senyu | ナノ






気付けばボクと世界との間には分厚いガラスの壁があった。


ガラスの壁は世界とボクとを分断し、ボクの世界を切り取ってみせた。ガラスは触れるとひやりと冷たく、ボクの手の体温をじわじわと奪っていく。このまま手で触れ続ければいつかガラスに溶けてひとつになるのだろうなあ、そんな馬鹿なことを考えた。ボクの妄言を笑い飛ばす人はいない。
ボクと世界との間に隔たるガラスの壁は、分厚いのにも拘らず世界をクリアに見せた。空は青いままそこに在り、太陽は眩いままそこに在った。しかし、音は聞こえなかった。ガラスの向こうの音の一切を遮断してボクに届ける。ボクが受け取るのはいつも無音で、こちら側へと届いた届かない言の葉たちをただ苦く笑って手のひらに収めた。


ガラスはただただそこに在った。
ボクは世界から隔絶されてしまったのである。


そこから出ようよ、と少女は言った。泣きそうな顔をして、ガラスを叩いて、ボクと真っ直ぐに目を合わせて、そうして少女は訴えた。大丈夫だよ、出れるよ、諦めないでよ、一緒に行こうよ。少女はそう言いながら分厚いガラスの壁を壊そうと必死になっていた。ごめんね、ボクは小さく謝った。
こんな壁、オレが壊してやるから。青年は言った。ありとあらゆる手を尽くして壁を壊そうとする彼をそっと諌めた。きっと壊れない。このガラスはボクと世界を切り離すためにあるものだ。青年はそれでもガラスを強く殴り続けた。こんなもの、必要ないじゃないか。青年は一度も泣かなかった。
だけども、ボクには、彼らがそう言っていたような、そう聞こえたような、そんな気がするだけで。彼らの声はほんの少しも届いてはいなかった。もう声は届かない。彼らの涙だけが透明に見えた。


ボクとガラスはそこに在り続けた。ボクはガラスを挟んで世界を見ていた。空は青く、太陽は眩いままだった。


青年がガラスの向こうに立っていた。いつものように静かな表情だった。彼はボクに何かを語りかけるわけでもなく、かと言って何かをするでもなく。まるでボクとガラスの壁のようにそこに在った。どうしたの、と告げるボクの声はきっと彼にも届いてはいない。彼の口が少しだけ動いたけれども、彼の声帯を震わせただろうその声も、ボクに届くことはない。
彼がガラスの壁に触れた。小さく笑う。ボクはガラスに触れる彼の手に、自分の手を重ねてみた。当然伝わるのはガラスの冷たさだけだった。ボクと彼の視線が交わった。ボクと彼は同時に噴き出して、腹を抱えて笑った。笑い声も聞こえなかった。


ガラスの壁は高く高く、ボクと世界を分断する。どうしてここに在るのか、いつからここに在るのか、ボクは何故ガラスの向こうにいるのか。何もわからなかったけれど、ガラスの壁は、一点の曇りもなく、そこに在る。


ボクと青年はガラスを挟んで背中合わせに座っていた。そこからぼんやりと世界を眺めていた。青年の隣にはたまに少女ともう一人の青年が座っていた。彼らが楽しそうに笑っている様子を、ボクはガラスの向こうから見ていた。それだけで幸せなような気がしていた。
ガラスに触れる。冷たい。声は聞こえない。彼らはそこにいるのに、ぬくもりを感じることすらできないのだ。悲しいような、寂しいような、空しいような、安心したような。複雑な感情。それを彼らに伝える術もなく、彼らがボクに触れる術もなく、ボクと、彼らと、ガラスの壁は、今日も飽きずにそこに在った。


いつしかガラスの壁の向こうには小さな家が出来ていた。そこには青年が二人と少女が暮らしていた。彼らはガラスの向こうにいた。ボクはガラスの向こうにいた。
今日はどんなことがあったよ。少女が満面の笑みで語る。声は聞こえなくとも言いたいことは分かるのだな、と思った。
今日は何を食べたよ。青年がほかほかと美味しそうに湯気を立てる料理を持ってくる。匂いはしなくとも美味しいだろうことだけは分かった。
今日もあんたとこの壁がここにありますね。青年はそんな当たり前のことを、繰り返し繰り返し、毎日ボクに告げた。そんな当たり前の一言で、ああ、ボクは今日もここに在るのだと実感できた。
一日の終わり。ガラスの向こうから、三人が手を伸ばす。冷え切ったガラスに触れるその手にボクのちっぽけな手を重ねる。また明日ね、そう言って小さな家へと帰っていく三人の、日に日に小さくなっていく背中を見て、ボクは眠りに就いた。




ふと目を覚ました。藍色の空に金色の星が光る。月の無い夜だった。青年が、真っ赤な目をやわらかく細めて、そこに立っていた。
どうしたの、ボクは問い掛ける。青年はガラスの向こうに座って、冷たいガラスに背を預けた。
さようならをしようか。ボクは言った。背中を向けている彼には届かない。
さようならだ。もう、ボクは大丈夫だから。さようならをしよう。ボクは青年の背中に語り掛ける。ガラスを殴って、突き放すように、ボクは、もう一度言った。さようなら、だ。
青年は振り返る。ボクの目を見て、一度だけ視線を空に向けて、やわらかく、優しく、小さく、あたたかく、笑った。一緒に眠りますか。ボクが読み取れるようにゆっくりと、一音一音噛み締めるように言った。一緒に眠りましょう。




ガラスの壁はそこに在った。ボクと彼もそこに在った。空は、星は、太陽は、月は。変わらずそこに在り続けて。あの小さな家も、そこに在った。何も通さないガラスの壁が、途端に愛しく思えた。変わらない冷たさに、涙が出た。
一緒に眠ろうか。ボクは言った。一緒に眠りましょう。青年が言った。大丈夫、眠ることには慣れています。青年が言った言葉にボクは涙が出るほど笑った。そうだ、お前はそういうやつだよな。


ボクと青年はガラスに背を預けた。ガラスの壁は相変わらず何もボクらに伝えることはなかったけれど。夜空の美しさだけは、変わらずに伝え続けてくれた。


おやすみなさい。久しぶりに青年の声を聞いた。ボクの記憶にある声から少ししゃがれていたような気がした。おやすみ。ボクはその声に応えた。ボクの声は届いたのだろうか。
目を閉じた。なんだかとても幸せな気分だ。ふわふわして、心が弾むようだ。久しぶりに人の声を聞いたからだろうか。久しぶりに誰かと一緒に眠るからだろうか。安心して、泣きそうになって、少しだけ泣いて、ありがとう、とだけ呟いた。青年は何も応えなかった。






硝子細工のなきごえ
(何も聞こえないけれど、泣いていることには気付いていたよ。)






ああ、とてもきれいだね。青年は笑った。うん、とてもきれいだね。少女は笑った。
高く分厚いガラスの壁を挟んで眠るふたりは穏やかだった。目を閉じて、息を吸って、吐いて、ただただ、ふたりは、そこに在る。青年と少女はくすりと小さく笑い声を上げて、青年の隣に腰を下ろした。あったかいね。うん、あったかいね。寄り添って、目を閉じた。おやすみなさい。届かない言葉を届けて、そうして四人は眠りに就いた。眠った先で、しあわせな夢を見ていた。






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