92.胎動

「こんにちは、深緑さん」
相談に来た深緑さんを出迎えると、彼女の視線は私のお腹に釘付けになっていた。服を着ていても、外からわかるくらい、膨らんできていた。
「それ……大丈夫なの……」
お腹だけ出ている姿が異様に見えるのだろう、顔を顰めて心配そうに聞いてくる。
「大丈夫ですよ。お腹の中で赤ちゃんが大きくなるのに合わせて、お腹が膨らんでるんです」
「そう……本当にいるのね……」
お腹が引っかからないように気をつけながら椅子に座り、相談しに来た内容について話そうとしたけれど、それよりもやっぱりお腹が気になるようだ。
「お腹に誰かがいるって……どんな感じなの……?」
「最近は、動いてるのがなんとなくわかるようになってきたんですよ」
「動くの……!?」
「動きますよ! 検査で、どんな姿をしているのかもわかります。あ、触ってみますか? もしかしたら動くかも」
「えっ、触る……!?」
深緑さんは大きく狼狽えた。こんなに青い顔をしている深緑さんを見るのは初めてだ。
「危なくないの……?」
「大丈夫ですよ。こっちに来て、手を出してください」
どきどきしながらも、深緑さんは椅子から立ち上がり、お腹を覗き込みながら恐る恐る手を伸ばしてくる。私はその手を取って、そっとお腹に触れさせた。服に触れた瞬間、水かきのついた手がびくりと震えて、逃げようとしたけれど、なんとか堪えて、ぺたっとお腹に手のひらを触れさせた。
「っ……!」
「どうですか?」
「鼓動を感じるわ……小さくて、細かい鼓動を……」
「本当ですか!?」
思ったよりも具体的に中の命を感じる深緑さんに驚く。私には鼓動なんて感じられない。やっぱり妖精の感覚は、人間より鋭いんだろうか。
深緑さんの表情が変わっていく。知らないことに抱いていた不安が、実際に触れて解消されていったようだ。
「本当にいるのね……あなたの中に……」
「そうです。きっと赤ちゃんも、深緑さんの手の温かさを感じていますよ」
「そうね……」
深緑さんは小さな命を慈しむように微笑んだ。
「あなたの声が聞こえるたび、何か反応してる……」
「本当ですか? ちゃんと聞こえてるんですね……!」
「ふふ。あなた、あなたはいいところへ来たわね」
深緑さんはお腹をそっと撫でながら、優しく語りかけてくれる。
「この人の元なら大丈夫よ。安心して大きくなりなさい……」
「深緑さん……」
深緑さんは私に微笑みかけると、手を離して椅子に戻った。
改めて用件を伺って、必要なことを説明し、解決する。深緑さんはお礼を言って立ち上がり、私も見送るために立ち上がろうとした。
「う、いたっ……」
けれど、急にお腹に痛みを感じ、卓に手を置いて耐える。
「どうしたの?」
「お腹が……っ、痛くて……」
「いけないわ」
深緑さんが咄嗟に他の職員を呼んでくれて、奥の部屋で安静にするよう言われ長椅子に横になる。しばらくすると痛みは収まったけれど、念の為病院に行くよう言われた。雨桐に付き添ってもらい、館を出て街にあるビルに戻り、そこからタクシーに乗った。
「楊さんが无限大人に連絡してくれてるから。すぐ戻るって」
「任務、大丈夫だったかな……」
「他の人がうまくやってくれるよ。あんたは自分の心配してな」
「うん……」
无限大人を呼び戻してしまったことを申し訳なく思うけれど、何かあったらと思うと不安なことは確かだ。
病院についてすぐに検査をしてもらい、異常がないかを確認してもらう。お医者さんは真剣な表情で検査結果を見て、私に笑顔を向けた。
「大丈夫ですよ。異常なしです」
「よかった……!」
その言葉を聞いて、胸を撫で下ろす。
「赤ちゃんも元気で、出血もなし。でも、もしまた何か少しでも気になることがあったら必ず来てください」
お医者さんに念を押されて、しっかりと頷いた。今はきっと、心配しすぎるということはないだろう。
「无限大人、もうすぐ着くって」
待合室で待っている雨桐のところへ戻り、一緒に无限大人を待つ。
先に大丈夫だったことを伝えようと端末を取り出し、電話を掛けたところで入口が開いて无限大人が駆け込んできた。
「小香!」
「无限大人」
彼は見たことないほど切羽詰まった表情で私を見て、固唾を飲んで私の言葉を待った。私は彼を安心させそうと笑顔を向ける。
「異常なしです。赤ちゃんも元気ですって」
「……っ、そうか」
无限大人の表情からみるみる力が抜け、張り詰めていたものを解くように深く息を吐いた。
「よかった……」
そう言って、弱々しく私の身体を抱きしめる。
「何かあったらどうしようかと」
「心配かけてすみません……。それに、任務中に」
「そんなことはいいんだ」
无限大人は少し顔を離して、改めて私の顔色を伺う。
「大丈夫なんだな?」
「はい。痛みもすぐ治まりましたし」
「そうか……」
无限大人はようやく笑みを見せ、隣にいた雨桐に声を掛けた。
「付き添ってくれてありがとう。助かったよ」
「いいえ! 何もなくてよかったですよ、ほんとに」
はらはらしますよねえ、と雨桐は臆することなく答える。そして、仕事に戻ると言って帰っていった。私は上がっていいと言ってもらったので、无限大人と家に帰ることになった。
「明日は休まないで平気か?」
「お医者さんに、念の為自宅で安静にするように言われました。また痛みがなければ、翌日から仕事していいって」
「そうか。それがいい」
无限大人はほっとしたように言う。
「だが、家にいれば安全かと思ったが、昼間は小黒もいないし、君一人になってしまうな……」
しかしそう気づいて、无限大人はすぐにまた眉間に皺を寄せる。
「明日は私も休もう」
「でも……」
「問題ないよ。私でなければできないなんてことはない。だが、君のそばにいるのは私しかできないことだ。君は何も気に病まず、しっかり休みなさい」
「はい……」
迷惑をかけてしまうことは申し訳ないのに、嬉しいと思ってしまった。もしまた痛みがあったら、と不安になっていた心が解けていく。この子を守るために、しっかりしなきゃ。无限大人は、優しく私の手を握る。そっと指をからめて、しっかりと握り返した。

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