「いってらっしゃい、しあわせになってね」
とん、と背中を押された。揺れる身体の向かう先は真暗な穴。どこに繋がるかも分からないそこへ、墜ちていく。
「いつか君がしあわせになったとき、ここへ帰ってきてくれますように」
ふざけるな、オレの幸せをあんたが決めるな。叫ぶ言葉は黒に呑まれて消える。届かない。手を伸ばす。
墜ちる瞬間に見えたのは、泣きそうに笑う、勇者の姿だった。そんな顔をして笑うくらいならば、いっそのこと思い切り泣けばいいじゃないか。あんた、弱かったころはいつだってぴいぴい泣いていただろう。ふざけるな。
「…っざけるな!」
「わあ!?」
目を開けて、飛び起きる。呼吸が荒い。背中にはじっとりと嫌な汗を掻いていて、頭がくらくらする。
「シーたん?大丈夫?」
「は?…あ…?」
ぼんやりとした視界に映ったのは茶色の髪。顔に絆創膏を貼った幼馴染。なんでこいつがこの姿のままここにいるんだ。瞬間的に思い浮かべたことに、首を捻る。なんでそんなことを思うんだ。こいつは、オレが出会った時からこんな感じだろう。
いいや違う、頭の中でオレが囁く。違うだろう。よく見ろよ。囁いたオレの声に従って、オレは幼馴染を見た。変わらない。変わらない。
「珍しくシーたんが寝坊してると思ったら魘されてんだもんなあ。大丈夫か?怖い夢見た?」
「…お前、その荷物…」
「これ?言ったじゃん、オレ、王都に行くんだって」
そうだった。夢を追い掛けるとか嫁を見付けるんだとか。そんなくだらないことを言って、こいつは村を飛び出そうとしている。足元には大きな荷物。明らかに不必要なものが入っている大きさだ。笑う。
「ちょっと待ってろ」
ベッドから下りて、簡単に身支度を整える。クローゼットの中からこの日のために纏めていた荷物を抱え、椅子に座って寛いでいた幼馴染の後頭部を殴ってやった。痛い!悲鳴を上げて振り返った幼馴染は、涙を浮かべた目を徐々に見開いていく。
「シーたん、それ!」
「お前一人だと何しでかすか分からないからな」
「マジかよすげーな!シーたんオレの心配してくれてんの?」
「撲殺 or 刺殺?」
「のーせんきゅう!」
けらけらと笑いながら幼馴染はオレの手を引いた。家から飛び出して、生まれ育った村を駆ける。もう行くのか、声を掛けてくれるのは親代わりの村人たち。いってらっしゃい、たまには帰ってくるのよ。王都の土産、楽しみにしてるからな。そんな声にひとつひとつ応えて、オレとあいつは、ただ笑う。
村を出て王都で働く。それは幼い頃からの夢で、約束だった。幼馴染は花火師になるそうだ。理由を聞いたら、かっこいいじゃん!と一言だけ返ってきた。馬鹿なんじゃないかと思った。シーたんは何になるの。無邪気に問い掛ける幼馴染。言葉に詰まる。オレは。何に。
シーたんは強いから、王宮の戦士になったらいいよ。笑う幼馴染に、頭を強く打たれたような衝撃を受けた。正確に言えば、幼馴染にではない。王宮戦士という言葉にだ。頭がぐらぐらと揺れた。戦士、とオレのことを呼ぶ誰かの声が聞こえた。だから、決めた。
「シーたんは王都に着いたら王宮に行くの?」
「ああ。王宮戦士なら稼ぎもいいし、一生安泰だろ」
「シーたん強いし頭もいいもんなあ。絶対なれるって!」
「当たり前だろ。オレを誰だと思ってるんだ」
王都に到着して、オレと幼馴染はすぐに別れた。またな、お互い頑張ろうぜ。そんな簡単な言葉を残して。背中を向ける幼馴染に何故か追い縋りたくなった。手を伸ばしかけて、慌てて引っ込める。ガキみたいだ。幼馴染の背中なんて見慣れているだろうに。
だけど、そうだ。引き止めなければいけない気がした。そうしなければ、長い間、あの笑顔に会えない気がして。
気のせいだ。会えないはずはない。同じ街で暮らしている。別々の仕事をしようとも、会えない距離ではない。遠くなんてない。あいつを追い掛けることもない。胸を焼く焦燥感を否定して。オレは城へと足を向ける。
無駄に荘厳な城。間抜けた面の王。気丈に振る舞う姫。気ままに過ごすメイド長。そんな阿呆の揃った城で、王宮戦士の称号を勝ち取るのは簡単だった。剣を一本持って、全員を伸した。
こんな平和な世の中に剣なんか必要ない。戦士になって早々に愛剣は王によって取り上げられて、代わりに支給されたのは木製のバットだった。ふざけてんのか。
王宮戦士になったところで、これまでの生活と何ら変わりはなかった。そりゃあそうだ。世界は平和だ。何の事件も起こらない。のんべんだらりと過ごす日々の中で、ふと、村を出た日のことを思い出した。あの日は胸糞悪い夢を見たのだった。目の前で翻る狐色に、苛立ちが募った。幻覚だ。
世界に穴が開いて、そこから数多の魔物が現れたのは、そんな日だった。
「行け!勇者の子孫(多分)たちよ!」
王の無駄に気合いの入った掛け声で、窮屈な城の広間に集められた人々が散っていく。どうやらオレは勇者付きの戦士にならなければならないらしい。そのことを街でばったり会った幼馴染に話すと、マジかよ似合わねえ!と爆笑された。とりあえず殴っておいた。
旅立つことにどうにも気乗りがしなくて、パートナーと連れだって早々に去っていく人々を眺めていた。ひとり、またひとり。いなくなる。よろしく、頑張りましょう。そんな声を掛け合って。魔王を倒す旅だと言うのに、随分と呑気なものである。
最後に残されたのは、小さな子供だった。狐色をきょどきょどと振って、誰かを探しているようだった。言わずもがな、あいつが探しているのはオレである。手に持った"45"と書かれたプレートを握って溜め息を吐く。よりにもよってガキのお守りか。自分の運の無さにほとほと呆れ返る。
「あんたが45番の勇者ですか」
いい加減涙目になってきた勇者に再度溜め息を吐いて、仕方がないので声を掛けてやった。ぴくりと動いた肩。振り返る。
「……っ!」
狐色。涙で潤む真っ黒な瞳。泣くのを堪えて笑う顔。誰かと重なった。湧き上がったのは、どうしようもない怒り。
「デュクシ!」
「ぐへえ!」
アバラを狙って殴ってやる。勇者は床に崩れ落ちる。ううう、と呻き声。その脇腹を狙って蹴りを入れてやる。呆気なく転がる細い体。当たり前だ。この勇者は子供だ。無性に腹が立って、泣きたくなって、もう一度蹴りを入れる。呻き声。
「お、おま…っ」
「はじめまして勇者さん。オレがあなたに付く王宮戦士のロスです。気軽にロスって呼んだら殴りますね」
「殴るのかよ!…じゃなくて!おま、…あなたが、ボクの戦士さんですか?」
「だからそう言ってるじゃないですか。勇者さんの耳は飾りですか?」
「初対面の人にこんなに罵倒されるなんて!」
初対面じゃねえよこのクソ勇者。オレの中でオレが囁いた。いや、囁くどころじゃなかった。尋常じゃない怒り。ぐるぐると支配した。どうして初対面のガキに対してこんなに怒りが湧くのか分からなかった。
くるり、踵を返す。後ろから聞こえるぎこちない足音。バットに手を掛けて、やめる。振り返る。
「さて、オレたちはどこに行きましょうか。勇者さん」
「…ボ、ボク、海に行きたい!」
「お遊びじゃないんですよ」
「目的地を決めるのも大事だろ!海を目指しながら魔王を探すんだ!」
「…はいはい」
街を一歩出る。襲ってきたのはスライム。雑魚モンスターの攻撃をもろに受けて倒れる勇者。腹を抱えて笑った。どこかでこんな光景を見たような気がしたから、背中から殴ってやる。パーティの仲間にも隙を見せちゃいけないのかよ!涙を浮かべる勇者の姿に、ちくりと胸が痛んだ。
「見ろよ戦士!これ!」
「…こんなもんオレに見せてどうするんですか」
「だって面白いだろ!」
勇者はよく笑った。まだ丸みを帯びた頬を綻ばせて、戦士、戦士、とオレを呼んだ。
「助けろよ戦士いいいい!」
「え?何でですか?」
「パーティ!ボクたち仲間だろ!」
狐色を翻して。慣れない剣に振り回されて。広がる世界に目を輝かせて。ロス。呼んだことはないはずのオレの名前を呼ぶ、勇者の声がする。ロス、ロス。戦士。混ざり合う。オレは一体誰を見ているのだ。誰の声を聞いているのだ。
「…っ戦士!…大丈夫?」
魘されているオレを起こすのは決まってこの勇者だ。そりゃあそうだ。オレたちは二人しかいない。二人だけのパーティだ。魘されるオレを起こすのはこいつしかいない。そのはずなのに。重なって聞こえる声は、日に日に大きくなっていた。
頭を振る。どうやらオレは疲れているようだ。勇者を殴ってすっきりする。殴られた勇者はまた泣いた。あんたそんなに泣かなかったじゃないですか。そう言ったら勇者は首を傾げた。ボクって、そんなに泣かなかったっけ。
ひょんなことから三代目の魔王と行動を共にすることになった。魔物が人間界に飛び出してきたのはこいつのせいらしい。責任を感じている少女を連れて、勇者と魔王と戦士の三人旅が始まった。そのことに恐怖した自分がいた。物語が進んでしまう。恐れている。何かに怯えている自分がいた。
次々に出会う変人奇人。魔王に出会ってから、怒涛の勢いで毎日を過ごした。忍者に喋る猫。気弱な勇者とその戦士(ロリコン)。姫やメイド長がいたときには少し驚いた。
旅に出てからしばらく会っていなかった幼馴染にも会った。花火師になっていたあいつに仕事を頼んだら大惨事になった。
新しい大陸にも行った。そして、訪れた魔界。戦ったのはひ弱だった勇者。呆気ない決着。閃く剣。オレンジの上着。腰に巻かれた赤いスカーフ。少しだけ精悍になった顔つき。頼れよ、オレの手を引いて。違う。ボクは勇者アルバだぜ。違う。違う。
「シオン」
ああ、違わないのか。泣きそうに笑う、勇者の姿。赤と黒の目。真っ黒な穴に突き落とす。そのくせ縋るように伸ばされた手。オレを見る。しあわせになったとき。声が響いた。ふざけるなよ。
あの野郎、帰ったら絶対にぶっ飛ばす。
「勇者さん。もうひとりで大丈夫ですよね」
「うん。もう大丈夫だよ」
「私もいるよ。だから安心してね、ロスさん」
「ああ。勇者さんのこと、任せたからな」
「普通逆じゃない!?」
真っ黒な穴が開いている。いつも使う少女の魔法ではない。少女の魔法をベースに、オレが無理矢理開けた穴だ。繋がっている。オレがぶっ飛ばさなければならないやつのところに。直通だ。さぞかし焦るだろう。いい気味だ。
「あんたと旅してるの、案外楽しかったですよ」
「ボクも。楽しかった」
「うわー。勇者さんってマゾだったんですねー。引くわー」
「…アルバさん…」
「違うから!ルキまでそんな冷たい目で見ないで!」
笑った。結局いつもと変わらない。
こっちの勇者と旅した一年ちょっと。まあ、なかなかに愉快な体験だった。あっちの世界ではあんな奴が、こっちの世界でこんなになっていて。笑った。ただただ幸せな世界だった。あの人が好みそうな世界だ。
「さよなら」
こっちの勇者は笑った。後腐れなく。素直に、見送る。こっちの勇者の方が強いかもしれないな。オレを見送ったときのあの泣きそうな阿呆面を思い浮かべて、また笑った。
「じゃあな、アルバ、ルキ」
楽しかったぜ、言い掛けて、やめる。ひとつ魔法を掛けた。魔法を受け取った二人は、少しだけ眉を寄せて笑う。
もう振り返らない。穴に飛び込んだ。向かうは、オレの勇者の元だ。
「クーゲルストライク!」
「ぐへえ!」
バットにめり込む骨の感触。響く悲鳴。地面に転がったそれの確認をすることもなく、頭に手を突っ込んだ。セットされた髪が梳ける。そうしてもう一度、バットで一撃。ぐ、とくぐもった声が聞こえた。まだ足りない。
「あんた何様なんですか」
一撃、二撃。地面に蹲るそいつを蹴って、殴った。
「オレの幸せをお前が決めるな」
反応のないそいつの襟首を掴んだ。だらりと力の抜けた体。俯いた顔はよく見えない。小さく震える肩。ず、と鼻をすする音がした。
「もどってくるの、早すぎだろ」
「誰かさんがとんだ呪いを掛けてくれたんでね」
「のろいじゃない」
「知ってますよ」
知っている。あれは呪いだなんて生易しいものじゃなかった。恐ろしかった。すべてを忘れて幸せに浸る世界。ただの夢だ。泡沫だ。何もかもが非現実だ。そんな恐ろしい世界に、こいつはオレを放り込んだ。よりにもよって、幸せになれと。突き放して。
「あんたは何がしたかったんですか」
あんたにはオレがどう見えてるんですか。オレはここに生きてはいないですか。オレが生きた千年は、オレがあんたたちに出会って生きた数年は。あんたの中ではなかったことなんですか。オレはここに生きてはいないのですか。言い募る。
顔を上げた"勇者"は、眉を寄せて笑っていた。
「ボクはただ、お前が幸せになってくれたら、それでよかったんだ」
まさかお前が、こんなにも幸せを感じているなんて、思わなかったから。あの人は、へらりと笑った。
「オレの幸せをお前が決めるな」
「うん」
「あんたは、自分で自分の幸せを決めろ」
「うん」
「オレは、今でも。充分に幸せなんですよ、勇者さん」
「うん。なんとなく、気付いてた」
バットで一撃。今度は軽めに。それを受け止めたあの人は、見慣れた顔でぼろぼろ泣いた。久しぶりに見る泣き顔だった。
「そうだ、勇者さん」
向こうの貴方が面白いこと言ってましたよ。丸くなる目。じわじわと赤くなる頬。ちょっと待って、嫌な予感がするからちょっと待って。笑いを堪えて、真剣な顔を作った。
「だって勇者は、みんなの希望なんだから!」
うわあああ!洞窟に響く声に、腹を抱えて笑った。馬鹿だなあ、この人。
そうしてオレは、頭を抱えて転げ回る彼に魔法を掛けた。あちらの勇者と魔王に掛けたものと同じもの。幸せになれ、という。陳腐な呪い。
ワンダー・ワールドの小さな魔法使い
(使える魔法はたったのひとつ。)
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