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「ハロー、ハロー」

窓を叩く音で目が覚めた。次いで聞こえるのは上機嫌に歌うような声。薄らと目を開ける。当然のことながら、開けた目に飛び込んでくるのは陽の光ではなく、しんと静かに透き通った月の明かりだった。
たんたん、とリズムを取るように、窓が叩かれる。カーテンの向こうに揺れる影。こんな時間に誰だ、と思いながら身を起こし、こんな時間にこんなことをするやつなんか一人しかいないか、と自己解決。

「ハロー、ハロー」

もう一度聞こえる声に、小さく溜息をついた。何故こんなに上機嫌なのだろう。窓を叩いている彼が上機嫌であるとき、自分にとってそれほどいいことがあった試しがない。かと言ってこんな夜中に締め出しておくわけにもいかないので、渋々寝心地のいい布団から身を剥がし、カーテンに手を掛けた。

「ハロー、ハロー」

同じ言葉を繰り返す声の主と目が合った。その真っ赤な目は月の光を集めてきらきらと瞬いている。一度大きく見開いたかと思うと、すぐに三日月のようにそれを細める。
窓の鍵を開けて、外に立つ彼に当たらないようにゆっくりと窓を開ける。彼はにんまりと笑って、そしてひらりと手を振った。

「こんばんは、勇者さん」

さあ、と風が入る。今日は随分と涼しい日だ。猛暑が続いているとは思えない。
そんな現実逃避をしたところで、目の前の彼がいなくなるわけでもなく。彼が上機嫌なことが変わるわけでもなく。再度、溜息。

「…こんばんは、ロス」

ボクはただ笑うことしかできず、彼の突然の訪問を出迎える。名前を呼ばれた彼は何故だかきょとんと目を丸め、だがすぐに先程と同じように目を細めた。

「勇者さん、行きますよ」

ぐい、と引かれる手。窓から落ちないように、ボクは慌てて足に力を込める。

「行くって、どこへ」

自分の行動が妨害されたことが気に食わなかったのだろう彼は、ボクの腕を握る手の力を強めた。痛い、と悲鳴を上げると、不機嫌そうに寄せられた眉が元に戻る。

「どこへだっていいでしょう」

ボクには彼の考えていることがさっぱり理解できなかった。うん、とも、ううん、とも言えず、ただ立ち尽くす。どうしたんだよ、と問えば、いいから、との答え。答えになってないよ、と呆れれば、そんなことどうだっていい、と笑う。

「どこかへ行くのに、理由が必要ですか?」

そう言って尚も腕を引く彼に、ボクは遂に音を上げた。着替えるからちょっと待って、と告げると、存外あっさりと手が離される。一体何なんだ。
着ていた寝間着を脱ぎ捨て、動きやすい格好になる。腰に剣を吊り、ベルトに真っ赤なスカーフを巻きつける。ブーツを履き、いつ何が起きてもいいように纏めてある荷物を片手に、ボクは窓枠を踏み越えた。

「ようこそ、世界へ」

彼はひどく楽しそうにそう言って、ボクの腕を思いっきり引く。そのまま走り出そうとして、その一歩目でボクは転んだ。地面と熱烈なキスを交わすボクの姿を、彼はけらけらと笑い声を上げながら眺めていた。




それからボクらはひたすらに歩き続けた。月明かりを頼りに、どこを歩いているのかわからないような道を、ただただ真っ直ぐに。
どこへ行くんだ、と問うと、どこへでも、と答える。何をしに、と問うて、何でもできますよ、と答える。
問答を繰り返すボクらの声は、静かな夜によく響く。足音と、虫の声と、風の音と、ボクらの声。それだけしか聞こえない世界を、上機嫌な彼に手を引かれながら、目的地もなく歩いた。

「勇者さん、どこへ行きたいですか?」

「今一番行きたいのは家かな」

「そんな面白味のかけらもない答え求めてないです」

「…じゃあお前はどこに行きたいんだよ」

「オレ?…そうですね、」

歩き始めてから一度も顔を見せなかった彼が、くるりと振り返る。なんだか泣きそうな、困ったような、それでいて晴れやかな、そんな何とも形容しがたい表情をした彼が、そこにいた。
そんな表情を見て、ボクはなんとなく悟ってしまった。ああ、こいつもボクと同じだったのだなあ、と。

「行けるところならば、どこへでも」

そのくせ、言葉は真っ直ぐで、見ている先も真っ直ぐで、月明かりを集めて輝く真っ赤な目には、たくさんのものを映し込んで。
彼には何が見えているのだろう。過去か、未来か。自分の進むべき道か、進みたい道か、進もうとしている道か。どこか遠くなのか、すぐ近くなのか。

「オレは、どこへだって行けるんです、勇者さん」

しゃんと伸びた背筋。それが誇らしくて、寂しくて、羨ましくもあった。どこへでも行けるのに、どこへ行こうか迷う自分とは違う。彼は、どこへでも行けることを受け入れ、どこまでも行こうとしているのだ。

「ロス」

名前を呼ぶ。

「はい」

返事がある。

「ボクは、」

その先は言葉にならなかった。言葉にするには、この感情はあまりに大きくて、複雑で、それから陳腐だった。彼はボクのそんな気持ちを汲み取ったように、目を細めて笑って見せた。

「オレたちは、どこへだって行けますよ。行く先も、行く方法も、オレたちは選べるんです。それが例え間違っていたとして、違う道だって選べます。間違っていると知りながら、その道を歩き続けることもできるでしょう。どこかへ行くことは、きっと、思っている以上に簡単です」

彼は、道端に落ちていた木の枝を拾って、それからがりがりと道に一本の線を引いた。木の枝を投げ捨てる。線に隔たれたボクと彼。彼が、線の向こうから手を伸ばす。
さあ、と呼んでいた。彼の目は変わらずきらきらと瞬いていて、その先にある色んな感情もまた、美しく輝いていて。彼の手を掴むこと。今の自分にはそれが精一杯だけれど。

線を超えることができたなら、ボクは。

走り出す。助走を付け、踏み切って、彼が引いた、ボクが引いていた、たった一本の、弱っちいボクのように、細い細い、線を。超える。
ひら、と。真白い月の下。真っ赤なスカーフが、翻る。

「ハロー、ハロー」

声がした。目を開ける。ぐい、と手を引かれ、立ち上がるボク。手を引いて、目を細めて笑う彼。
ボクと彼の後ろには、何の意味もない、たった一本の線があって。

「ようこそ、世界へ」




ハロー、愛しの月よ
(君もそこから下りてきて、一緒に行かないかい?)




20150802


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