9.高い高い

「おお、これか!」
 美香を連れて戻ると、紅榴さんは両腕を上げて、大きな身体を屈めて美香を覗き込んできた。鼻が触れるほど顔を近づけて、寄り目になりながら美香と見つめ合う。
美香は瞬きもせずに紅榴さんを見つめ返した。
「ふんふん」
 そのまま鼻を鳴らし、美香の匂いを嗅ぐ。
「ふん。乳臭いな。あと、なんだか嗅いだことのない匂いだな」
 頭皮や首や足の裏をくんくんと嗅ぎ、紅榴さんはぱっと美香を抱き上げた。
「紅榴!」
 无限大人が慌てて腕を伸ばすけれど、紅榴さんが背を伸ばして、腕を伸ばすと、ほとんど天上に付きそうな高さに美香が持ち上げられた。
「軽い。小さい!」
 紅榴さんは愉快そうに身体を揺らして笑い出した。
「あははは! これが赤ちゃんか。柔いな!」
「だから慎重に触れてくれ」
 无限大人は今にも落とすんじゃないかと心配そうにしているけれど、美香は手足をばたつかせてきゃっきゃと笑った。
「ほう、これが楽しいか。いいぞ! それ!」
「振り回すな」
 左右にぶんぶん振り始めた紅榴さんに、无限大人が右往左往する。肝心の美香はさらに楽しそうな声を上げた。
「壊しはしないさ。无限の大事なものなんだろ」
「壊さなければいいというものではない」
「いい笑顔だ! 怖いもの知らずだな。肝が座ってる!」
「紅榴」
「ふふふ。美香、楽しそうですよ、无限大人」
 あまりに心配な顔をするので、面白くなってしまう。紅榴さんは少し乱暴に見えるけれど、ちゃんと気をつけて抱いてくれているのがわかる。と、紅榴さんはぱっと美香から手を離した。
「美香!」
 ぎょっとしたけれど、紅榴さんはすぐに美香を捕まえる。美香は初めての刺激に初めはぽかんとしていたけれど、少し遅れてきゃあきゃあと喜び始めた。
「気に入ったか! よし」
「やめろ。心臓が縮む」
 さすがに无限大人がストップをかけて、美香は无限大人の腕に戻った。けれど、美香はまだ遊んでほしいようで、无限大人の腕から抜け出そうともがく。それを見て、紅榴さんは機嫌よく笑った。
「うんうん。无限より私がいいんだな!」
「馬鹿な」
「でも无限はイジワルだからなー、楽しいことさせてくれないんだよなー」
「美香を危険な目に合わせるわけにはいかない」
「遊んでるだけじゃんなあ?」
 紅榴さんはにっと美香に笑ってみせる。
「无限大人、大丈夫ですよ」
「しかし……」
 私が声をかけると、无限大人は弱った顔をして、やる気に満ちた紅榴さんをちらりと見た。
「ほら、ほら」
「……危険だと思ったら、すぐに引き離す」
「はいはい。美香、私の手よりちっちゃいなお前」
 无限大人からひょいと美香を取り上げて、紅榴さんはじっくりと美香を眺めた。
「小香が産んだんだっけ?」
「そうですよ」
 以前教えたことを覚えていてくれたみたいだ。
「これが腹の中にいたのか?」
「はい。もうちょっと小さかったですけど」
「へえ。ちっちゃいけど、さすがに丸呑みは無理だな」
 口を大きく開けて美香の頭を飲み込む振りをするので、无限大人が殺気立った。冗談冗談、と紅榴さんは気にせず笑い飛ばす。
「腹を突き破って出てくるのか?」
「そんなエイリアンじゃないんですから……。動物の出産とか、見たことありません?」
 さすがにそのまま説明するのは生々しいので、そう聞いてみるとあー、と何かを思い出すように首を傾ける。
「あんなかんじか。人間も」
「だいたい、まあ、そうです」
「でも、お前はまだ歩けもしないんだな? こんなふにゃふにゃで生きていけるのか?」
 紅榴さんは訝しげに美香の柔らかく脆い身体を見る。
「人間の子は、ひとり立ちするまで何年もかかるんですよ」
「え! 何年も!?」
 紅榴さんは驚く。
「おっそいな! そんなんじゃあ森では生きていけないな! 道理で人間はこんな囲いを作って住むわけだ」
「快適ですよ」
「まあな。便利ではあるよ」
 私は土の上が好きだけどね、と紅榴さんはまた美香の頭を嗅ぎながら独白する。
「霊質が操れないようなひ弱な身体は、こうやって守らないとすぐ死にそうだ」
 悪意なく、純粋に種の違いとして、紅榴さんは口角を上げる。妖精も、生まれたばかりのときはきっと無防備だろうけれど、動物たちのように、自立するのは早いだろう。確かに、人間はどうしてこんなに成長に時間がかかるようになったんだろうか。
「うわ、くさっ!」
 急に紅榴さんは顔をしかめて、腕をぐっと伸ばして美香を遠ざけた。
「なんだこの臭い!」
「おむつを替えるから、下ろしなさい」
 无限大人は紅榴さんから美香を取り返して、部屋に戻る。
「お前も来い」
「ええ、なにすんの?」
 いやがりながらも、紅榴さんは无限大人についていって、おむつを替えるところを見学することになった。
「うわ! 糞か!」
「こうしてきれいに拭いて、おむつを取り替えるんだ」
「うえ、こんなことしてるのか、无限……」
「この子は自分でまだできないから」
「この様子だと、飯も食えなそうだな。何から何まで世話を焼くなんて、いやにならないか?」
「それが楽しいんですよ」
 理解できない、と眉を寄せる紅榴さんに、笑って答える、紅榴さんは腕を組んで美香を見たり、私の顔を見たり、无限大人に助けを求めたりして、やっぱり首を傾げた。
「まあ、ほっとけないのはなんかわかる」
 ぽつりと言った紅榴さんの言葉を、今度は无限大人が信じられない、と眉を顰めた。
「自分本位でかけらも思いやりのないお前が……?」
 无限大人、さすがに言い過ぎだと思う。でも、妖精から見ても、赤ちゃんって守りたくなる存在なんだろうか。
「无限も小香も、なんかまた顔つきが変わったよ。それはこれの影響なんだろうな」
「そんなに変わったかな?」
 館のみんなにも、羅さんにもそんなことを言われた。自分でも、前とは生活が変わったから、何かしら見た目に影響があってもおかしくはないとは思うけれど、パッと見てすぐわかるような変化なんだろうか。
「美香を見つめる君の表情は、慈愛に満ちているよ」
 无限大人の瞳が少し甘くなって、微笑を浮かべてそう教えてくれる。かわいいとか褒められるのとはまた違った恥ずかしさがあって、答えに困った。
「そんなの、无限大人だって……すごく優しい顔で美香を見てます……」
 深い愛に満ちた眼差しに胸がきゅんとして、とても暖かくなる。
「おい、見つめ合うな、除け者みたいだろ」
 紅榴さんに言われてはっとして无限大人から目を逸らす。无限大人は嗜めるように紅榴さんに視線を向けた。
「美香は見せたんだ、もう帰るか」
「あ、そういえば腹が減ったな!」
 相変わらず无限大人の言葉を聞かず、紅榴さんは首をキッチンの方に向ける。料理はもうほとんどできているから、その匂いに気づいたんだろう。
「ふふ。もう少し待ってくださいね。小黒がそろそろ帰って来ますから」
 そうしたら、皆で夕飯にしよう。紅榴さんはお腹を両手で押さえて、不満そうに私を見た。
「まだ待つのか」
「もう少し、お願いします」
「むう……」
 頬を膨らませて、床にどかりとあぐらをかいて座る紅榴さんを、また无限大人は物珍しげに眺めた。
「やはり、小香の言葉なら聞くのか……」
 ただ待たせるのも申し訳ないので、お茶を淹れて、少しのお菓子で我慢してもらうことにした。

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