84.懐妊

診察室に呼ばれて、立ち上がって私を振り返って行ってきます、と言った彼女の表情はとても緊張ぎみだった。内科に行くべきかと考えていたが、彼女は産婦人科を選んだので、かねてから探していた評判のいい病院へタクシーに向かってもらった。大事な時期に、何か重篤な病気が発覚したら、と気が気ではなかった。泣いていた彼女の表情が忘れられない。それほど体調を崩していたことに気づけなかったのが悔しかった。いや、昨夜まではいつもと変わらなかったはずだ。生理が少し遅れている、と彼女は言っていた。そのことをもっと問題にするべきだっただろうか。
ただただ、彼女の身体が健康であるよう祈りながら、時が過ぎるのを待つしかなかった。
どれだけの時間が経ったか、待合室の椅子で項垂れている私の前に、彼女が立っていた。診察が終わったのだ。
「无限大人。お待たせしました」
見上げた顔は、幸福に満ちた笑みを湛えていた。
その笑みで、私は何も案じることなどなかったことを悟った。
そうか。
「小香……」
「帰りましょう。小黒が心配してます」
手を軽く引っ張られ、立ち上がる。またタクシーを呼んで、まっすぐ家に帰った。
「小黒、ただいま」
「大丈夫だった!?」
玄関ドアを開けると、もう小黒がいた。タクシーの音を聞いて駆けつけたのだろう。
「うん。おいで」
「? うん」
小黒の手を握って、靴を脱ぐ小香を支え、三人でリビングに入る。小香は向かい側に座り、私も小黒を隣に座らせた。改まった雰囲気に、小黒は不思議そうに目を丸くして、小香を見つめた。
「二人に、ご報告があります」
小香は一拍置いてから、私たちの顔を順番に眺め、自分の腹に手を置いた。
「妊娠、しました」
無意識に詰めていた息を深く吐き出す。胸が震えて、言葉にならなかった。
「妊娠?」
「子供ができたってことだよ」
「子供?」
小黒はよくわからないようで、首を傾げている。私は立ち上がり、小香の身体を抱き締めた。小香も私の身体に腕を回し、しっかりと抱き締め返す。
「ありがとう」
この温かく小さな身体に、私と彼女の血を継いだ子がいると思うと、愛おしさばかりが湧きでて喉が詰まる。
「嬉しいです。すごく嬉しくて……どうしよう……」
小香は喜びで温かな涙を流した。私も目頭が熱くなった。
「子供って、赤ちゃんできるってこと? 赤ちゃん、どこにいるの?」
小黒は感極まっている私たちに戸惑って、リビングをきょろきょろと見渡している。子供については何度か説明したが、やはり実感として理解するのは難しいようだ。小香はそっと私から離れ、自分の腹を示してみせる。
「ここだよ。まだこんなにちっちゃいけど、確かに赤ちゃんがいるの」
「ここ? 小香の中? どうして? 小香、赤ちゃん食べちゃったの……?」
「あはは。違うよ。赤ちゃんはここで育つんだよ」
「お母さんの腹の中が一番安全なんだ」
「そうなの……?」
妖精に親はいない。自然に霊質が集まって、生命を宿す。だから小黒は母親の胎内にいたことがない。動物の出産は見たことがあるだろうが、それを身近な小香に当て嵌めて考えるのが難しいようだ。まだ混乱している。
「小黒。これからは小香と、小香の中の子、二人を守っていく必要がある。私と一緒に、やってくれるか?」
そんな小黒の肩に手を置き、緑の瞳を覗き込む。芽吹いたばかりの、柔らかで若々しい葉の色。それを一つ瞬くと、小黒の表情が変わった。
「――うん。やるよ。ぼく、小香のことも、赤ちゃんのことも、守る」
「ありがとう、小黒」
凛々しく頷いてみせる小黒に、小香は嬉しそうに微笑む。
「私、お母さんになるんですね」
「うん。私は父だ。小黒は、兄だな」
「兄? 阿根みたいに、お兄ちゃんになるの?」
「そうだよ。まだ弟か妹かわからないけど、小黒お兄ちゃん、仲良くしてあげてね」
「わあ……」
赤ちゃん、よりはお兄ちゃん、の方が理解がしやすかったようだ。小黒は大きな瞳を輝かせて、改めて小香のお腹を見た。
「ぼくの弟、か、妹……」
小黒は小香の腹にそっと頬を寄せた。
「早く会いたいね!」
そして、中にいる子に満面の笑みで話しかける。無事に出産できるよう、小香を今まで以上に守らなければ。
「では、明日から仕事は休みに」
「まだ早いですよ!?」
家で安静にしていて欲しいのだが、彼女は働き続ける気のようだった。私の目が届かない場所で何かあったらと思うと心配だ。
「いままでどおり過ごしていいってお医者さんも言ってましたから。カフェインとお酒は控えた方がいいみたいですけど」
「わかった。うちにあるコーヒーと酒は捨てておこう」
「捨てなくていいですよ!?」
无限大人が飲んでください、と小香は笑う。私は真面目に言っているのだが、彼女は楽観的だ。思えば、病院に行く前の緊張は、妊娠しているかどうかの瀬戸際だったからだろう。不安になっているところに、寄り添えなかったことを申し訳なく思う。てっきり、病気なのかと、そちらばかり心配してしまった。小香は一人でその緊張に耐え、結果を知り、あれほど幸福そうな笑みを見せてくれた。私を愛してくれる人。私が愛した人。その想いがこうして結実した。なんて幸せなことだろう。
私はもう一度小香を抱き締める。小香は安心しきって私に身体を委ね、その細い腰に腕を回して、言い尽くせない想いを噛み締めた。

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