87.免許

5月も後半に入り、だいぶ暖かくなってきた。たまに暑いくらいの日もあるくらいだ。幸い、体調を大きく崩すことはなく、順調に胎内の子は成長している。実感できるくらい大きくなるにはまだかかるけれど。
「あれ、車で誰か来た」
ソファに座っていた小黒がぴくりと耳を動かす。今日は誰かが来る予定はなかった。荷物が届くとも聞いていない。
「誰だろ?」
「あ、師父の足音だ!」
「え?」
小黒はぱっとソファを飛び降りて玄関へ向かった。无限大人も今日は休みだったけれど、用事があるからと一人出掛けていった。もう帰ってきたんだろうか。そろそろお昼だから、何を食べたいか聞いて作るか、でも外に食べに行ってもいいかも、と考えていると、玄関から小黒の大きな声が響いてきた。何かに驚いてるみたいだ。
「どうしたの?」
无限大人も入ってこないから何があったんだろうと玄関を覗きに行く。二人とも玄関には居らず、門の外にいるようだった。サンダルを履いて、二人のところへ行く。
「わー! 赤だ!」
そこには赤い車が一台止まっていて、小黒の声がその向こう側から聞こえた。小黒は車の周りをぐるぐると走り回っている。无限大人はその様子を楽しげに眺め、そのままの笑みで私の方を振り返った。なんだか、どこか誇らしげだ。褒めて欲しい、と言っているような。
「どうしたんですか? この車」
とりあえず、気になったことを訊ねてみる。運転席に人がいるだろうと思ったら、誰も乗っていないから不思議だった。
「私の車だ」
「无限大人の? 買ったんですか?」
「ああ」
「こんな大きな買い物……」
无限大人の稼ぎで買っているのだからそこをとやかく言うつもりはないけれど、どこに止めるんだろう。うちに駐車場はないのに。そもそも。
「どうして買ったんですか?」
「必要だから」
「でも、誰が運転するんです?」
実は私は免許を持っていない。車を買うなんて考えたこともなかった。无限大人は首を傾げる私に、胸を張ってみせた。
「私だ」
「え!?」
ここまで来てようやく、私は思い違いをしていたことに気づく。そもそも、車を見た時点で思い至ってもよさそうなものなのに、どうしてか全くそちらの想像はしていなかった。
「无限大人、免許取ったんですか!?」
「うん」
无限大人はどうだ、というような顔をしていて可愛かった。こんなに誇らしげな无限大人は初めて見るかもしれない。
「ええ! いつの間に!? 全然知りませんでした!」
「取れたら、伝えようと思っていたんだ」
「内緒で頑張ってたんだよ、師父!」
車をまだ眺めながら、小黒は牙を見せて笑ってみせる。
「え、小黒は知ってたの? 内緒なんて」
「すまない、驚かせたかったから」
无限大人は私の戸惑いっぷりに満足そうに笑っている。私だけ知らなかったのは少し寂しかったけれど、无限大人が嬉しそうなのでそれでいいかと思った。
「すごいです。びっくりしました! でも、无限大人なら取れて当然ですね! さすがです!」
「うん」
思い切り褒めちぎると、无限大人は目を閉じて自慢げにする。こんな无限大人なかなか見られないから、張り切って褒めた。
「何かあったとき、タクシーを呼ぶのも時間が掛かるだろう。すぐに動けるようにしなければと思ってね」
心ゆくまで褒められてから、无限大人は真面目な顔に戻り、そう言った。
「それから、家族が増えてもこれなら移動しやすいだろう」
「なるほど……そうですね……! 私、ちっとも考えてなかった。无限大人は、先のことまで考えてくれているんですね」
すっかり感心して、私は何度も頷いた。无限大人は助手席のドアに手をかける。
「乗ってみて」
「はい!」
「待って!」
喜んで乗り込もうとしたら、小黒に強く止められた。
「師父、運転できるようになったばかりだよね」
「そうだ」
「じゃあ、ぼくが最初に乗って、確かめさせて」
「大丈夫だ。免許はある」
「さっき聞こえた車の音、ぎこちなかったんだけど」
「む、まだ、慣れない部分もあるが……」
小黒は一歩も譲らず、強い眼差しで无限大人を見上げる。
「小香に何かあったら大変だから」
「……それは、確かに」
无限大人はしぶしぶ認める。そして申し訳なさそうな顔で私を見た。
「二人を最初に乗せたかったんだが……」
「ふふ、ここは小黒の言うとおりにしましょう」
「安全運転できるということを見てもらうしかないか」
无限大人はしょうがない、と息を吐くと、運転席に向かった。小黒は後ろの席に乗り込む。私は少し離れて、発信を見守った。
窓越しに、无限大人が操作をするのが見える。エンジンが掛かった。无限大人は私を見て笑って、人差し指と中指を立てて振ってみせる。そして、アクセルを踏む。車はちょっと全身したと思ったら突っかかったように止まり、またスピードを出して走って行ってしまった。確かに、ぎこちない。それに、危なっかしいかも……。ちょっとスピード、出過ぎじゃないだろうか。
二人が初ドライブから戻ってくるまで、私は手を揉みながらそわそわ門の前で待っていた。

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