16.小さな変化

「初めまして、小香」
 その人は優雅にお辞儀をして挨拶をしてくれた。
「私は笙鈴といいます。限哥とは長い付き合いなの。結婚式、参加できなくて残念でしたわ」
「小香といいます。お会いできて嬉しいです、笙鈴さん」
 紫の長い髪に簪など刺し、豪華な漢服に身を包んだ女性の妖精だった。无限大人がお客様を連れてくるのは珍しかった。紅榴さんとは全然違う雰囲気の人だ。
「突然ごめんなさいね。久しぶりに限哥と会えて、結婚して子供までいるって言うものだから、すごく驚いたわ」
「すまない、連絡をしたつもりだったんだが」
 无限大人は申し訳なさそうにする。招待客の中にいた人なんだろう。
「招待状、漏れてしまっていましたか? すみません」
 私も謝ると、笙鈴さんはいえいえ、と手を振った。
「私も、一所に留まってないもので、行き違ってしまったんでしょう。だから、ぜひ赤ちゃんを見せてほしいと思って、今日無理を言って連れてきてもらったんですよ」
「無理だなんて。あなたに妻と子を紹介したかったから、来てもらったんだ」
 无限大人は笙鈴さんの言い方を訂正する。笙鈴さんは楽しそうに笑った。
「ふふ。限哥が結婚したいと思うほどの方ですものね。ぜひこの目で見たかったの」
 そう言って、鮮やかな薔薇色の瞳をこちらに向ける。どきりとするほど美しい人だ。无限大人とは、どんなふうに出会ったんだろう。
「限哥とは、どんなふうに出会ったんですの?」
 ちょうど考えていたことと同じことを訊ねられて、気になるところは同じなんだとおかしくなった。无限大人を見ると、話すように促すので、私から答えることにした。
「私は、元々日本という国で生まれ、そこの館で働いていたんです」
 无限大人との出会いを思い出しながら語る。もうあれから、ずいぶん長い時間が経った。
「機会があって、こちらの館に一年だけ移動することになりました。无限大人とは、そのとき出会ったんです」
「館の職員なら、執行人と会うことも多いですものね。なるほど」
 笙鈴さんは納得した様子だった。
「それで、いつ好きになったんですの?」
 遠慮なくわくわくした表情で聞いてくる笙鈴さんに、恥ずかしくなってしまう。本当に初対面だったかなというくらいぐいぐいくる。落ち着いた人かと思っていたけれど、距離の詰め方は紅榴さんと似ているかもしれない。
「それは……その……」
 无限大人も聞いているところで話すのは照れくさい。ちらっと无限大人を見たけれど、无限大人はそんな私の気持ちには気づいていない様子で、話の続きを待っている。
「……初めて、会ったときに……」
 なんとか答えたけれど、声に力が入らなくて、どんどん小さくなってしまった。恥ずかしさに、頬を押さえると、熱くなっていた。
「まあ! 一目惚れということですね!」
 笙鈴さんは目を輝かせて前のめりになる。これ以上突っ込まれると茹だってしまいそうだったので、慌てて立ち上がって、部屋から香香を連れてきた。
「この子が美香です」
「あら、なんてかわいらしいの!」
 笙鈴さんの興味が香香に移ってほっとする。笙鈴さんは手をひらひらさせて、香香の視線を自分に向けようとした。
「こんにちは、美香ちゃん。私は笙鈴よ。あなたのお父様にお世話になったの」
 美香は笙鈴さんから顔を背けて、ぐずぐずとする。
「あら……どうしたのかしら?」
「ええと、お腹はいっぱいだし、おむつも替えたばかりだから、元気なはずなんですけど」
 香香は抱っこしている私の腕に顔を埋めるようにする。まるで笙鈴さんに見られないようにしているみたいだ。
「もしかして、人見知り……?」
 いままでは、まだ人の区別が曖昧だった。最近は、家族以外の人も見分けられるようになってきたところだ。見分けられるということは、知らない人がわかるということだ。
「私が怖いのかしら? ごめんなさいね、不安にさせて」
「いえいえ。このくらいの子は、人見知りすることがあるそうですから、そういうものなんじゃないかと」
 笙鈴さんは気を配って香香に接してくれている。驚かせてしまったわけじゃないだろう。
「これも、香香が成長している証だ」
 无限大人もそんなふうにフォローしてくれる。笙鈴さんには申し訳ないけれど、彼女が悪いわけじゃない。
「そういうものなのね。わかりました。じゃあ、何度か会いに来て、顔を覚えてもらわないといけませんわね」
 笙鈴さんはポジティブにふふふ、と笑った。
「いつでも香香に会いに来てください」
 なので私も、歓迎することを伝える。ありがとう、と言って笙鈴さんは立ち上がった。
「もっとゆっくりしていたいのですけれど、また帰ってすることがありますので、今日はこれで失礼いたしますわ」
「そうか。慌ただしいな」
「今度は時間のあるときにお邪魔いたします」
 笙鈴さんは礼儀正しく退出を述べて、帰って行った。
 
「綺麗な人ですね、笙鈴さん」
「忙しいところを呼びつけて、申し訳なかったな」
 无限大人はすぐに帰ってしまったことを気にしているようだった。
「限哥、て呼ばれてるんですね」
「ん? ああ」
 无限大人は生返事をする。その呼び方がずっと気になっていた。无限大人をそんなふうに呼ぶのは、初めて聞いた。親しげで、なんだか羨ましい。
「私が呼んだら、へんかな……」
 小声でひとりごちる。无限大人は首を傾げて、私の方を向いた。
「何がへんなんだ?」
「いえ、その、やっぱり无限大人は无限大人だし……旦那様、だし……」
「无限と呼んでくれたらいい」
「それは……ちょっと」
 普段呼び捨てにするのは気が引ける。こちらでは、目上の人でも呼び捨てにすることが多いけれど、どうも慣れない。
「でも、限哥ならいいのかな……て」
 迷いながら口にすると、无限大人はぐ、と口を引き結んだ。
「あ、すみません」
 慌てて口を押さえる。やっぱり馴れ馴れしすぎるのかも。
「いや」
 无限大人は眉間に皺を寄せたまま、なんだかじっと私を見つめている。
「もう一度」
「え?」
「もう一度、呼んでみてくれ」
「えっと……」
 強い視線を向けられて、困惑する。本当に呼んでも大丈夫なんだろうか。ドキドキしながら、慣れない音を口にする。
「限哥……?」
 无限大人はぱっと顔を背けた。よく見ると、肩が小刻みに震えている。口元に手を当てて、何ごとかを呟いていた。
「无限大人?」
 心配になって改めて呼びかける。无限大人は肩を大きく動かして深呼吸して、ゆっくりこちらを振り返った。眉が片方歪められ、片方は上がっている。口元は何かを堪えるように力が入っていた。
「小香」
「はい」
「これからは、そう呼んでほしい」
「えっ」
 だめだと言われるものとばかり思っていたから、驚いて声が出てしまった。
「えっと、でも、へんではないですか?」
「うん」
「それに、言い慣れないし……」
「呼ぶうちに慣れるだろう」
「そう呼ばれると、嬉しい、ですか……?」
「うん」
 无限大人は短く、はっきりと頷いた。嬉しいんだ……。
「……笙鈴さんに呼ばれるのも?」
「ん? いや」
 ちょっと気になって確かめて見ると、无限大人はなぜそんなことを聞くのかという表情をした。
「君に呼ばれると、こんなに頬が緩みそうになるとは思わなかった」
 どうやら、にやけてしまうのを我慢するためにおかしな表情になってしまっていたらしかった。それを知って、愛おしさが胸に溢れた。
「ふふ! 呼び方を変えただけなのに。変な限哥」
「……っ、これは、私も慣れるまで時間がかかりそうだ」
「やめておきますか?」
 ついからかいたくなってしまって、いたずらっぽく笑ってみせる。だって、こんな无限大人の様子はなかなか見られない。无限大人が、照れてる。
「いや」
 无限大人は香香を抱っこしている私の腰を抱き寄せて、顔を近付けて、囁いた。
「続けてほしい」
「……っ」
 今度は私が真っ赤になる番だった。
「もう……ずるいです……そういうの……」
「切実なだけだよ」
 无限大人はいくらか余裕を取り戻して、笑みを浮かべる。やっぱり、かなわない。
「わかりました……。善処します……」
「頼むよ」
 无限大人は機嫌よく笑みを深めた。呼び方ひとつ変えるだけで、なんだか大きく変わったように感じる。すぐに慣れるのは難しいけれど、この変化を、受け入れていきたいと思った。

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