95.陣痛

「……雪か」
視界の端をちらちらと白いものが舞うのを見て、曇天を見上げる。道理で冷え込むはずだ。吐いた息が白く煙った。昼の時間だが重苦しい灰色の雲に空が覆われていて薄暗い。小香は寒い思いをしていないだろうかと心配になった。今は家にいるから、そんなはずはないのだが。
そのとき、端末が震えて手袋を外し、通話に出る。
『无限大人! 雪ですよ!』
楽しそうに弾んだ声で伝えてくる小香に笑みがこぼれる。彼女も雪を見て、最初に私を思い浮かべてくれたのだろうか。
「ああ、降ってきたな」
『積もるかなぁ』
「この分だと、少し積もるかもしれないな」
『雪だるま作れるかな。あ、でも、小黒が帰ってくるころには止んでるといいけど』
小黒ももう小学校に入って二年目だ。すっかりその生活に馴染んで、人間の友達もたくさんできた。
「ふふ、あの子も君のように、今頃喜んでいるだろう」
『止んだらがっかりしちゃいますね。……っ』
「小香?」
『……いたっ……』
突然声がくぐもって、何か異変が起きたことを知る。
「大丈夫か。病院に……」
『ううっ……きた、かも……っ』
出産予定日はもうすぐだった。医者にはいつ始まってもおかしくないと言われていた。いよいよそのときが来たか、と覚悟する。
『お医者さんに、連絡します……!』
「わかった。一度切るが、すぐ掛け直してくれ」
『……っ、はいっ……!』
彼女の声が聞こえなくなり、不安になる。駅から家までの距離がもどかしい。今日は雪だ。私の姿を隠してくれることを願おう。人目の付かないところから、高く飛び上がり、家へ急いだ。

「小香、様子はどうだ」
玄関を開けてすぐに寝室の小香の元へ向かう。小香はベッドの上でお腹を抑え、痛みに耐えていた。
「すぐに、病院に来るようにって……っ」
「準備しよう」
入院に必要なものはすでに鞄に詰めてある。他に必要なものがないか確認し、すぐに車に乗り込んだ。後部座席に蹲る小香の様子を気にかけながら、赤信号に捕まったことに舌打ちしたくなる。急いでいるからこそ、冷静にならなければ。小香の唸る声がだんだん大きくなっている気がする。痛みが強くなっているのだろうか。
「頑張れ。もうすぐ着くから」
できることならその痛みを肩代わりしてやりたい。今の私にできることは安全運転と、励ますことだけだ。いつもよりやけに病院が遠く感じる。それでもなんとか到着し、小香を支えながら院内へ向かった。
すでに準備は整えられており、医者は小香の状態を確認した。そして、まずは陣痛室に入った。陣痛が始まってすぐに産まれるものではないようだ。まだ痛みに耐えなければならないのかと思うと不憫で、せめて少しでも気が紛れたらと手を握らせる。ぐっと指が肌に食い込み、こんなに力が入るのかと驚いた。
「无限大人……」
陣痛には波があり、少し収まったところで小香は私の名前を呼んだ。
「そばにいてください。ずっと手を握っていて……」
「ああ。もちろん」
額に汗をかき、辛そうな声で言うので、励ますように握る手に力を込める。
「小香、そろそろよ」
馴染みとなったスタッフが、小香を促した。小香は痛みに苛まれながら、ゆっくりと立ち上がる。スタッフと私に支えられて、分娩室へ向かった。分娩台へ横たわる小香の顔色は白いが、揺るがない強さを感じた。彼女はその命を懸けて、新たな命を生み出そうとしている。その表情は尊く、慈しみに満ちていて、美しかった。母の顔だ。私には至れない境地に、彼女は今至ったのだ。畏敬の念にも似た思いを抱き、大仕事に取り掛かる彼女のそばに寄り添う。
母子共に健康であるよう、心から祈った。

|