23.守るべきもの

 お昼が済んで、片付けも終えてほっと息を吐く。
 今日はなぜか香香がなかなかご飯を食べてくれなかったので、時間がかかった。
「この前は美味しいって食べてくれたのになぁ。味付け変わってたかな……?」
 香香は人の気も知らずご機嫌に遊んでいる。赤ん坊の気持ちはまだまだ全然わからない。もしかしたら、ずっとわからないままなのかも。
「たぁ、たぁ」
 音の鳴るおもちゃを振り回して、赤いふくふくとしたほっぺに笑みを浮かべている姿を見ていると、ただただかわいくて、こちらの頬まで蕩けてくる。
「香香、かわいいねぇ。ほっぺぷにぷにだねぇ」
「ゆぁ! やぁや!」
 頬を突付くと、たくさん手を振り回して、嬉しそうに笑い声を立てた。
「まぁ、ちゃっちゃ、う?」
「うん?」
「う、う!」
 不意に、私の顔を見つめると、きょろきょろとして何かを探す仕草をする。そのまま腹ばいになって、テーブルの方へ近づいていく。
 そして椅子の足に捕まり、立ち上がった。もうすっかりつかまり立ちが上手になった。
「ちゃー」
「なあに? お水?」
 どうやらテーブルの上にあるコップに手を伸ばしているようだった。小さな手はテーブルの縁にも届かない。
「喉乾いたのかな?」
 そろそろ水分補給に水を飲む時期だとお医者さんに教わって、ときどき白湯を飲ませている。コップから飲むのが面白いようで、たまに飲みたいと主張するようになった。
「ちょっと待ってね、いまあっためるから」
 やかんにお水を入れて、コンロにかける。そのとき、がたんと大きな音がしてすっと肝が冷えた。
「……美香!」
 椅子が傾き、香香の身体がふわりと倒れていく。テーブルの端の方に置かれていたコップが揺れ、宙を舞う。

 ガシャン、とガラスの割れる音がやけに遠く、自分の鼓動の音がやたらと大きく聞こえた。
「香香……大丈夫?」
 腕の中にしっかりと抱きしめた我が子の顔を覗き込む。大きな音にびっくりして目を丸くしている以外はなんともない。大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。
「よかった……。ごめんね。びっくりしたね」
 なだめるように頭を撫でる。そうして自分の気持ちも落ち着けた。
 幸い椅子は倒れず、香香が下敷きになることはなかったけれど、コップがひとつ割れてしまった。
「危ないから、掃除するね」
 その間、香香には部屋に戻っていてもらった。ベビーベッドに座らせ、ドアをしっかりと閉める。ここなら安全だ。そのはず。そう思いつつも、心臓はまだどきどきしていた。もし、一歩遅かったら。そう思うとぞっとする。
「いたっ」
 掃除機を取ろうとして、腕に痛みを感じる。
 見れば、手首の辺りから血が流れていた。
「あら、コップの破片で切っちゃったのか」
 香香は大丈夫だったろうか、と改めて考え、確かに怪我はしていなかったと頷き自分を納得させる。
 他に怪我はしていないかと調べたら、頬も切ってしまっていた。
「まあ……浅いし、すぐ治るかな」
 血ももう止まっていたし、たいした怪我じゃない。消毒だけして、片付けをした。わずかな破片でも残っていないよう、念入りに掃除機をかけ、雑巾できれいに拭う。
 もう少しで終わるというころに、一人にされて心細いのか、香香が呼ぶ声が聞こえた。
「もうちょっとだからね、ちょっと待ってね」
 もう一度、欠片が落ちていないか確かめて、香香のところへ戻った。

「おかえりなさい、限哥」
 夜、帰って来た限哥をいつものように出迎える。いまは小黒が香香を見てくれていた。
「……それは」
 目を丸くして、私の顔を見て立ち尽くす限哥に、首を傾げる。
「ど、どうかしましたか?」
「傷がついている」
 ひどく痛ましく眉根を寄せ、限哥はそっと頬を撫でる。昼間の傷のことだ、とようやく思い至った。すっかり忘れていた。
「ちょっと掠っただけですよ。すぐ治ります」
「何かあった?」
 笑ってみせるけれど、限哥はちっとも表情を緩めてくれず、心配そうに訊ねてくる。私は昼間のことを話した。
「ごめんなさい、私がちゃんと見ていなかったから」
「いや。香香が無事ならよかった。しかし……」
 限哥はそう言いながらも、まだ険しい顔をしている。怒っているんだろうか、と少し不安になっていたら、そのまま抱きしめられた。
「え、限哥?」
「……無茶をしないでほしい」
「いえ、無茶なんて……ていうか、香香が怪我をするほうがたいへんですし」
「君が怪我をするのも同じくらいたいへんだ」
「かすり傷ですってば」
「……手も怪我している」
「あ」
 顔の前でばたばた手を振ったせいでばれてしまった。こっちは念のため絆創膏を貼っていた。
「全然、痛くないですから」
「一歩間違えれば、大怪我だったかもしれない」
「そう……ですけど」
 大きな破片が香香に刺さっていたらと思うと胸が凍りつく。やっぱり、怪我をしたのが私でよかった。
「これからはもっと、気をつけます」
「私が常にそばにいられたらいいのだが……」
「いえいえ! 大丈夫です! 心配かけてすみません。香香はちゃんと守りますから」
「わかっていないな」
 限哥は言い募る私の言葉を珍しく遮るようにして、怪我をしていない方の私の手をそっと、けれど力を込めて握った。
「君にも、傷ついてほしくないと言っているんだよ」
「それは……難しいかも……」
 今回のようなことがもし万が一またあるとしたら、私は何度でも身を挺する。それはいくら限哥が止めても変わらない。
 限哥は困ったような顔で私を見つめる。変わらないけれど、そんな顔で見つめられたら、私も困ってしまう。
 おおげさだ、過保護だ、とは思うけれど、私も香香に対しては神経質なくらい、心配しているから否定できない。とはいえ、生まれたばかりのか弱い赤ちゃんと、大人である私、どちらを優先するべきかは決まっている。
「……割れ物は、すべて処分しようか」
 限哥は眉間に込めていた力をふと抜いて、提案をしてきた。
「そうですね……香香の食器はもともと割れないものですけど、私たちの分も変えましょうか。少なくとも、あの子が小さいうちは」
 他にも危険なものはたくさんあるだろうけれど、いっぺんには対処できない。少しずつ安全を確保しよう。
「でも、考えるのはあとにしましょう。ご飯できてますよ」
「ああ」
 わざと明るい声を出して、限哥の腕を引っ張る。限哥はようやく笑みを浮かべて、一緒にリビングへ向かった。限哥の姿を見て、小黒も香香も大喜びだった。

|