みーん、みんみんみん。遠くから蝉の声がする。
みーん、みんみんみん。みーん、みんみんみん。
生を謳う。精一杯の生を叫ぶ。夏の象徴。夏の声。みーん、みんみんみん。
「シオン」
みーん、みんみんみん。蝉の声に紛れて、優しげな声が聞こえた。それは聞いたこともないような声音で、オレの名前を呼んだ。
生まれた時に与えられた名前。どんな意味なのかは、ついぞ聞くことはなかった。名乗ることのなかった名前。生まれてきた証。生の象徴。
みーん、みんみんみん。鳴く。おぎゃあ、おぎゃあ。泣く。生きていることを叫んで、ここにいるのだと叫んで、優しく、名を呼ぶ人を、探している。
「ああ、ほら。シオン。泣くなよ!」
見えない目で見る。ぼんやりとした視界に、人がひとり。丁寧とは言えない手つきでオレの頭を撫でる。がしがし。やめろ。まだオレはそんなに頑丈じゃないんだ。訴えるように泣けば、ひとりがふたりになった。何やってるの、シオン泣いてるじゃない。大きな声。ごめんよ。弱い声。
「シオン、シオン。見えるか?蝉が鳴いてる」
みーん、みんみんみん。窓の外から聞こえる。声、或いは、歌。見えるか、じゃなくて、聞こえるか、だろ。馬鹿だな。ああ、本当に。馬鹿な奴だよ。本当に。
「蝉はな、一週間しか生きないんだ。一週間しか生きないのに、あんなに必死に主張する。ここにいるんだぞ、ってね」
ふわり、人間は学習する生き物だ。オレの頭を、そっと、壊れ物を扱うかのようにそっと、優しく撫でる手。ざらざらしていてごつごつしていて、よく分からないが安心する手。そいつはオレの頭を撫でながら、きっと窓の外を見ている。
「オレたちは蝉よりも長く生きるなあ。だけど、蝉みたいに必死に生きていることを主張してるか?」
そんなことは知らない。生きて、生きて、生きて。ただ、生きて。息をして、泣いて、笑って、泣いて、生まれた時に泣いて、死ぬ時もまた、泣く。生き物だ。生きていることを主張しなくても、そこに生きているのだ。生きている。
「なあ、シオン。お前は、しっかり生きてくれよ」
大きな手。それに比べて、満足に指も握れない、小さな手。それでもなんとなく似ているような気がした。
「お前が、お前たちが生きてくれることが、オレたちが生きた証になるだろう?」
そうすれば、オレたちは、外で鳴く蝉のように。必死に、短い命を燃やして、生を叫ばなくてもいい。証があるから。そうだよな、名前を呼んで、笑う。馬鹿だろう、お前。口から出た言葉は、間の抜けたものだった。
みーん、みんみんみん。蝉は、ひたすらに謳い続ける。夏の象徴。生の証。みーん、みんみんみん。みーん、みんみんみん。
「シオン」
かわいいシオン。幸せになるんだぞ。生きて生きて、泣いて、お前はここにいたんだと、そう言える人間になれ。とろけるような、緩んだ笑み。親の顔。初めて見る、人間の顔。オレに名を与えた人。生の象徴。オレを飾った、はじめてで唯一のもの。
ああ、これは夢だ。オレは夢を見ている。とても、とても。幸せな夢を見ている。
きっと彼がまだ夫だった頃。父だった頃。幸せだった頃。
幸せだったあの頃を追い掛けて、彼は叫んだ。みーん、みんみんみん。生を叫んだ。証を掴み損ねたそいつは、その命を燃やして、夏を生きる蝉のように、ただ。ひたすらに。生きたのだろう。
「生きろよ、シオン」
さいごのなき声。耳から離れない。優しい声。名を呼ぶ。泣いて、名を呼ぶ人を探す必要は、もうないけれど。みーん、みんみん、みん。夏を生きる蝉は、夏しか生きられない。あの頃を生きたそいつは、あの頃にしか生きられなかった。
「ロスさん」
名を呼ぶ。声がする。ロス、確かにあの時を生きた、名前。元は友人のものだけれど。
名を呼んだのは少女だ。小さな、桃色の、少女。人間とは異なる理の中で生きる。違う時間を生きる。少女は、本来ならば生まれることのなかった少女は、それでもここで息をしている。生きている。生きている。
「シオン」
きっと、彼も。少女の隣に並ぶ彼も。あの頃のオレがオレではなくて、あいつがあいつではなかったら。ここにはいない。オレがあの時眠らなければ。ここにはいない。
彼らはよく鳴いた。みーん、みんみんみん。夏の間、必死に、生きていることを叫ぶ蝉のように。彼らは、いつでも、鳴いた。みーん、みんみんみん。それは決して、不快ではなく。
「ねえねえ、アルバさん。今日はいい天気だよ」
「そうなの?もうすぐ夏が来るのかなあ。アイスが食べたいね、ルキ」
「じゃあ今度買ってきてあげる!」
「本当?じゃあみんなで一緒に食べようか」
みーん、みんみんみん。外では蝉が鳴く。ここでも声。少女の高い声。少年の、変声期を迎えた、出会った頃よりも少しだけ低くなった声。みーん、みんみんみん。何味にしようか。ボクはバニラかなあ。じゃあ私はイチゴかな!みーん、みんみんみん。ねえ。ねえ。
「シオン!」
瞬き。目の前に迫る少年の顔に、思わず手が出た。殴られた彼は、無様に地面に転がることもない。あんなに弱かったくせに。意味もなく気に入らなくて舌打ちをすると、少年は殴られた頬を押さえながら立ち上がる。小さかったくせに。弱かったくせに。いつの間に強くなった。くそが。
「何も殴ることないだろ!」
「勇者さんがあんまりにも阿呆面だったんで」
「なにそれ理不尽!」
少年が頬に手をかざした。光が溢れたかと思うと、その傷は一瞬で消えてしまった。魔法。あいつが作り出したもの。ああ、これも。あいつの生きた証か。
魔法も、魔族も。あいつが生きた証だ。目の前で微笑む少女も、少年を癒したあの光も、そしてオレも。彼が、この世で、命を燃やして、鳴き声を上げた、証。そこかしこに、生きた証だけを残して。死んでしまった。勝手だ。
「なあ、シオンは何味にする?」
「私はイチゴで、アルバさんはバニラにするけど」
シオン、シオン。ロスさん。名を呼ぶ声。なんだ、こんな簡単なこと。気付くのが遅すぎる。
「じゃあ、オレは二人のを少しずつ貰います」
この二人は、オレが生きた証だ。
オレが少女の父に力を与えなければ、きっとこの少女はここにはいない。
オレがあの頃の世界を巡らなければ、きっとこの少年はここにはいない。
巡る。命を燃やし尽くして地に落ちた蝉が、養分となり。次の夏。生まれてくる蝉の、命となるように。巡る。すべては、きっと巡っている。
オレと少年の出会い。オレたちと少女の出会い。それも、巡って、巡って。どこかの誰かの、生きた証が、世界を巡り、自身を巡り、誰かを巡り。どこかで、誰かが、生を謳った、その瞬間に。また、どこかで、誰かが、巡り合う。
「ルキ、」
「なあに?」
「…アルバ、」
「んー?」
名を呼ぶ。返事がある。大きな声で鳴かずとも、ここにいる。聞こえる。生きている。
手を伸ばす。触れる。どのくらいの力加減をすればいいのか分からなかった。ふわり、そっと、壊れないように。そっと、触れる。そして笑う。ああ、なるほど。あの時オレに触れたあの手は、大事なものを守る手だったわけだ。壊さぬよう。触れる。
二人の大きな瞳に映る。オレは、とろけそうな、緩んだ顔をしていて。ぼんやりと記憶にあるあいつの、あの人の、父の。顔は、ああ確かに、こんな顔だったと。笑う。
「知ってますか」
外では蝉が鳴いている。一週間の命を必死に燃やして。生きていると叫んでいる。ここにいると謳う。夏の象徴。
蝉は一週間しか生きないらしいですよ。一週間しか生きないのに、あんなに必死に主張する。ここにいるぞ、って。まるであんたたちみたいですね。
そう言えば、二人が笑う。笑って、笑って、それは違うよ、と笑った。
「どっちかって言えば似てるのはシオンだろ」
「正確に言えば、ロスさん、だけど」
「いや、やっぱり、クレアシオンかな」
命を燃やして、追い掛けた。死ぬまで鳴いた。鳴くつもりでいた。追い掛けて、地に還るつもりでいた。オレを生きた証とした父と。共に。眠り。巡り。みーん、みんみんみん。また夏に。叫べばいいと。思って、いた。
「もう夏だねえ」
「毎日暑いもんね」
「やっぱりアイス食べたいね」
「ボクがバニラで、ルキはイチゴな」
「ロスさんには半分ずつあげればいっか」
「そうしたらシオンが得するけどな」
「いいんじゃない、ロスさんだし」
「そうだな、シオンだし」
みーん、みんみんみん。遠くから蝉の声がする。
みーん、みんみんみん。みーん、みんみんみん。
生きている。ここで、生きている。夏を、生きる。
生きろ(しあわせになれ)よと。鳴く。声が、した。
みーん、みんみんみん。
入道雲と蝉時雨
(気付けばまた、夏が来る。)
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