20.兄妹

 今日は師父が帰ってこないから、小香が夕飯を作ってくれていた。だから、小白と遊ぶ時間を短めにして、早めに帰ってきた。師父の代わりに、ぼくが小香を手伝って、香香の面倒を見るんだ。小白も香香に会いたがっていたけど、今日はお母さんに早く帰ってくるよう言われてるからと残念そうだった。
 他の学校の友達も、たまに香香は元気かと気にかけてくれる。香香はかわいいから、会った人はみんな好きになっちゃうんだ。最近、香香はおしゃべりになって、いろいろと話してくれる。まだちゃんとした単語にはなってないから何を言ってるかはわからないけど、声を出すこと自体が楽しいみたいだった。ああやってたくさん練習して、話せるようになるんだって師父は言ってた。早く話せるようになればいいなと思う。そうしたら、いろんな話をしたい。香香に知っていてほしいことはたくさんある。
「香香、きみのパパとママは、ほんとにいい人たちなんだよ」
 ぼくの言葉はまだほとんどわからないだろうけれど、話しかけると丸い目をしっかりとこちらに向けて、まるで返事をするように何か声を発してくれる。
「ぼくも最近改めて思うんだ。ああいう人って、なかなかいない。特に、師父みたいな人は滅多にいない。きみは素敵な両親の元に生まれて来たんだよ」
 パパ、ママ、くらいはわかるのか、香香は笑顔になる。
「ぼくは妖精だから、親はいない。だから、きみを育てる師父と小香の様子を見て、ようやくわかってきた気がする。動物たちともまた違うんだね」
 動物たちも子育てはする。でも、子供たちが巣立っていくのはずっと早い。人間みたいにじっくり長い時間をかけてはいられないからだ。人間は動物たちと違って、覚えることがいっぱいあるんだということを、学校に通うようになってわかってきた。
「もし、ぼくが二人の子供として生まれて来てたら、どんなだったんだろうな」
 ふと、そんな想像が浮かんだ。香香のように、大事に育てられたんだろうか。久しぶりに、生まれた森を思い出した。精霊に満ちた、豊かな森。他の妖精には出会わなかったけど、たくさん動物たちがいて、寂しいなんて思ったことはなかった。ひとりでいるのが当然だったから。でも、人間に森を破壊されて、出ていかなければならなくなって、人間の街の冷たさを知った。誰もがぼくを疎んだ。ぼくは誰にも見つからないように、ひっそり生きるしかなかった。
 だから、風息たちに出会えて、とても嬉しかった。また霊質に満ちた森に住めるのが幸せだった。すぐに離れることになってしまったけど。あのときはずいぶん師父を恨んだけど、今は出会えたのが師父でよかったと、心から言える。あの道筋を辿ったからこそ、師父はぼくを弟子にしてくれたし、家族になってくれたんだと思う。
 だから、ぼくは歩んできたこの道こそ一番のものだと思う。この道だからこそ、小白とも出会えた。だからぼくは、今とても幸せだ。
「ぼくに妹ができるなんて、あのころは想像もしなかったな」
 人間の赤ちゃんがこんなにかわいいなんてことも知らなかった。ぼくが指を差し出すと、香香は小さな手できゅっと握ってくれる。それでも、生まれたてのときよりずいぶん大きくなった。
 香香はご機嫌に、歌うようにぼくに何かを話しかけてくれる。ぼくはその声の調子から香香の気持ちを感じ取ろうと、耳を傾けた。
「香香、大好きだよ」
 愛おしさが込み上げてきて、香香に頬ずりする。柔らかくて、すべすべで、おもちみたいなほっぺ。小香がたまに、食べちゃいたい、なんて言ってるけど、ちょっとわかる気がする。
「美味しそうだもんなぁ……」
 赤みが差しているほっぺをじっと見る。ちょっとだけ、痛くしないように、と口を開けて、歯が当たらないようにしながらほっぺを口に含んだ。
「……甘い?」
「小黒、香香、ごはんできたよ!」
 名前を呼ばれて、慌てて口を離す。いつの間にキッチンからこっちに来たのか、全然気づかなかった。いつもなら、足音なんかでちゃんとわかるのに。
「あら」
 見られてしまった。小香は目を丸くして、口元に手を当てる。
「ご、ごめんなさい。ただ――」
「写真撮ればよかった!」
「え?」
「小黒、もう一回ちゅーして?」
 小香はポケットから端末を取り出してにこにこしながら近づいてくる。ちゅーと言われて、頬が熱くなった。
「し、してないよ!」
「ふふ。香香のほっぺ、触りたくなるもんね、わかる」
「してないったら! ただぼくはっ」
 と訂正しようとして、齧ろうとしたと言うのはもっと悪いと口を噤まざるをえなくなる。
「ね、かわいかったから、もう一回」
「しないよっ! もうっ!」
 そんなところ、写真に撮られるなんてとんでもない。きっと師父にも見られちゃう。それはだめだ。
「お兄ちゃんは照れ屋だねえ、香香」
 小香は全然話を聞いてくれず、香香のほっぺを指で突く。
「ご飯できたんでしょ? 早く食べよう!」
「あ、そうだった。待たせてごめんね」
「そんなに待ってないよ、大丈夫」
 香香と遊んでたから、空腹は全然気にならなかった。でも、いざご飯だ、と思うと急にお腹が鳴った。
 小香は香香を抱っこして、ぼくを振り返る。
「いつもありがとうね、お兄ちゃん」
「ぼくが香香と遊びたいんだよ」
 師父と約束したのもあるけど、やっぱり、一番はぼくがそうしたいからだ。香香を見ていると、構わずにいられなくなる。なんだか不思議な感覚だ。香香がいると、みんな意識が香香に向く。赤ちゃんには、そういう力があるのかもしれない。守ってあげなきゃいけない、か弱い存在なんだと強く感じる。そして、香香がぼくを見て、笑ってくれたら、それだけで満足だ。
 美香。ぼくのかわいい妹。
 パパとママには及ばないかもしれないけど、ぼくも精一杯、きみのことを大事にするから。

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