成否を書き込む。自主練の最後、今日の成功率を二人に告げて終わり。二人が新しい速攻に挑戦するようになってからなんとなく始めたものだけど、二人がいたく喜んでくれたのでそのまま続けている。


「よっしゃあ来い!」


日向がコートの真ん中付近まで下がって、影山くんがセッターの定位置につく。私がボールを投げて、日向が助走に入る。影山くんの頭上にボールが落ちる。日向が高く高く舞い上がる。影山くんの手から離れたボールは日向の手のひらに吸い込まれて。瞬きする間に、ばしん、と心地いい音が響いた。一本目は成功。


「おい影山!ちょっとトス低い!」

「分かってんだよ!修正する!」


と思いきや、日向と影山くんは不満気だ。これは失敗だったらしい。念のため、二人にマルかバツか聞いてみると、二人揃ってバツ、と返事をしてきた。判定が厳しいのはいつものことである。
そうやってひたすら繰り返す。何本も何十本もひたすらに。その間、何度か先輩たちがやって来てボール出しを代わってくれるので、私は自主練をしている人たちにドリンクを配って回る。いくら自主練といっても水分補給は大事だ。先輩たちも私が速攻の成否をメモしていることは知っているので、私がいない間も順調にノートに成否が書き込まれていく。私が戻ってくると先輩たちはまた各々の練習に戻っていく。そうやって、気付けば午後八時ちょっと過ぎ。


「おい、日向、影山。いつまでやってんだ。そろそろ帰れよ!」

「お前らこんな時間まで谷っちゃん付き合わせんなよー」


主将の声と菅原さんの声。制服に着替えた二人が呆れたようにこちらを見ていた。私たちは慌てて床に散らばったボールを片付けて、モップ掛けをする。うちの主将と副主将は怒るととんでもなく怖いのだ。怒られるのは主に日向と影山くんだけれども、横で聞いてるだけでもそりゃあもう恐ろしい。背筋が伸びる思いだ。


「谷地さん、ごめん!また時間忘れてた!」

「バス停まで送っていく」


片付けが終わると同時に二人が体育館を飛び出して、私も後に続こうとして踏み止まる。壁際に忘れられたドリンクボトル。それを手に取って、水道まで走ろうとして。苦笑した菅原さんに引き止められてしまった。


「谷っちゃん、俺たちがやっとくから先に着替えておいで」

「え、いやでも!そんな!」

「いいって。どうせ体育館も閉めなきゃだし。谷っちゃん女の子なんだから着替えるのにも時間かかるべ?」


ぽんぽんと頭を撫でられて、恐縮で身を竦ませる。主将は既に体育館の中に入って消灯前の確認をしていて、菅原さんはそのまま水道へと歩き出してしまう。二人の厚意を無下にすることもできず、ありがとうございます、と頭を下げて、私は更衣室へと走った。
更衣室には清水先輩がいて、遅かったね、と笑った。その顔には、また時間忘れてたんでしょう、と書かれているようで、ますます身を縮こませた。ばれている。
汗だくのTシャツを脱いで、タオルで簡単に汗を拭う。制汗剤を振り撒いて、制服を着て。私が着替えている間に清水先輩もマネージャー日誌を書き終えたようで、鞄を手に取って立ち上がる。簡単に身の回りを整頓して、入り口で私を待ってくれていた。


「さ、帰ろう。今日も一日、お疲れ様」


清水先輩がぱちりと更衣室の電気を消した。外に出ると体育館もしっかり消灯されていて、部室棟の前で日向と影山くん、主将と菅原さんが立ち話をしている。すっかり暗くなって星が瞬くような時間になっても、風はぬるいし茹だるような暑さは変わらない。夏だなあ、と考えていると、日向が同じことを呟くのが聞こえた。何当たり前のこと言ってんだ、と影山くんに言われて何事かを反論している。練習後だというのに元気だ。


「あ、谷地さん!帰ろ!」

「お疲れッス」


日向が笑って、影山くんが私の荷物を持ってくれる。ボール出しのお礼なのだそうだ。最初こそ悪いよ、と断っていたが、影山くんが頑なに譲らないので根負けしてお願いするようにしている。正直、ボールを投げすぎて腕が上がらないくらいなので、この申し出はとてもありがたい。
自転車を押した日向が一番端っこ、真ん中に私、私の隣に影山くん。先輩たちに挨拶して、三人で歩き出す。今日の速攻の成功率は七十八パーセント。ノート片手に今日の結果を告げれば二人は一様に悔しそうな顔をする。ああだこうだと速攻について話す二人の会話を聞きながらバス停まで一緒に歩いて、お疲れ、また明日、と手を振って。


そうやって慌ただしい一日が終わる。バスの中でうとうととしながら、ああ、そういえば。山口くんからの質問の答え、考えられなかったなあ、と。そんなことをぼんやりと思った。




*****




一度目の夏が終わり、秋が来て。春高が終わって、春が来た。四人の先輩方を見送って、新入部員が入って。春が過ぎ、夏が来て、秋も過ぎて、冬が終わって。その間、何度出会いと別れを繰り返しただろう。
目まぐるしい日々。毎日があっという間だった。たくさん泣いたし、たくさん笑った。日向と影山くんがあまりにも喧嘩ばかり繰り返すから、二人に対して怒ったことがある。月島くんと山口くんがそれを見て笑うものだから、笑い事じゃない!と怒鳴ったこともある。それでもやっぱり、笑っていることが多かった毎日。
そうやって、三度目の春も過ぎ去って。




*****




私にとっては二回目のインターハイ予選。決勝戦は烏野対青葉城西。お互いが一歩も譲らない、正に死力を尽くした戦いだったと思う。出せる力をすべて出して、体力も知力も捻り出して戦い続けたフルセット。勝負を制したのは青葉城西。私たち烏野高校は全国への切符を逃した。


そこから、日向と影山くん、月島くんは何かに取り憑かれたように練習に打ち込んだ。元々ストイックだった日向と影山くんは更に練習量を増やしたし、月島くんは彼らに負けじと黙々と練習をしていた。
正直、怖かった。何度も山口くんに三人を止めるように言ったし、山口くんも止めようとしてくれた。けれど三人は聞く耳を持たず、烏養コーチや武田先生に何を言われても練習を止めず。自主練だけではなく、普段の練習メニューにも厳しさが表れ始めた。そのうち、先輩たちにはついていけないと何人かの部員が辞めていって。それでも三人は私たちのことなんか顧みなかったから。悲しくて、苦しくて、つらくて。つらくて。どうして、なんで。こっちを見てよ、笑ってよ。どうして。
私の中で膨らんでいったそんな気持ちたちは、ある日突然爆発した。


いつものように練習が終わって、各々が自主練を始めると同時に体育館を出て行く三人の姿。ざわり、と胸の中で言いようのない気持ちが溢れた。三人の姿を見送る山口くんは、それでも彼らを引き止めることなく後輩たちへ向き合う。
こっちを見ない。彼らに。腹が立って。腹が立って。私は走り出す。


「いい加減にしてよ!」


三人が自主練している体育館の扉を開け放って、手に持っていたドリンクを床に叩きつけた。ごとん、という派手な音に三人は焦ったようにこちらを振り返る。目を瞠る彼らに順番にタオルを投げつけて、いい加減にしてよ、ともう一度言う。涙が出そうだった。苦しくて怖くて、息ができなかった。それでも必死に息を吸った。私にしかできないことだと思ったから。


「バレーボールは六人でボールを繋ぐ競技なんだって、教えてくれたのは日向だよ!コートのこっち側はもれなく味方だって田中先輩が教えてくれたって、影山くん言ってたでしょ! 月島くんだって、あんなに近くにいる山口くんのこと、どうして信じようとしないの!」


三人がどうしてそんなに練習に打ち込んでいるのか知っている。次の春高が最後だから。最後のチャンスだから。次こそは、と思っているのもわかっている。だからこそ、こっちを向いてほしかった。三人だけで頑張らないでほしかった。


「三人だけでやってるんじゃない!私たちだってここにいる!なのに、なんでこっちを見ようとしないの!」


別の体育館で、山口くんは一人、部員たちを繋ぎ止めている。どんどん過酷になっていく練習に、三年生は笑わなくなって、部内の空気は重い。何人もの部員が辞めていった。練習に来ても苦しそうにしている後輩だっている。コーチが、先生が。どうしたらいいのかと頭を悩ませている。それを、山口くんは一人で。必死に繋いで。三人を信じて、踏ん張っている。
三人だけで頑張ってるんじゃないんだって。そう言い続けている山口くんの気持ちを踏みにじるような三人が。私は、許せなくて。


「日向は、影山くんは、月島くんは!烏野高校排球部なんでしょ!全国に行くのは、三人じゃなくて、烏野高校排球部のみんなでしょ!?」


涙が視界を塞ぐ。嗚咽が漏れる。息が苦しい。怖くて、痛くて、許せなくて、つらくて。でも、目を逸らしてはいけないと、思った。


「帰って、きてよぉ」


一番言いたかった言葉は情けなく震えていた。私は遂に膝から崩れ落ちて、床に座り込む。これで伝わらなかったら。もう、私にはどうしようもない。
誰に助けてもらえばいいのだろう。あの日、日向と影山くんの喧嘩を止めてくれた田中先輩はここにはいない。何かといがみ合う彼らを仲裁してくれた澤村さんや菅原さんもいない。山口くんにばかり頼っていてはいけない。私が、やらなければいけないのに。これで、伝わらなかったら。


「谷地さん」


日向の声がすぐ傍で聞こえた。自分の肩が跳ねたのがわかる。顔を上げるのが怖かった。


「ごめんね、谷地さん」


やわらかい声。顔に当たるタオルの感触。涙を拭われているのだ、と気付いたのは数秒後。背中をさする大きな手。私が床に落としたドリンクを拾って差し出すのはテーピングされた傷だらけの手。


「おれ、ひとりで戦ってる気になってた。次がラストチャンスだって思ったら、居ても立ってもいられなくて。練習してなきゃ不安だったんだ。まわりのこと、見えなくなってた」


私の知ってる日向の声だった。優しくて、真っ直ぐで、強い声。


「影山も、月島も、たぶんおんなじ。おれとおんなじで、何も見えなくなってたんだと思う。山口がいるのに。谷地さんがいるのに。先生も、コーチも、後輩たちもいるのに。おれたち、バカだよなあ」


ごめんね、と日向が言う。ごめん、と影山くんと月島くんの声が重なる。胸のあたりがぎゅうと痛くなって、その痛みを境に、苦しみや悲しみが溶け出して。溶け出した痛みたちが、涙となってこぼれていく。
私は言葉を紡ごうとした。うまくできなかった。息を吸って、吐き出して。そんな当たり前の行為もうまくいかなくて。背中をさする影山くんの手が、宥めるように動くから。谷地さん、と呼びかける声を、久しぶりに聞くような気がするから。涙が止まらなくて、止まらなくて、目が溶けてしまいそうだ。


「……っ、や、やまぐちくん、に、」


必死に言葉を吐き出す。山口くんに謝って。ひとりで頑張ってた山口くんに、謝ってきて。そう言いたいのに、言えなくて。月島くんが差し出してくれたドリンクを遠慮なくもらって呼吸を落ち着かせる。息を吸って、吐いて。涙は止まらないけれど、なんとか息ができる。


「谷地さん。あのさ、」


月島くんが言い淀む。珍しさに思わず月島くんの目を見れば、すぐに目が逸らされる。月島くんは何か頼みたいことがあるとき、こうやって目を逸らす。例えば利き手のテーピングがうまくいかないとき。例えば日向と影山くんに勉強を教えるとき。目を逸らしながら、頼んでくる。私は知っている。
月島くんの言葉を待つ。何を頼みたいのか、なんとなくわかってはいるけれど。月島くんから、或いは日向や影山くんからちゃんとお願いされない限り、私は聞いてあげるつもりはない。
月島くんが深く深く息を吐いた。自分を落ち着かせるように、深呼吸。緊張しているのだ。彼にしては珍しい。それだけ本気だということがわかっているから、私は黙って続きを促す。


「山口に、謝ってくる。だから、谷地さんも、一緒に来てくれる?」


そうやって、何度も言葉を飲み込んで躊躇って。ようやく聞こえた月島くんの言葉に、また涙が出た。


「あたっ、当たり前、だよっ!」


声が裏返って恥ずかしい。そんなことよりも、ただ嬉しかった。わかってもらえたこと、頼ってもらえたこと、私にも伝えることができたこと、前みたいに四人揃って練習する姿が見れること。
日向からタオルを奪い取って涙を拭く。立ち上がって、歩き出す。なのに、三人が気まずそうにしたまま歩き出さないものだから。


「行くんですか!行かないんですか!」


振り返って、精一杯の大きな声で怒鳴る。体育館中に響いた私の声に、私よりも遥かに大きな男子三人組がびくりと肩を震わせる。ばたばたと走り出す足音。私はもう振り返らない。向かう先は、第二体育館。
まだ明かりはついているし、ボールの弾む音もする。声も聞こえる。なんとなく覇気がないけれど。そんな中で山口くんが大きな声を上げている。それに返事をする後輩たち。やまぐち、と後ろから声がした。山口くんがひとりで後輩たちを纏めていたことをようやく実感したらしい三人は、そこで足を止めてしまった。


「山口くん、本当に頑張ってたんだよ。後輩を繋ぎ止めるのもそう。先生やコーチにも、もう少し待ってください、ってずっと言ってた。ずっとずっと、三人を信じてた。同じ場所に立つのを待ってた。帰ってきてほしいって、たぶんずっと思ってた」


私なんかよりもずっと。山口くんの方が苦しかったはずだ。それでも、ひたすら三人が帰ってくるのを待ってた。信じて待ってた。そんな山口くんの気持ちを、ちゃんと知っててほしかった。
日向が走り出す。影山くんが、月島くんが後を追う。


「山口!」


突然体育館に飛び込んできた三人に、山口くんは心底驚いたように目を丸くした。練習していた後輩たちも何事かと手を止める。タックルする日向を受け止めて、居心地悪そうに視線をうろうろさせる影山くんと月島くんを怪訝そうに眺めて。そして、体育館の入り口に立つ私に気付いて、山口くんは納得したように笑った。


「なんだ、三人とも。遂に谷地さんに怒られたの?」

「おう!すっげー怒られた!」

「俺が何言っても聞かなかったくせに、谷地さんに怒られたら聞くんだ」

「そ、んなこと、ねぇし!」

「ツッキーなんて、最近教室でも俺の話聞いてくれないしさあ」

「……ごめん、山口」


山口くんは笑っていた。仕方ないな、と顔に書いてある。ごめん、と三人に口々に言われて、山口くんは一人ずつ順番にチョップを落とす。まるで菅原さんみたいだなと思った。
私はそっと体育館から離れる。あとは選手たちのやるべきことだ。私は、マネージャーとしての私の仕事をやろう。踵を返して、第二体育館から離れる。


「みんなも、ごめん!おれら、焦ってた!バカだった!本当に、ごめん!!」

「ひ、ひなた、せんぱいいいっ!おれ、俺たち、マジで、もうだめなのかと、思って……!」

「悪かったな。もう、大丈夫だから」

「僕もごめん。変人コンビに引っ張られて、おかしくなってた。バカになってた」

「んだと月島!テメェ!」


第二体育館から久しぶりにはしゃいだ声が聞こえる。泣き声や怒鳴り声も混じっている。賑やかだ。私の好きな声だ。こんなに楽しそうなみんなの声、聞かなくなってそんなに経っていないはずなのに、随分と懐かしいような気になった。
先ほど出てきたばかりの体育館に戻って、床に散らばったままのボールを拾い集める。ひとつひとつ集めて、籠に入れて。遠くから聞こえるみんなの声と、ボールを濡らす雫に、やだなあ、と独り言を漏らす。せっかく止まったと思ったのに、まだ涙が出る。
泣いている場合ではない。袖口で乱暴に涙を拭った。やっと、始まる。最後の最後。これからだ。ここからだ。春高予選は、もうすぐそこ。日向も影山くんも、月島くんも山口くんも。もう大丈夫。きっと大丈夫。だから、泣いている場合ではないのだ。


「谷地さん!」


山口くんの声。振り返ると息を切らした山口くんが立っていた。


「あいつら、やっと目が覚めたみたい。よっぽど谷地さんの喝が効いたみたいでさ、さっきからずっと謝りっぱなし」


くすくす、と山口くんは笑う。安心したように、すっかり肩の力が抜けている。よかった、いつもの山口くんだ。これでようやく、五人揃って前へ進める。
谷地さん、と山口くんがもう一度私の名前を呼んだ。真っ直ぐ私を見る山口くんの目が、微かに潤んでいるように見えた。そうして山口くんは、勢いよく頭を下げる。


「ありがとう、谷地さん。谷地さんがいなかったら、俺だけじゃ、どうにもならなかった。ほんとに、本当にありがとう!」


山口くんがにっこりと笑う。その笑顔に、また涙が溢れてくる。ああもう、今日は止まらないんだろうな、と思って涙を止めることは諦めた。山口くんはさっきの日向みたいにタオルで顔を拭ってくれた。ちょっと痛かったけど、我慢する。


「絶対、勝つから。絶対絶対、春高行くから。それで、春高で優勝して、谷地さんは日本一のマネージャーだってみんなに自慢するから」


だから、一緒に戦ってくれる?
山口くんが手を差し出した。私は迷わない。


「もちろん!」


山口くんの手を握った。とっくの昔に一緒に戦う覚悟はできている。
春高予選を戦い抜いて、宮城で一番になって。春高に行って、日本で一番になって。私だって、私のチームメイトは日本一なのだと、日本中に自慢したい。だからもう、迷わない。
私は、私の戦いを。全力で。




*****




三度目の秋が来た。あれから再スタートを切った烏野高校排球部は、驚くべきスピードで成長していった。日向と影山くんの速攻は磨きがかかって、月島くんを中心としたブロックも精度が高いものとなっていた。山口くんも武器であるサーブを磨き続けている。後輩たちはそんな四人の背中を追いかけて、必死にしがみついて、そうして立っている。
全員で走り続けた春高予選。烏野対白鳥沢。いつかの焼き増しのような試合展開に、心臓が潰れるような気持ちでベンチに座っていた。一進一退の攻防。息が止まるようなラリー。気力も体力もすべてすべて注ぎ込んで。
烏野高校は、春高へ駒を進めた。




*****




「あと一点!」


会場中が声援に包まれる。あと一点。叫ぶのは誰だ。あと一点。あと一点で、決まる。

影山くんのサーブ。サイドラインぎりぎりを狙ったそれを、相手校のリベロが丁寧に拾い上げる。セッターへ返ったボール、どこへ上がるのか。スパイカーが数人飛び出してくる。セッターが選ぶのは、エース。
エースのスパイクがこちらのコートに突き刺さる。瞬間。簡単には通さない。月島くんが、手を伸ばす。ワンタッチ。叫ぶ声はガラガラだ。後ろに下がっていた山口くんが縺れる足を必死に動かしてボールを拾う。コートの真ん中あたり。高く上がったボールに、影山くんが小さく笑う。スパイカーが助走に入る。自分のところへトスが上がると信じて、走り出す。その、後ろで。高く舞う、小さな獣。日向がいた。
その、振り上げた手のひらに。ボールが吸い込まれていく様子を。私はこれまで、何百、何千回と見てきた。目を閉じていても思い出せる、そのボールの軌跡。飽きるほど目に焼き付けてきた。
けれども、このとき、この瞬間の速攻を。今までで一番の速攻を。私はきっと、一生覚えているのだろう。そう、思った。


「ああ、きれいだな」


きれいだった。何よりも、何よりも美しい瞬間だった。ボールの弾む音。試合終了のホイッスル。鳴り止まない歓声。きらきらと光る、汗や涙。夢にまで見た光景。私が夢見た、望んだ光景が、目の前にあって。ああ、なんだ。悩み続けた問いへの答えは、こんな簡単なことだったんだ。そう思った。
眩しい照明の下、オレンジコートの真ん中で。泣いて笑って雄叫びを上げて、心も身体も全部使って、文字通り全身全霊でこの勝利を喜ぶ烏野高校排球部のみんなの姿に、私は、ようやく、あの夏の日の山口くんからの問い掛けに対する答えを見つけた。

それは、至極簡単で。笑ってしまうほど、呆れてしまうほど、単純な、答え。
私はきっと、彼らと一緒に、ヒーローになりたかった。






ヒーローになりたかった谷地仁花の話






表彰式。名前が呼ばれる。私の、私たちのチームの名前が呼ばれる。優勝、と。最も誉れ高い言葉とともに、烏野高校の名前が、読み上げられる。私はそれを、正面から見ていた。みんなの顔が見える一番の特等席で見ていた。きらきらしていた。ぎらぎらしていた。あの日、私がマネージャーを始めたあの日と変わらず、みんな格好良かった。溢れそうな涙を拭った。今は泣くべきときじゃないから。惜しみない拍手を贈る。みんなに届くように。隣に立つコーチや先生たちも、観客席から見守ってくれている先輩たちや応援に来てくれた人たちも、同じように拍手を贈っている。
誰も彼もが輝いていた。影山くんに、日向に、月島くんに、山口くんに。一等美しく輝く金色が、贈られる。ああ、なんて嬉しいのだろう。なんて誇らしいのだろう。私が、マネージャーを続けていた理由は。これが見たかったからだ。夢が現実になる瞬間に居合わせて、みんなと一緒に、喜びを分かち合いたかったからだ。ああ、ああ。あの日、私と彼らを会わせてくれたバレーボールの神様。本当に、ありがとうございました。そんな風に、いるかどうかも分からない神様に感謝するくらいには。今、このとき。私は、幸せだった。


「谷地さあぁぁんっ!!」


大きく響いた日向の声にびくりと肩を震わせる。たくさんの視線が一斉にこちらを向いて、突然のことに目を白黒させる。名前を呼ばれた。誰に。日向に。表彰式の真っ最中の日向に。名前を、呼ばれた。


「え」


喉を震わせたのはそれだけだった。隣に立つ先生もコーチも、表彰式を見守っていた観客や他のチームの面々も。みんながみんな、不思議そうに日向を見ている。そして名前を呼ばれた私のことも見ている。顔が赤くなるのが分かる。注目されることなんて慣れてない。私はマネージャーで、選手じゃないのだから。
あわあわしている私の元へ、日向が駆けてくる。影山くんが、月島くんが、山口くんが、駆け寄ってくる。え、え、と戸惑う私を余所に、四人は一目散に私の元へやってくる。何が起こっているのか分からない。先生とコーチはいつの間にか私の背中を押していて、日向たちは私の正面に立っていて。心臓が口から飛び出そうで、今にも倒れてしまいそうで。そんな私の首に、しっかりとした重さのものが掛けられて。


「谷地さん!これはおれから!一緒にここまで戦ってくれて、本当にありがとう!」


え、と思った。首の重さ。両手を差し出すようにして笑う日向の顔。私の胸元に光るのは、ついさっき日向の首に掛けられたばかりの金メダル。


「これは俺から。いつも自主練付き合ってくれてあざっした。あと、谷地さんのおかげで、俺らはここにいる、と、思うんで」


重さが一つ増える。影山くんが不器用に笑っている。重ねてもう一つ。金色が、照明を弾いてきらりと光る。


「僕からも。ずっと支えてくれてありがとう」


月島くんも笑っている。私は何が何だか分からなくて、え、え、と言葉を紡ぐしかできない。そんな私の様子が可笑しいのか、月島くんはぐしゃりと私の頭を一撫でして。


「谷地さん。俺、いつだったか、どうしてマネージャー続けてくれてるのか聞いたよね」


更にもう一つ。四つの金メダルが、私の胸元でかしゃんと音を立てる。呆然と顔を上げると、そこには涙を堪えて笑う山口くんがいて。


「どんな理由だっていいや。谷地さんが、ここまでマネージャー続けてくれて、俺たちを支えてくれて、一緒に戦ってくれたから。俺たちはここまでこれた。谷地さんのおかげ。だから、ありがとう」


俺たちから、谷地さんに。日本一のマネージャーに。俺たちのヒーローに。金メダルを授与します。
そんな、言葉に。私は、私は。私は。


「……ぅ、あ、わあああぁっ!」


ありがとう、だなんて私の言葉だ。ここまで連れてきてくれてありがとう。一緒に戦わせてくれてありがとう。私を仲間だと言ってくれてありがとう。限られた高校三年間、こんなにも輝いている日々をありがとう。ありがとう、ありがとう。いくら言ったって足りない、どれくらい気持ちを込めたって足りない。ありがとう、ありがとう、ありがとう。何回言ったって全然言い足りない。
嬉しくて、胸がはち切れそうで、私はメダルをくれた四人にしがみついた。この気持ちをどうやって言葉にしていいか分からなくて、わんわん泣きながら、私は何度もなんどもありがとうと言った。私の頼りない背中を支えながら四人は口々に、こちらこそありがとうと言ってくれた。


いつの間にか会場中が大きな拍手に包まれていたけれど、表彰式を中断させてしまったことを武田先生が謝っているのが横目に見えたけれど。後輩たちも一緒になってもみくちゃになってしまった今ではもう、目の前の光景以外は何も見えないし聞こえない。幸せで、幸せで、しあわせだった。
私は。私でも、誰かのヒーローになれたのだと。四つの金メダルを握り締めながら、ただ、それだけを強く思っていた。
そして、私をヒーローにしてくれた烏野高校排球部のみんなは、私のチームメイトは、日本一なのだと。それを日本中に知らしめることができた幸せを、喜びを、ひたすらに、噛み締めて。私は、笑うのだ。






(或いは、烏野高校排球部のヒーローである彼女の話。)






20170806


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