senyu | ナノ






最初は涙だった。
悲しいことがあった。だけど涙は出なかった。成長したのだなあと思ったけれど、嬉しいことがあっても涙は出なかった。何があってもボクの涙腺はうんともすんとも言わなかった。ああ、ボクは涙を失くしたのだな、と気付いた。


次に怒りという感情が分からなくなった。
理不尽なことがあった。どうしても許せないことがあった。それでもボクは、怒り方が分からなかった。胸の奥でぶすぶすと燻る気持ちを表現する方法を失ってしまった。細い煙を上げるだけで、燃え上がることはしなかった。だからボクは、怒るということをやめた。


その次は悲しみが分からなくなった。
何かを思い出して、どうしようもなく苦しくなった。目の前で死んでいった人を見て、息ができなくなった。大切な人が分からなくなった。どうしたらいいか分からなかった。ボクは悲しみ方も忘れてしまった。


嬉しいという気持ちが分からなくなった。
ありがとう、とお礼を言われた。笑顔を向けられた。隣にいてくれた。ボクを知っていてくれた。胸がいっぱいになった。だけどそれだけだった。その気持ちを表すにはどうしたらいいのか。考えることもなく出来ていたことが、出来なくなっていた。喜びとは何だったっけ。




ひとつ、何かを掬い上げる度に、ひとつ、ボクから零れ落ちていくもの。
それはとても大切なものだったはずなのに、ボクはそのことも分からなくなった。




そのうちすべての感情が無くなった。
怒りも、悲しみも、喜びも、楽しいという感情すら。もうボクの中には残っていなかった。ボクはそれでも良かった。何かを失くすということは、何かを誰かを掬い上げたということだったから。ボクは満足だった。


声を失い、力を失った。ボクは喋ることも、自分の力で立つことも出来なくなった。誰かを抱き締めることも、慰めることも、隣に並ぶことも出来なくなった。
視力も、聴力も、無くしてしまった。何も見えない、何も聞こえない。だけど、助けを求める声だけは聞こえた。泣き叫ぶ人の顔だけは見えていた。ボクは彼らを救わなければならなかった。




そうしていつしか、ボクはボクが何者であるか分からなくなった。
ボクがボクであると証明できるものはなくなってしまった。感情も、声も、ボクを表現するための力も、何かを見るための目も、誰かの声を聞くための耳も、なくしてしまった。ボクは空っぽになってしまった。ボクをボクだと言えるのは、きっともうボクしかいないのだ。だけどもう、ボクにも、ボクが誰だか分からないのだ。




それでもボクが覚えていたこと。
ボクが"勇者"であるということ。膨大な力で人を救わなければならないということ。ボクは誰かの、みんなの、世界の、希望であること。光でなければならないこと。


だからボクは、"ボク"であることを忘れても、"勇者"であることを忘れてはいけないこと。


ひとつ、すくい上げたら、ひとつ、大切なものが、手のひらから落ちていった。それを拾い上げるための術も、ボクはもう、持ち合わせてはいなかった。



何もないボクは、それでも誰かの希望だった。誰かのための勇者だった。何かのためのボクだった。
ボクはボクが分からなくなった。それでもボクはどこかのだれかの、希望、だった。

それだけは、まちがえては、いけなかった。


ああ、ボクはどうして勇者になりたかったのだったっけ。
もう分からない。ボクには何もない。分からない。わからないことしかわからない。

ひとつだけ、わかるとしたら。そうだなあ。
さいごにボクに残ったものを見て、きっとボクがさいしょにすくいたかった人は、泣いてしまうのだろう。

ごめんね。
ごめんね。
ごめんね。

ありがとう、さようなら。
どこかにいる、ぼくのたいせつなだれか。




ボクにさいごにのこったもの。それをはりつけて、ぼくは、






光にとけた深海魚






ねえ、わらって、と。

最後にそう言って、何者でも無く、ただただ誰かの勇者で、何かの希望だった、その人は、最後まで彼に残った、あの頃から何一つ変わらない笑みを浮かべて、いつか、いつの間にか、彼がすくい上げたもので溢れる世界の中へ、溶けて消えた。


希望は世界に満ち溢れ、そうして、世界は、ただひたすらに"希望"であった彼のことを、至極あっけなく、忘れ去るのである。


(彼がすくい上げた世界は、こんなにも残酷だ。)





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