「シーたん!シーたんシーたんシーたん!」
「うるさい」
「ごほぉ!今日もいい拳だぜ…!」
朝っぱらから騒がしい友人の腹に一発拳を沈めて、あまり気分がいいとは言えない起床を迎える。窓の外は快晴、春らしい陽気。足下で蹲る友人をわざと踏み付けながらベッドを降りて、簡単に身支度を済ませる。
二度も攻撃を食らわせたのにもかかわらず、部屋を出ようとするオレの後ろを追い掛けてくるその友人。ねーねー、懲りずに話しかけてくるそいつにもう一度拳を埋め込もうとして止める。そんな気分じゃない。
「あ、おはようシーたん」
「…おはよう」
朝食の用意をしなければと台所へ向かうと、珍しい人物が椅子に座ってカップを傾けていた。いつもならばこの時間は研究室に閉じ籠っているか寝ているのに。その人物、まあ父親なのだが、そいつは何が可笑しいのかオレを見てへらりと笑う。
特に何かを話すわけでもなく、邪魔な位置にいるそいつの身体を押しのけて台所に立つ。そしてそのまま、有り得ない光景に目を瞠った。
「気付いた?」
「へっへーん!サプライズ成功!」
オレの後ろでハイタッチでも交わしたのか、手を叩きあう軽やかな音。それでも目の前に広がる光景が信じられなくて、振り返ることもせずにそれを見つめた。
朝食が用意されている。
たったそれだけのことを異常に感じるのだから、オレはどれだけこの状況に慣れ切っていたのだろうかと溜め息すら吐きたくなる。信じられない。しかも普通に食べられそうなものが出てきた。尚更信じられない。
「…隣のおばさんからの差し入れか?」
「そんなわけないじゃん。あのおばさん、オレのこと嫌ってるしー」
「じゃあ八百屋のじいさんか?」
「違うよー。オレが作ったの!クレア君も協力してくれたんだよ」
「……」
何故か自慢げにそう語る父親の背中を一発殴っておいた。腹が立った。ぐへえ、だなんて情けない悲鳴を上げたけれど、そいつはそれでも嬉しそうに笑って友人を見た。友人も無駄にきらきらとした顔で笑っていて、それが更に腹が立った。
なんだこれ。今日は槍でも降るのか。恐ろしくなった。槍が降って世界が終わるなら、その前にこの朝食を食べて死ぬのも同じことか。そんなことを考える。
「シーたん今すげー失礼なこと考えなかった?」
そうむくれた顔をして文句を言う友人は無視して、スプーンとフォークを手に取る。ハムエッグとトースト、サラダ。スープまである。それから、蜜のたっぷり詰まった甘い香りのリンゴ。ハムエッグを一口。半熟で焼かれた目玉焼きの黄身がとろりと顔を出した。
「どう?どう!?」
「うるさい」
「おいしい!?シーたんおいしい!?」
「…うるさい」
鼻の奥がつんと痛んだ。人が作った温かい食事を食べたのはいつぶりだろう。いつだってこのロクデナシはオレのことよりも研究のことばかり考えていて。食事も風呂も睡眠もお構いなしで、意味が分からない言葉が書き連ねられている紙と向かい合っているときが一番幸せそうにしているくせに。
「今日は特別ね」
どうして、こういうときだけまともな父親面するんだ。
「誕生日おめでとう、シーたん」
「おめでとー!」
ああ、悔しい。こんなことで。こんなことで。
悔しいから返事はしない。温かい朝食を食べ切ることが先だ。スープを口に含んで、そのやわらかい味に、まだ自分が幼い頃に一度だけ飲んだスープの味を思い出して。ぽたりと、スープの表面が揺れた。
「なんだよシーたん、男だろー。こんなことで泣くなよ」
「え!?シーたん泣いちゃったの!?見たい見たい!」
「うるさい」
にやにやとオレの顔を覗き込もうとして来る二人の鳩尾に平等に拳を叩き込んで、朝食の残りを口の中に放り込んだ。ご馳走様、と呟いた声は、意識を飛ばした二人には届いてはいまい。
綻ぶ口元を隠しもせず、オレは、笑って。
そうだ。可哀想だから毛布くらいは掛けてやるかと。自分にしては上機嫌に。自室のドアノブに、手を伸ばして。
――伸ばして、掴んだのは、夜闇。
ぱちん、と薪の弾ける音と共に意識がはっきりした。ああ、いつの間に眠っていたのだろう、と。ぼんやりとした頭でそんなことを思った。
随分昔の夢を見た。懐かしくなって、ふと口元が緩んで。頬を伝う冷たさに愕然とした。涙なんて出るのか。薄汚れた外套で乱暴にそれを拭い、ひりひりと痛む頬に、今日も生きていることを実感する。
辺りを見渡しても夜闇が広がるばかりの森の中。いつ魔物が襲ってきてもいいように、すぐ傍には武器が立てかけてある。
武器など使わずとも、今ではすっかり体に馴染み、呼吸をするように使うことのできる魔法を使えばいい話なのだが。どうしても好きになれない、この力を使うこと。割り切るには、まだあの時の記憶は生々しすぎる。
ぱち、と小さな枝が弾けた。火の粉が舞い、消える。もう何日野宿が続いただろうか。そろそろ町や村に辿り着かなければ、体力が底を尽きてしまいそうだ。そう考えるのが先だったか、手のひらが光って、勝手に体を癒していく。真新しい傷がひとつ、消えた。
馴染み過ぎた魔力は、時々こうやって意志とは関係なく体を癒していった。所詮は人の感情によって作られただけの力のくせに、宿主の意識を乗っ取ろうだなんて。どこかの誰かのように生意気で高慢だ。反吐が出る。
ぱちん、またひとつ、薪が弾ける。跳ねた火が、腕に飛ぶ。熱いと感じることもない。焼ける肌をぼんやりと見つめて、火傷になりそうだ、と思ったのはそれから数秒後。我ながら感覚がおかしい、口から洩れるのは嘲笑。ああ、可笑しい。
シーたん、と呼ぶ声が聞こえる。頭の中から、胸の奥から、静まり返った森の中から。どこからともなく、シーたんと、自分を呼ぶ声が聞こえる。聞こえる。
風に乗って悲鳴が届いた。シーたん、自分を呼ぶ声がする。こっちにおいでよ、シーたん。誰かが呼ぶ。呼ばれるまま、炎を踏み消し、武器を手に取る。まただ、あいつはまたひとつ。誰かの命を消したのか。
炎に包まれた村の中、そいつは何が可笑しいのかオレを見てにやりと笑う。芝居がかった動きで手を広げ、悲鳴や怒号を背負い、そいつは笑う。
「誕生日おめでとー!」
シーたん、と、笑う。友人の顔で、あいつが笑う。
背負った武器を手に取って、オレも笑う。馬鹿馬鹿しい。これが夢なら、今すぐ覚めてしまえばいいのに。オレの中で渦巻くのは、訳の分からない感情。ぼう、と青い炎が燃え上がった。それを見て、あいつはまた笑った。
「シーたん、オレが用意したプレゼント、喜んでくれた?」
「うるさい」
「子供の誕生日を欠かさず祝ってあげるオレって、ほんといい父親だよねー」
「…うるさい」
「ほら、クレア君も祝ってるよ?」
シーたん、おめでとー!あいつの顔であいつの声で、あいつが笑う。歪む笑みに、ああやはりあいつはあいつで、あいつではないのだと、笑う。
「うるさいっつってんだよ」
手のひらから、光。息をするように、簡単に、あっけなく。あいつがくれた手からは、人を殺せる力が溢れる。その度にオレは、理解できない苦しみに息を詰まらせるのだ。
「あはは!ほら、シーたん!遊ぼうよ!」
ハムエッグはないけどね。あいつはそう言って笑うから。
「作るならもっとマシなもんにしろよ」
ひらり、外套が、翻る。青い炎と、赤い目と、空を染める藍色が、マーブル色に、混ざり合って。
「シーたん、」
誰かが、オレを呼ぶ。
「シーたんってば!」
がく、と揺らされる感覚。どこかから落ちるような、そんな感覚に眉を寄せながら目を開ける。明るい銀髪、青い目。そいつは何が可笑しいのかオレを見てにこにこと笑っている。
何だか無性に腹が立ったから、そいつの鳩尾に一発拳を入れてやった。いつか聞いたような声を上げて、そいつはオレの上に倒れ込む。その体を容赦なくベッドから突き落とし、もう一度毛布に包まろうとして。いつになく俊敏に起き上がったそいつに毛布を奪われた。
「もー!シーたん、さっきから起こしてんのに!」
「うるさい」
「今日は城に帰りたいんだって昨日言ったじゃん!」
「許可した覚えはない」
「えー!いいじゃんシーたん!帰ろうよー」
ゆさゆさ、毛布を奪われてなお惰眠を貪ろうとするオレの身体をしつこく揺らすそいつ。面倒くさい。いつもなら一発殴ってやったら大人しくなるのに、今日はやけに粘る。
閉じていた目を薄らと開けると、随分必死な様子でそいつはオレのことを見ていた。何なんだ一体、そう言うのも億劫で、また目を閉じる。
「気分じゃないんだよ」
夢見は最悪だ。この時期になるといつだって脳裏を過ぎる光景。夢にまで見て、もう全ては終わったというのに。それでも、あいつが笑っているような気がして。浮かぶものを全て、すべて、黒で塗り潰して。
「オレ、今日は絶対帰るってアルバくんに約束したんだってばー!」
「……はあ?」
何を言い出すかと思えば。そいつが挙げたのはあの人の名前。思わず目を開けて睨んでやれば、そいつは悲鳴を飲み込んで珍しく涙目でオレを睨み返す。
「こないだの手紙で、連れて帰るねって約束しちゃったんだもん」
「なんでだよ」
「……何ででも」
ふい、と視線を逸らすそいつに腹が立ったのでもう一度殴ってやる。今度は腹ではなく頭だ。鈍い音を響かせる。頭を抱えて座り込むのそいつを乗り越えて、オレは軽く身支度を整える。
顔を洗って、鏡を見る。鏡に映る自分は酷く鬱蒼としていて、だけどそれも鏡越しに現れたそいつの阿呆面に消されてしまった。
「ねー、シーたーん…。帰ろうよー…」
「うるさい。大体、あと少ししたら嫌でも帰ることになるだろ」
あの人の家庭教師をすることになってから、月に一度は必ず城へ戻っている。もうすぐあの人は住まいを城から魔界へと変えるらしいが、今はまだ準備段階だとかで城にいるはずだ。
無理に帰る必要はない。あの人に会いたいのならばその時にしてくれ。頭が痛む。今日はもう、このまま眠っていたいのだ。
「まあ、そう言うと思ってたし!」
「イヤでも誘拐しちゃうけどね!」
聞こえるはずのない声が聞こえて、反射的に振り返る。銀髪のそいつと、その横で無邪気に笑う、桃色の。
「る、…っ!」
「はいどーん!」
二人がかりで背中を押され、目の前に浮かぶ真っ黒なそれに放り込まれ。めき、と自分のアバラが軋む音を聞いた。ああ、あの人。いつもこんな音を聞いているのか。タフだ。
「ハッピーバースデー!」
目を開ける。色とりどりに舞う、紙吹雪。クラッカーでも鳴らしたのだろうか、部屋が火薬臭い。いや、そんなことよりも。なんだ、これ。
「へっへーん!サプライズ大成功!」
オレの後ろでハイタッチでも交わしたのか、手を叩きあう軽やかな音。それでも目の前に広がる光景が信じられなくて、振り返ることもせずにそれを見つめた。
背中を叩く手。呆然とそちらを見ると、あの頃から変わらない笑みを浮かべて、友人が、そこに立っていて。その横には、桃色の、小さな魔王。
「シオンさん、絶対嫌がると思ったもん!」
「だからルキちゃんにあらかじめ来てもらってたんだよー」
ねー、と仲睦まじげに笑い合う友人と魔王。意味が分からなくて、そんな様子をぼんやりと眺めていて。
「シオン」
視界いっぱいに広がる、派手な色の包装紙。包まれた大きな箱。それを持つ、見慣れた、あの人の、笑顔。
「誕生日おめでとう、シオン」
押し付けられる箱を受け取ると、その人は、本当に、嬉しそうに、笑って。赤と黒の目を細めて、今度は、友人と魔王と、三人で手を叩き合った。
箱を開ける。大きなケーキ。甘そうなクリーム。真っ赤なイチゴ。チョコのプレートには、確かにオレの名前が刻まれていて。箱を持つ手を、あの人が引く。ほら、早く座って!友人と魔王と、勇者が、オレの手を引く。
「せっかくの誕生日なのにこんなとこでごめんな」
「しょうがないよ。アルバさん、ここから出れないんだし」
「そうそう。アルバくんのせいじゃないよ!」
「うう…、慰められてるのか責められてるのか微妙な気分…」
ぱちん、と弾ける。青い炎と、赤い目と、空を染める藍色が、マーブル色に、混ざり合って。あたたかな、朝焼け色。勇者の色に、ゆっくりと、ゆっくりと。
「ほら、シーたん!」
「シオンさん、早く食べようよ!」
「…聞いてるのか、シオン?」
ああ、悔しい。こんなことで。こんなことで。
悔しいから返事はしない。甘いケーキを食べ切ることが先だ。カップに注がれたリンゴのジュースを口に含んで、そのやわらかい味に、あの時の朝食の味を思い出して。ぽたりと、ジュースの表面が揺れた。
「…なんだよシーたん、男だろー。こんなことで泣くなよ」
友人が泣き笑いの顔を作った。鼻を啜り、目を擦る。鼻先を真っ赤にして、笑う。
「え!?シオ、でっ!」
「ぐえっ!」
「うるさい」
「何でオレまで殴るのシーたん!?」
「シオンさんが照れてるー」
にやにやとオレの顔を覗き込もうとしたあの人と、ついでに友人の鳩尾に平等に拳を叩き込んで、ケーキの残りを口の中に放り込んだ。ご馳走様、と呟いた声は、それでもしっかりと届いていたようで。
「どういたしまして!」
綻ぶ口元を隠しもせず、オレは、オレたちは、笑って。
――ああ、今日はよく眠れそうだ。
誰に言うでもなく、落とした言葉を。拾った彼らはまた、しあわせそうに、笑うのだ。
空を目指したレッド・ベリル
(Happy Birthday to ROS/SION!)
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