17.桜雨

 転送門を通って日本に来た途端、空気が変わった。同じ春の匂いでも、土が違うのか、どこか違う。その空気を、香香も初めて嗅ぐことになった。
「香香、ここが日本――ママの故郷だよ」
 転送門の向こうでは、前の職場の職員が迎えてくれた。
「よく来てくださいました。无限大人、小香」
 そして腕の中の香香と小黒に微笑みかけてくれる。
「あちらでご家族がお待ちですよ」
 案内に従って館を歩く。久しぶりに来たけれど、何も変わっていなくて、懐かしかった。
「小香!」
 妹が真っ先に気づいて、手を振ってくれる。再会を喜んだあと、改めて香香を紹介した。
「だいぶ大きくなったなぁ」
「写真で見るよりかわいい!」
 お父さんが泣きそうな顔で香香の顔を眺め、妹たちはかわいいかわいいと持て囃す。
「小黒、久しぶり」
「うん! 久しぶり」
「学校、頑張ってるんだって?」
 弟は小黒に話しかけていた。いつの間にか仲良くなっていたみたいだ。
 妹に香香を抱っこさせて、お母さんに話しかけた。
「おばあちゃんは?」
「外に出るのはしんどいからって」
「そっか……」
「でも、元気よ。心配しないで」
「うん。お花見のあと、家に寄ってくね」
「そうしてちょうだい。美香の顔を見たら喜ぶわ」
 みんな揃って出掛けられたらと思っていたから残念だった。
 二台の車に乗って、公園に移動する。車内では、香香のことで話が盛り上がった。香香は家族には人見知りせず、たくさん構ってもらえてご機嫌だった。
「美香ちゃん、ほんとにかわいいな」
「一緒に住めたらいいのにね」
 妹たちはそばでその成長が見られないのが残念な様子だった。
「じゃあ、中国に来る?」
 小黒が耳をぴんとして期待を込めた顔をする。妹はちょっと無理かな、と苦笑する。
「そっか。みんなで暮らせたらもっとにぎやかになるのにね」
 小黒は唇を尖らせる。それができれば私も嬉しい。でも、みんなそれぞれに生活がある。車は公園の駐車場に止められた。車を降りて、お父さんの車に乗っていた无限大人と合流する。公園には、たくさんの人が集まっていた。
「わあ、お祭りだね」
 出店も並んでいるので、小黒は目を輝かせた。公園の中は、満開の桜でいっぱいだった。
 屋台で食べ物を買い、開いているところを探してシートを引き、持ってきたお弁当を広げた。
「お母さんの唐揚げ、久しぶりだな」
 子供のころは、よくお弁当を持っていろんなところに出掛けて行った。新しい家族と一緒に、こうして集まれるのが嬉しい。おじいちゃんとおばあちゃんがいないのが、寂しいけれど。
「小香、少し歩かないか」
 たくさん食べて、たくさん笑って、一息ついていると、无限大人に誘われた。小黒は弟とまた屋台を見に行っている。香香はお母さんが見てくれていた。
「行ってきなよ、お姉ちゃん」
「いいなー、ラブラブで」
「もう、やめてよ」
 妹たちにからかわれながら、靴を履いて无限大人についていく。无限大人は私に歩調を合わせて、ゆっくり歩いてくれた。
「木が違うからか、向こうで見たのとどこか違うな」
「そうですね。色が違うのかな……。无限大人に、日本の桜を見てもらえて嬉しいです」
「む」
「あ、……限哥に」
 普段は今まで通り无限大人と呼んでいるけれど、二人きりのときなんかは限哥と呼んで欲しいらしい。呼び直すと、无限大人は満足そうに微笑んだ。
「こんなにたくさん咲いているんだな」
「圧巻でしょう? 桜霞がどこまでも続いていて、夢のようですよね」
「ああ、絶景だ」
 无限大人は目を細めて桜並木を眺めていたけれど、ふとこちらに顔を向けて、じっと私を見つめた。
「花を眺めるのもいいが、花を背にする君の姿を見ていたいな」
「限哥……」
 その眼差しがあまりに優しく、愛情が籠もっていて、頬が熱くなる。
「柔らかな淡桃の花びらが反射する光が君の輪郭を染めていて、美しい」
「それは……限哥の方です……」
 青碧色の瞳に薄紅色が差し込んで、いつもと違う表情を見せている。紺色の髪も花の色を映して、つややかに輝いていた。
「とても綺麗で、見惚れちゃいます」
「ふふ。ではこうして、見つめ合っていようか。しばし、時間を忘れて」
 无限大人は笑みを深くして、言葉の通りじっと見てくる。
 恥ずかしいけれど、私も見つめたい気持ちが勝って、まっすぐにその瞳を見つめ返した。花の香りに包まれて、このまま向こうの世界へ隠れてしまいそうな気持ちになる。
 そのとき、強く風が吹いて、いっせいに花びらが舞った。花吹雪に髪を抑え、目を閉じる。无限大人が手を伸ばしてきて、私の頬に触れると、唇を重ねた。

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