senyu | ナノ



(ボクはここにいる。そしてどこにでもいる。)
(ボクは何度もここに来ている。)
(その度にボクは、一体どこへ還っているのだろうか。)




ぴちゃん。手を伸ばした。目の前に広がる水面にはすぐに手が届いた。波紋が広がる。水面に映っていた自分の顔が分からなくなった。
指先が水面に触れる。ひやりとしている。指先から浸食される。不思議と恐怖はなかった。じわじわと、それはボクになっていった。爪から、指先から、手首。少しずつ、確実に、彼はボクを侵食していった。
波紋の向こうにはボクがいた。ボクは今まで見たことのないような無表情だった。表情が抜け落ちていた。よくできた人形のようだった。薄らと白い肌、血色というものがなく、瞳もガラス玉のようだった。そんなボクがこちらを見ていた。波紋の向こうに消えていく。
ボクは彼を追い掛けた。追い縋った。行かせてはいけない気がした。指先から、手首まで。沈む。侵食する。波紋が、遠く遠く、水平線の向こうまで、広がる。水が、ボクを、侵食する。ひやり。


「こっちに来てはいけないよ」


わんわんと反響する声。聞き覚えがあった。それはボクの声だった。こちらに来るなと、何度も何度も告げている。反響して聞こえる声なのか、それとも彼が発している声なのか、ボクには分からなかった。ただ、彼がボクを拒絶していることだけは分かった。
どうして、と問いかけた。どうしてボクはそちらに行ってはいけないんだ。彼は抜け落ちた表情のまま、こう答えた。


「だって君は幸せだろう?」


波紋が薄れる。水面の向こうにはボクがいる。指先を浸す。水は、ボクを拒絶する。こちらへ来るな、向こうへ行けと。突き放して、拒絶する。ボクは手を伸ばす。彼は、ボクには捕まえられない。


「こっちに来てはいけないよ」


彼はそう囁いた。四方が水に囲まれた。苦しい、息ができない。ボクは酸素を求めてもがいた。喉を掻き毟った。口から溢れ出る泡を、必死に、必死に、掻き集めた。飲み込んだ。ボクが吐き出したそれは、酸素ではなく、二酸化炭素だった。苦しい、苦しい。
水は、変わらず指先から浸食してきた。じわじわ、ボクを蝕んでいった。指先から侵入したそれは、もうボクの肘の辺りまで来ていた。ボクは逃げられない。それを目の当たりにしても恐怖はなかった。ただ、受け入れた。そういうものだ、仕方ない。ボクの得意技だった。
水面の向こうで、彼がふと笑った。笑った顔はボクにそっくりだった。ぼんやりとした視界の中、彼が笑う顔だけがやけにはっきりと見えた。世話が焼けるなあ、そう言いたげな顔をしていた。


「何でもそうやって受け入れるだけで、本当にいいと思っているのか?」


口から溢れ出る泡を、ボクはただただ見ていた。きらきらとして美しかった。まるで誰かの命のようだった。ゆらゆら揺蕩う身体は軽かった。何だってできそうだった。でもきっと、ボクには何もできないのだ。
水面の向こうのボクが、ボクに向かって、手を伸ばした。ボクも、もうほとんど感覚のない腕を伸ばした。水面には届かなかった。ボクには触れられなかった。ごぼり、また口から泡が出た。今度は大きかった。追いかけても捕まえられなかった。瞼が重い。


「君は本当に幸せ者だなあ」


水面の向こうから、ボクが、ボクに、笑い掛ける。そこのボクは一体誰だろう。どこのボクだろう。ボクはどれだろう。どこのボクだろう。手を伸ばす。ボクが吐き出した二酸化炭素を、ボクは、手の中に収めた。消える。
ごぼごぼ。もう目が開かない。腕は動かない。足も動かない。指先から浸食してきた水が、ボクを、絡め取った。ボクはもう動かない。


「だから言ったじゃないか」


君は幸せ者なんだから、こっちに来てはいけないよ、って。


「さて、君はどこに還るのかな?」


ざあ、と。ボクを覆っていた水が、撥ねた。地面に放たれたボクは、髪の毛の一本すら濡れていなかった。掻き毟った喉だけがひりひりと痛む。酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出していた。霞がかった頭で考える。ボクは、一体どこへ還るのだろう。
目の前には水面が広がっていた。水面の向こうでボクがボクを見ていた。人形のような無表情で、ボクが、ボクを、見ていた。水面に手を伸ばす。指先が触れる寸前、ボクは恐ろしくなった。手を伸ばしてはいけない。侵食されてしまう。ボクは、また、どこかの"ボク"になってしまう。だからダメだ。そちらに行ってはいけないのだ。


ボクは立ち上がった。振り返ることもなく走り出す。水面の向こうで、能面のような顔をしたボクが、ひらりと手を振った。水の音がした。ぴちゃん。
それは、水にしては酷く重たく、粘着質で、鉄の臭いを帯びていた。
ボクは、一度だけ、振り返る。真っ赤な水面の向こうに、ボクがいた。ボクは変わらず無表情だった。こっちに来てはいけないよ。口が動いた。そして、左右で違う色をした瞳を、うっそりと、細めた。だって、どこのボクになるか、分からないからね。










「いつまで寝てるんですか」


腹に衝撃。ぐふ、とか、うげ、とか。そんな蛙が潰れたような声が口から飛び出した。ついでに臓物も出そうになった。朝からこの仕打ち。酷い、鬼畜だ。


「おま…っ、もっと、まともに…起こせないのかよ…っ!」

「起こしましたよ。一回」

「一回!?せめてあと二回くらいは起こしてよ!!」

「なんでオレが勇者さんを起こすためにそんな労力を割かないといけないんですか」

「お前はそういうやつだよなチクショウ!!」


痛む腹を抱えてベッドから起き上がる。太陽はまだ低い位置にある。どうやらそんなに遅い時間ではないらしい。危うく意識を飛ばしてしまうところだったが、今回は何とか起きれたので良しとしよう。殴られたのか蹴られたのか分からない腹が痛むけれど。


「おはようございます、勇者さん」


真っ黒の髪、赤い瞳。宿の中だからかラフな格好をしている。こいつはボクの相方だ。戦士ロスで、勇者クレアシオンで、シオンである、こいつは、ボクの、相方である。相方であった。


「おはよう、」


さてはて、ここのボクは、一体どこの"ボク"なのだろうか。






さよならドッペルゲンガー
(おはよう、愛しき自分よ。)






130923



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -