25.笛の音

「あ、お手入れですか?」
 香香とリビングで遊んでいたら、限哥が来てソファに座り、布巾を手にして、笛を磨き始めた。
「うん。最近、使っていなかったからね」
 限哥は丁寧な手付きで布巾を動かす。香香が何をしているのか興味を持って、限哥の足にしがみついて立ち上がると、手元を覗き込んだ。
「ばぁ、ぶぁ!」
「パパの持ってるの、気になるねえ」
 限哥は一度拭う手を止めて、香香に笛を差し出す。香香はむんずとそれを掴み、じっと見つめると、ぱくっと食いついた。
「あらあら、香香」
 慌てて引き離したけれど、限哥は気にせず、また拭くからいいよと笑う。香香は握った感触が気に入ったようで、しばらく振り回していた。
「この笛、もうずいぶん使ってるんですか?」
「そうだな。どれくらい使っていたか……」
 限哥は目を細めて、その艷やかな表面を眺める。こういうときに、限哥は想像できないほど長く生きていることを思い知らされる。最近は、あまり意識することがなかった。香香の前では、ごく普通の父親として振る舞っているから。
 香香が笛から興味を失い始めたのを察して限哥が手を出すと、香香は素直に笛を返した。限哥はまた丁寧に笛を磨き始める。香香は手を出さず、その様子を、大きな目をさらに大きくして眺めていた。私も限哥の隣に座り、一緒に眺める。大きくて、優しい限哥の手が、細かい溝までしっかりと掃除していく。左手の薬指には、私が贈った指輪がきらきらと輝いている。
 限哥に贈ってもらうまで、指輪をつける習慣はなかった。たまにつけても、つけているのが気になってしまって、すぐに外していた。でも、限哥にもらった指輪は、指にぴったりと嵌って、つけているのが気にならないから、ずっと外さずにつけていられた。そのうちにつけていない方が落ち着かなくなってしまった。
 限哥と離れているときも、指輪の翡翠を見れば、その優しい眼差しを感じられる。
 そんなことを考えながら指輪を見ていたら、視線を感じたので顔を上げると、限哥が優しく微笑みながら私を覗き込んでいた。香香まで真似をして、私を見ている。
「あ、もうお手入れ終わったんですか?」
「うん。久しぶりに一曲吹こうかと思ってね」
「わあ! 聞きたいです!」
 限哥の笛は、何度か聞かせてもらったことがある。穏やかで、どこか懐かしい音色。限哥の心がそのまま音になったようで、心にしんと染み渡る旋律だ。
「鈍っていないといいが」
 そんなことを言いながら、限哥は笛を口元へ当て、静かに奏で始めた。
 音が響き始めると、香香はぱっと顔を上げて、不思議そうにきょろきょろしたあと、それが限哥の方から聞こえることに気づいて、じっと限哥を見つめた。香香には、この音がどんな風に聞こえているだろうか。
 小黒は、限哥と出会ったとき、笛を聞かせてもらったと教えてくれた。限哥と初めて出会ったのは、大陸から離れた島で、そこにあった転送門を限哥が壊してしまったから、限哥が作った筏で大陸まで行く羽目になったそうだ。
 いまでは考えられないけれど、最初の小黒から限哥への印象は最悪だったらしく、その旅はとても険悪なものたったそうだ。けれど、限哥が小黒の能力を見抜き、金属の扱い方を教えるようになって、徐々に限哥の人となりがわかってきたころ、月夜の夜にこの旋律を聞かせてくれたそうだ。それを聞いて、とても風流だと思った。任務中でも笛を持ち歩き、出会ったばかりの子に聞かせるなんて、とても素敵。それも、月の照らす夜の穏やかな海の上だというのだから、さぞ美しい光景だっだろうな……なんて私の妄想までは、小黒には伝えなかったけれど。
 小さな筏で大海を渡るなんて無謀に思えるけれど、それも限哥の能力なら可能なのだと思うと、改めてこの人はすごい人なんだと感じた。
 目を閉じて旋律に耳を傾けていると、心に溶け込むように、最後の音が消えていった。
「んゆ、ゆや!」
 しばらくすると、香香が一生懸命限哥に何かを訴え始めた。
「ふふ。もっと聞きたいみたいですよ」
「では、他の曲を」
 限哥は香香の求めに応じて、その後も何曲か吹いてあげた。それでも香香はもっと聞きたいと言うので、さすがに限哥の方が音を上げて、これで最後だと、またあの曲を吹いて、終わりにした。
「香香、すっかりパパの笛が気に入ったのね」
「それは嬉しいな」
 私の膝に座って、香香はご機嫌にはしゃいでいる。
「ママもパパの笛、大好きだな。また聞きたいね」
 香香に話しかけながら、限哥に微笑む。限哥も目を細めて微笑んだ。
「君たちが望むなら、いくらでも」
「だって。よかったね、香香」
 香香はきゃっきゃと笑う。今度は、寝る前に聞かせてもらったら、いい夢が見られるかも。
「小黒もまた聞きたいかも。みんなが揃ってるときにお願いしよう」
「そうだな」
「楽しみにしてますね」
「練習しておこう」
「ふふ。十分素敵ですよ! ね、香香」
「だぶぅ、ぶ」
 香香が同意するように声を出したので、二人で肩を揺らして笑った。

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