senyu | ナノ







 アルバがいなくなってから、世界では奇妙な噂が流れていた。曰く、小さな"奇跡"が増えたという。


 滅多に雨の降らない地域に極僅かだが雨が降っただとか、いなくなったペットが突然帰ってきただとか。大型の魔物に襲われそうになった瞬間、突然魔物が魔界へ送還されただとか。大怪我が一晩にして回復していたり、凶悪犯罪者が路地裏で伸びていたり。そんなことが世界の各地で起こっているらしい。
 シオンやルキ、クレアがその話を聞いたのは、世界中を飛び回っているキャラバンの隊長からだった。三人はアルバの行方を追うために魔法でアルバの魔力の痕跡を追う傍ら、こうした人間からも情報収集していた。キャラバンや旅人は噂にもならない程度の小さな情報を持っていることが多い。そんな人々の耳に入るような異変があったとするならば、そこにアルバが関わっている可能性がある。そう考えた三人は人の集まる酒場や食堂などで情報収集を続けていたのである。


「そんな奇跡が続くなんて、この世界には神様がいるのかもしれねえなあ!」


 キャラバンの隊長はそんな言葉で話を締め括った。それを聞いたシオンは苦い顔だ。
 神様、神様か。そうかもしれない。十中八九、世界に満ちる小さな奇跡にはアルバが関わっているだろう。人に見えないところで世界を見て、手助けをする。まるで神様のようなことをする勇者だ。あんたはいつから神様を目指していたんですか。勇者になりたかったんじゃないんですか。見付けたら鼻で笑ってやろう、シオンはひとり、決意を新たにする。

 あんなに人間臭いあの人が、神様だなんて。喜怒哀楽が激しくて、すぐに泣いてすぐに怒って、そうしてすぐに笑う、人間らしい人だ。傷付けば泣く。何かをされれば怒る。嬉しいことがあれば笑う。良くも悪くも子供だったアルバが、シオンには眩しくてたまらなかったのだ。彼が持たないものを持つアルバが、シオンは羨ましかった。
 ころころと変わる表情は見ていて心地よかった。自分が落としてしまったものを持っている彼に、遠い日の自分を重ねていたこともあったかもしれない。とにかく、シオンはアルバに憧れていた。妬みとか僻みとか、そんな負の感情が一切無かったとは言えないけれど。眩しくて眩しくて、ただただ、見ていたかったことも事実だ。そこに一欠片の嘘もない。

 そんなアルバを、もう長いこと見ていない。そんな、当たり前と言えば当たり前で、気付いてしまえば違和感だらけのそれに気付いたのは、本当に唐突だった。


「ロスさんはさ、よく笑うようになったよね」


 あれは、いつだったか。ある日、ルキに言われた言葉を思い出す。あのときはこーんな怖い顔してたよね。笑ってもそんな風に気の抜けた笑い方なんかしなかったのに。ロスさん、変わったね。アルバさんみたいになったね。そこまで言って、彼女はにこにこと笑っていた顔をふと翳らせる。


「でも、アルバさんは笑わなくなった」


 強がってるの、見てればすぐ分かるのに。世界を救った勇者様だからって、私たちの前でくらい強がらなくてもいいのに。男の子ってわかんないなあ。愛飲しているファンピーグレープを飲みながら、ルキが拗ねたように頬を膨らませた。笑わなくなった、あの人が。シオンは鸚鵡返しに尋ねる。ルキは一度頷いて、ロスさんもそう思うでしょ、と言った。
 分からなかった。アルバはシオンの前では変わらない、アルバのままだと。思っていた。だから頷けなかった。ルキはそんなシオンを見て、何と言ったのだったか。


「まるで、アルバさんがロスさんに笑うとか泣くとか怒るとか、そんなもの全部をあげちゃったみたいだね」


 全然悪い意味じゃないんだけどね。続いたルキの言葉もシオンの耳には届かなかった。そうか、オレはあの人から感情を貰ったのか。そんな、普段なら腹を抱えて笑い飛ばすようなクサイ台詞が、すんなりとシオンの心に沁み込んだ。

 そんなことを、今更思い出す。


「神様なんていない」


 いるのは、底抜けにお人好しで、自分の何もかもを人にあげてしまえるような、史上最強に馬鹿な、勇者だけだ。
 言い切ったシオンに、キャラバンの隊長は細い目をぱちりと瞬いた。次の瞬間には弾けたように笑い出し、シオンの肩をばんばんと叩く。クレアとルキが引き攣った顔でその様子を眺めていると、男は笑い過ぎて浮かんだ涙を指で拭いながらシオンの頭をがしりと掴んだ。


「そりゃあ、あれか!勇者アルバのことか!いや、レッドフォックスか!まあどっちでもいい!」


 俺も、あいつ以上の大馬鹿野郎なんて見たことないぞ!愉快そうな笑い声を聞いたルキが、まじまじと男の顔を見る。そして、大きな目を更に大きく見開き、ああ、と声を上げた。


「もしかして、あの時のおじさん!」

「ん?おお!どっかで見たことあるお嬢ちゃんだと思ったら!あの時、レッドフォックスと一緒にいた子じゃねえか!」


 男は勢いをつけてルキを抱き上げる。ルキは怖いー!と叫んで暴れて、そんな彼女の様子もお構いなしに男は楽しそうに笑っていた。そんな男の手からクレアがルキを救出し、事なきを得た。あのまま泣かせていたら男の肋骨は無事ではなかっただろう。クレアは長い長い溜め息を吐く。
 悪かったな、とルキの頭を優しく撫でて、あの小僧は一緒じゃないのか、と男はルキに尋ねる。ルキが首を横に振れば、男はほんの少し残念そうに息を吐いた。


「…何があったんだ」

「…あのね、アルバさんがレッドフォックスって呼ばれてたのは知ってるよね?」


 その頃の話なんだけど。それからルキは話し出す。
 ある大雨の日に土砂崩れに巻き込まれたこと。その時、この男が隊長を務めるキャラバンも一緒だったこと。突然の災害によって怪我人も多く、助けを呼ぼうにも近くの街まで行けるような若者がいなかったこと。


「そしたらあの坊主!ボクが行ってくるからみなさんはそこで待っててください!だと!」


 このお嬢ちゃんの妙な魔法で土砂の向こうに行ったかと思えば、視界も足場も悪い中走り出しやがった!男は豪快な笑い声を上げる。
 ルキはその間、キャラバンの怪我人の手当てをしていたらしい。その頃には既にアルバが無茶ばかりしていたから手当てには慣れていたのだ、とルキは鼻高々である。お嬢ちゃんがいてくれて助かったよ、と男はルキの頭をもう一度撫でた。


「で、アルバくんはどうしたの?」

「ああ!あの坊主、帰ってきたときにはウチの奴らなんか比じゃないほどにボロボロでなあ!近くの街から人手やら怪我人の手当てに必要な道具やら土砂を除くために必要なシャベルなんかを全部持ってきやがったのさ!」

「へえ!アルバくんすごいね!」

「聞けば、道中に出た魔物も一人で相手してたって言うじゃねえか!雨の中、見ず知らずのキャラバンのために走って!そんでもってようやく荷馬車が通れるくらいになったときには熱でぶっ倒れると来たもんだ!」


 いやあ、俺もそこそこ生きて色んな人間を見てきたが、あいつ以上にお人好しで馬鹿な奴、見たことがねえな!男の言葉に、シオンは内心全力で頷いた。きっとルキもクレアも同じだろう。シオンだって、アルバ以上にお人好しで馬鹿で、底抜けに優しい人間など見たことがない。あんな人間がいるなんて嘘だ、と何度思ったことか。だけどアルバは、シオンの知るアルバは、そんな人間だった。
 世界よりも、たった数か月一緒に旅をしただけの、友人とも呼べないようなやつのことを取った大馬鹿野郎。そんな彼だからこそ、彼の周りには彼を慕う人が集まり、世界を棄てようとした大罪人だと人々に謗られることもなく、彼は今日も世界中の羨望と希望を一身に集める勇者アルバでいるのだろう。

 そんなアルバだから。シオンとルキとクレアは、彼のことをただひたすら案じるのだ。ひとりで勝手にいなくなってしまったことに憤って、早く帰って来いと、願うのだ。


「おじさん、ありがとう!」

「いやいや。お嬢ちゃん、レッドフォックスに会ったらよろしく伝えといてくれよ!」

「もっちろん!よろしく伝えとくよ!」


 仕事に戻らなければ、とキャラバンへと戻る男の背に手を振って、三人はお互いの顔を見る。


「パパにツクール君を貸してもらおう」


 切り出したのはルキだった。アルバがその魔法を世界中で使っているのならば、微弱な魔力で彼の魔力の痕跡を辿るのは限界だ。聡い少女はそう言った。クレアもおずおずと、オレもそう思う、とルキに同意する。
 シオンはひとつ頷いた。彼らの意見を無視する理由などないし、シオンとて同じことを考えていた。そうと決まれば行動に移すのは早い。ルキにゲートを出すように頼めば、少女は得意げに両手を掲げた。真っ黒なゲートが口を開ける。一も二もなくそこへ飛び込んで、見慣れた魔王城の廊下に着地した。幾度となく通った広い城内を迷うことなく歩き、辿り着くのは玉座の間。


「あれ、クレアシオンさん。どうしたんですか」


 玉座の間だというのに、その真ん中に小さな丸テーブルを置いて妻とのお茶会を楽しんでいた二代目魔王ルキメデスは、突然のシオンの訪問に目を丸くする。シオンは彼の問い掛けに答えを返すことなく、つかつかと彼に歩み寄った。
 べり、と、音にするならそんな乱暴さで。二代目の額で燃えていた魔力ツクール君を剥ぎ取った。無言でそれを自身の額へと付け替え、そうして玉座の間を後にする。ルキはシオンの後へ続き、置いて行かれたクレアが、気まずそうに笑った。


「あの、えっと、お、お借りします…?」

「……はあ、」


 あまりのことに訳も分からず呆然とする二代目と、その隣であらあら、とそんなことを思っていないような笑顔でシオンとルキを見送った彼の妻の姿を背に、クレアは先に行ってしまった二人を追い掛けた。せめて何か言って行きなよシーたん!クレアは心の中で絶叫する。
 追いついた二人はああだこうだと魔法について議論を交わしていて、自分が入る隙はなさそうだ。そう悟ったクレアは黙って彼らの後ろに付き従うことにした。今のこんな様子の彼らに話しかければどうなるか、クレアは経験上知っていた。触らぬ元勇者と現魔王に祟りなし、である。


「やっぱりアルバさんの魔力を探知する魔法が一番無難かな。魔力自体は世界中に痕跡があるだろうけど、その根源を辿っていくような魔法が使えれば…」

「探索系の魔法の応用だな。あの人の中に入ってる魔力は元はと言えばオレとあいつのものだ。オレが一番よく分かる」

「うん。きっと誰かに頼むよりもロスさんがやった方が早くアルバさんを見つけられるよ」


 ルキは顔を不安げに曇らせる。シオンはそんな少女の頭を二、三度撫でて、どこか部屋を貸してくれ、と告げた。ルキは小さく頷いて駆け出す。少女は聡くて、強い。きっと不安は誰よりもあるだろうが、それを表に出すことはしない。シオンが次元の狭間にいたあの時も、アルバと一緒にいたのはルキだ。ずっと一緒にいたアルバが傍にいないということは、彼女にとって一種の恐怖かもしれない、シオンは思う。
 ばしん、背中に衝撃。振り返れば、何とも言えない情けない顔でクレアが笑っていた。


「大丈夫だよ、シーたん」


 大丈夫だ、なんとかなる、すぐに見付かるよ。隣でそう言い続けてくれるクレアの存在は、口には出さないがシオンとルキにとって有難いものだった。誰かが前を向いていないと、進めなくなりそうだった。
 負けそうだった、挫けそうだった。不安で不安で、焦燥に駆られて、恐ろしかった。それほどまでにアルバという存在は大きいのだ。命の恩人で、大事な友人で、シオンたちの勇者。いつも当たり前にあった太陽のような彼の存在が、いつの間にか心の拠り所になっていた。


「当然。大丈夫に決まってるだろ」


 見栄を張る。そんな見栄を口にすることで、絶対に連れ戻すと決意を新たにする。前を向き直したシオンに、クレアは今度こそしっかりと笑ったのだった。


「ロスさん、ここの部屋使って!」


 ルキが案内したのは日当たりのいい部屋だった。室内は綺麗に整えられていて、本棚には魔法についての本がこれでもかと言うほどに詰められている。これはきっとルキが用意したものだろう。人間界でアルバを探している間に読み漁っていた書物に似た文献がいくつも置いてあった。
 シオンはざっと部屋を見渡し、そこにあった大きな窓を開け放つ。少しでも魔力を感じやすいように、少しの魔法も見逃さないように。神経を尖らせて、自身の中の魔力を操る。どこだ、どこだ。

 呼吸をするように簡単に操ることのできる自身の魔力の、言わば片割れを探すことはそう難しいことではない。しかし、探索の規模が広すぎる。対象は人間界と魔界の全て。そこに少しずつ現れるアルバの魔力の根源を辿る。砂漠で落とした一粒の砂を見付けるようだった。知らず、シオンの眉間が寄る。
 見付けては離れる。掴みそうになったら逃げられる。繰り返すいたちごっこ。無駄に逃げ足ばっかり速くなりやがって。時たま漏れるシオンの悪態に、その都度クレアがびくりと肩を揺らした。


「ロスさん、ちょっと休もうよ」


 ツクール君を使っての魔力の探索を始めて数日。休むことなく魔法を使い続けたシオンの顔色は悪い。ただでさえ色の白い顔は最早青白い。ルキやクレアの持ってくる食事によって少量の栄養こそ摂っているものの、睡眠時間は極端に少ない。目の下にはうっすらと隈が出来始めており、健康とは言い難い表情をしている。
 目を閉じて魔力を探っている途中。服の裾を引かれる気配にシオンは目を開けた。眼下を見下ろすと、瞳を揺らすルキの姿。その隣には同じように眉を寄せるクレアの姿もある。


「無理しないで、ロスさん。倒れちゃうよ」

「そうだぜ、シーたん。そんなんでアルバくん見つけたときにシーたんが動けなかったらどうすんだよ」


 ルキが両腕を伸ばして抱き着いてくる。シオンの髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜるクレアの手。そのふたつの温もりに少しだけ笑って、大丈夫だ、と吐息に混じるほどの小さな声を落とした。大丈夫だ、大丈夫。こんなの、全然大丈夫だ。自身に言い聞かせるように、唱えるように、祈るように、言い続ける。大丈夫だ。


「早くアルバさんに会いたいね」


 泣きそうな顔をしたルキが言う。その顔を見て、ああ、あの人はなんて馬鹿なのだろう、とシオンは思った。オレや、ルキやクレアや。きっと、アルバがいなくなったと聞いて大勢の人間が彼の身を案じているだろう。こんなに心配してる人たちがいるのに、どうして一人で行こうと思ったんだか。とんだ大馬鹿野郎だ、本当に。
 目を閉じて、再び集中する。微かな痕跡さえも逃さない。今までよりももっとずっと正確に、集中して、シオンは魔力を世界に巡らせる。もう世界は何周もした。それでも捕まらないアルバを掴まえるために。幾重にも幾重にも、張り巡らせて、集中して、アルバの痕跡を探して。


 そうして。ふわり、空気が揺れた。


 シオンは自分の頭が揺れたことに気付いた。急激に襲いくる睡魔。目が霞んで、意識が朦朧とする。椅子から転げ落ちるシオンの身体をクレアが支えて、ルキが悲鳴を上げる。神様気取りのクソヤロウ。お前の仕業か。呂律の回らない舌で、それでも確かに形になったシオンの言葉を拾ったルキとクレアが、驚愕に目を見開く。
 これはアルバの魔法だ。シオンが間違えるはずがない。感じ慣れた、傍で見てきた、追い続けた、アルバの魔力だ。そちらから飛び込んでくるなんて好都合、シオンは朦朧とした意識の中、魔力探知の魔法を使った。この痕跡を、逃がしてなるものか。今度こそ捕まえてやる。床に倒れ伏しそうになる身体を二人に支えられながら、シオンはにやりと、その口角を吊り上げた。


「掴まえたぞ、クソヤロウ」


 シオンの意識は、闇に落ちる。








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