senyu | ナノ






「シーたんシーたんシーたごふっ!」

「煩い。大体、その呼び方するなって言ってるだろ」

「…し、しーたん…ピンポイントでアバラ狙うのやめて…」


オレの幼馴染みで親友は、幼い頃からのあだ名を嫌がる。そりゃあもう露骨に。顔を歪めて、嫌悪でいっぱいの表情を浮かべる。吐き捨てるように、その呼び方をするな、と言う。最終的に物理的に黙らされる。
あだ名を呼んで、最初に殴られたのはいつだろう。いつからあんな顔をするようになったのだろう。オレが起きてからの時間なんてそんなに経っていないから、ちょっと頑張ったら思い出せる範囲のはずだ。的確に痛めつけられたアバラが痛むふりをして思い出す。


目が覚めてすぐ。オレが彼のあだ名を呼んだことで、彼は確かに頬を緩ませた。安心したように、泣きそうに、泣くのを堪えるように。一瞬でそんな表情を押し込めて、普段通りの顔――と言ってもオレの知らない間に大人になった顔だが――で、幼い頃のように物理で会話をしてきた。変わってないな、ってオレだって安心したのだ。
その次も、その次も。幼い頃の癖が抜けないオレは、彼のことをあだ名で呼び続けた。彼は受け入れてくれていた。置いていかれた時間の中で、変わらないものもあるのだと、安心しきっていた。


そして、その次。久しぶりにベッドで眠った、あの夜。ああ、そうか。あの夜。そこから彼は、あだ名を露骨に嫌がるようになったのだ。


あの夜、オレと彼は同じ部屋に泊まっていた。ベッドは別々。床でいいよな、と意地悪く笑う彼に泣いて懇願して、どうにかベッドが二つある部屋を取ってもらったのだ。
初めての旅は試練の連続だった。過酷だった。オレの身体を使っていたパパさんはきっと、ろくな運動もしていなかったに違いない。
少し歩いただけで足の皮が剥けて、筋肉が悲鳴を上げた。歩き慣れない靴で、舗装がされていない道を行くことがこんなに大変なことだったなんて。表情一つ変えない彼の様子に、何度も何度も尊敬の念を抱いた。
彼はそんなオレの状態にも気付いていて、だからこそあっさりと折れてベッドが二つある部屋を取ってくれたのだと思う。何だかんだと言いながら、彼はとても優しい。
風呂に入って身体の汚れを落とし、腹いっぱいおいしいものを食べて。そうした後に襲ってくるのは、強烈な睡魔。オレはその睡魔に抗うことなく、意識を、落として。


目が覚めて、驚いた。
隣で眠る彼から、聞いたこともないような声が漏れていた。
例えるなら、憎しみ。負の感情。唸るように吼えるように。彼の口から溢れ出す言葉たち。めらめら、燃えるように。彼を、焼き尽くすように。
ぞっとした。彼の抱えるものの、抱えさせてしまったものの大きさを、オレはようやくそこで理解したのだ。


「シーたん!ねえ、起きて!」


必死に声を掛けた。彼の身体を揺さぶって、布団を引っぺがした。ぶるり、一度身を震わせた彼が、ゆっくりゆっくり瞼を持ち上げる。暗い色に染まった、真っ赤な目。オレを見て、彼の肩に触れるオレの手を、勢いよく、払いのけた。拒絶。


「わ、るい…」


払いのけた彼の方が死にそうな顔をしていた。月明かりに照らされて浮かび上がる顔は、蒼白で。額にびっしりと汗を浮かべ、苦しそうに呼吸をする。
どうすればいいか分からなかった。だってオレは、彼と同じ時を過ごしてこなかったから。彼が何に苦しんでるのか知らないし、正直言えば、彼のことを苦しめてまで詮索する必要はないと思っていたから。
だから、名前を呼んだ。幼い頃からずっと。オレとパパさんだけが使う、彼のあだ名。愛称。


「シーたん、」

「呼ぶなっ!」


鋭い声、音。ぐしゃり、前髪を掴んで。彼は膝に顔を埋めた。耳を塞いでいやいやと首を振る子供のようだった。


「その呼び方を、するな」


そんなに泣きそうな顔してるくせに、何言ってんだよ。そう言って、確かオレはベッドに戻ったのだ。だってオレは、ものすごくものすごく疲れていたから。平たく言えば、眠かったのである。


そっか。あのとき。オレは彼のことを慰めなければならなかったのかもしれない。うんうん、と話を聞いて、何があったのか聞かなければならなかったのか。それはつらかったね、ごめんね、って。そんな、大昔に読んだ絵本みたいに。丸く、まあるく、事を納めなければならなかったのだ。たぶん。
今更思い出したって仕方ないから、とりあえず今は、そこはどうでもいい。


むすり、表情が硬い。いつもと変わらないように見えて、眉毛がつり上がっている。目が険しい。何より、オーラが黒い。身体全部を使った不機嫌アピール。どうやら今回は虫の居所が悪かったらしい。
的確に殴られて、痛めつけられたアバラを摩る。どうでもいいけど、この攻撃食らってもピンピンしてたアルバくんって何者なんだろう。かんわきゅーだい。


「シーたん、」


ぎろり、睨まれる。別に怖くない。人を殺せそうな目でも、全然怖くない。だってだって、だってさ。オレとシーたん、どんだけ一緒にいたと思ってんだよ。お前のおしめだって変えてやってたんだぜ。殴られたくないから口には絶対出さないが。


「なんだよ、逃げんのかよ」


はあ、と彼は眉を寄せた。何言ってんだこいつ、って顔をして、何言ってんだよお前、って言った。オレも何言ってるかわかんないけど、言うしかないと思った。


「お前、シーたん、って呼ばれるとすぐ泣き止んでたくせに」

「はあ!?」

「嘘じゃないからね。なんでパパさんもオレも、わざわざそんな呼び方してると思ってんだよ」

「そ、…んなこと知るかっ!」

「お前を泣かせたくないからに決まってんだろ」


男手ひとつで子供を育てるって大変なんだよ、クレアくん。パパさんはいつも彼が寝静まってからへろへろの顔で笑っていた。近所のおじさんおばさんは、シオンは大人しくて手の掛からない子ね、なんて笑っていたけど。それでもパパさんは苦労したのだ。
どうやったら泣かないのか、そんな簡単なことも分からなかった。研究ばっかしてたから。ママさんに任せてばっかりだったから。


「あああー!泣くなよ、泣くなよシオン!あー、どうしたらいいんだこれ、あー!」


泣くな、どうしたんだよ、何で泣くんだよ、ああああもう、どうしよう、ねえどうしようクレアくん。知らねえよおっちゃん。だよねえ、オレも知らない。


「ねえ、どうしたいの?どうしてほしいの?ねえシオン。ご飯?おむつ?お昼寝?ほーら、答えてー。ちゃんとオレたちに伝えてー。シオンくーん。ねえねえ。シーたん、」


火がついたように泣いていた彼がぴたりと泣き止んで。きゃっきゃと笑い出す。オレとパパさんは顔を見合わせて、もう一度、彼を、呼んだ。


「シーたん、」


そうやって呼んだら、お前は。うー、って返事して、笑ったじゃないか。


「知るかよ、そんなこと…!」

「だからオレもパパさんもずーっとシオンのことシーたんって呼んでんの。分かった?」


耳まで真っ赤にした親友。バカじゃねえの、とかなんとか。声が聞こえるけど、無視。


「シーたん」


それはね、呼ぶ度に溢れ出す願いだったんだよ。笑ってくれと、願う。彼の笑顔を生み出す魔法だったんだ。


「シーたん」

「なんだよ」

「シーたん、シーたん」

「…煩い」


オレだってパパさんだって。結局お前が笑ってることが一番大切だったんだよ。知らなかっただろうけど。


「シーたん、次の町にはあとどれくらいで着く?」

「…半日も歩けば着くだろ」

「そっか!じゃあ着いたら美味しいもの食べに行こうぜ、シーたん!」

「甘いものなら付き合ってやるよ」






ほらほらおいで
(きっとそこにはずっと昔の君がいる。)






それからさ。シーたんは絶対に知らなかっただろうこと。一個だけ教えてあげる。


あだ名を呼ばれて、露骨に嫌そうな顔をするまでの、そのほんの一瞬の間。
今でも、すごく穏やかで優しい顔で笑うんだよ、シーたん。知ってた?





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