50.蟹

「蟹を買ってきたよ」
「蟹、ですか?」
帰ってきた无限大人は、水の入ったビニール袋を見せてきた。水がちゃぷちゃぷ鳴り、袋ががさがさと揺れている。
「活きのいいのが売っていたから、酔蟹を作りたくなって」
「酔蟹?」
「食べたことないか? 美味いよ」
「調べてみます」
さっそくレシピを検索する。どうやらお酒に蟹を漬けた料理らしい。
「1週間も漬けるんですね」
「それが美味くなるんだ」
調味料も買ってきた、と无限大人はテーブルの上に並べてみせる。作る気満々だ。漬けるだけなら、分量さえ間違えなければ无限大人でも大丈夫そう。
「蟹、生きたまま漬けるんですね……」
袋の中で元気に暴れ回っている音を聞いて、ごくりと喉を鳴らす。
「縛って、洗って、漬ける……と」
「私がやるから大丈夫だ」
「はい……」
緊張した私の顔を見て、安心させるように无限大人は言う。そのとき、袋の端が破けて、水が零れた。
「あっ」
破ったのは蟹の鋏だ。1匹がぼてっと床に落ちる。残りの蟹が落ちないように无限大人は穴を塞ぐようにビニール袋を持ち替えた。
「小香、入れ物を」
「はい!」
慌てて大きめのボウルを取り出し、残りの蟹を入れ替える。その間に、逃げた蟹が床を素早く移動して、壁の方まで逃げていた。
「捕まえなきゃ……!」
「任せて」
无限大人は桶を手に取ると、じりじりと壁の蟹へ近づく。蟹は鋏をゆらゆらさせて、近づいてくる无限大人に気づいているのかいないのか、その場にじっとしている。
「気をつけてくださいね」
はらはらしながら、无限大人が蟹に近づいていくのを見守る。蟹はまだ動かない。このままいけば、すぐ捕まえられそう。
「はっ!」
无限大人が目にも止まらない速さで桶を床に叩きつけた。蟹は即座に反応して、さっと左へ避けた。
「…………」
无限大人と蟹はしばし見つめ合う。无限大人はそっと桶を持ち上げて、蟹に向き直った。
「素早いな……」
「頑張ってください……!」
手をぎゅっと握って、无限大人を応援する。无限大人は桶を構え直し、蟹と対峙した。蟹はまた鋏をゆらゆらとさせて、まるで挑発しているみたいだ。お前に俺は捕えられぬ、と。この蟹、侮れない。
无限大人はつ、と右足のつま先を僅かに前に出す。蟹が警戒する前に、一気に距離を詰めて桶を振り被った。今度こそ捕まえたと思ったのに、蟹は信じられない速さで桶をすり抜け、私の方へ走ってくる。
「えっ、ええっ、わわっ」
迫ってくる蟹から逃げようとして、踏み潰してしまいそうになって慌てて、足が絡まった。
「きゃっ!」
そのままバランスを崩して倒れる、と思ったところをがっしりとした腕に受け止められた。
「大丈夫?」
「すみません……」
无限大人は私がちゃんと立ったのを確認すると、蟹の行方を目で追う。蟹は僅かな隙間を見つけて、冷蔵庫の裏へ回り込んでしまった。
「どうしましょう、あんなところに入っちゃって」
「逃がしはしない」
无限大人が手をかざすと、冷蔵庫が数センチ浮き上がり、前へぐんと移動した。冷蔵庫に含まれる金属を操って移動させたんだ。隠れられたと安心していた蟹の姿が丸見えになる。
「これで終わりだ」
フォークがすっと飛び上がり、形を変えて桶を持ち上げ、慌てて逃げようとした蟹の行く手を塞ぎ、立ち往生した蟹の上にぽんっと覆いかぶさった。中で蟹の暴れる音が聞こえるけれど、金属でしっかりと押さえ付けられた桶はびくともしない。
「やった! 捕まえましたね」
「ふ……なかなかのやつだったな」
无限大人は器用に蟹を入れたまま桶をひっくり返し、ボウルの中に投げ込んだ。フォークは元の形に戻り、片付けられる。
それから冷蔵庫が軽々と動き、すっぽりと元の場所に収まった。
「これでよし」
「わあ、掃除する時便利ですね」
「ん?」
冷蔵庫の隙間には何かと物が落ちやすい。これなら簡単に掃除できる、と嬉しくなる私に无限大人は首を傾げた。
蟹たちはもう逃げる機会はなく、无限大人にしっかりと縛り付けられ、ごしごし洗われ、調味料に漬け込まれた。あとは時間を置くだけだ。
「出来上がりが楽しみですね」
調味料は私がレシピ通りに計って漬けたけれど、どんな味になるか想像がつかない。无限大人の様子を見ると、とても美味しそうで期待してしまう。
「ずいぶん威勢のいい蟹だったからな。いい身が詰まっていそうだ」
いい勝負をした蟹に一目置くような口調で言うので、なんだか面白かった。无限大人対、蟹の戦い。いいものを見られたかも。
「楽しそうだね」
「面白かったです。无限大人が真剣で」
最初は桶だけで捕まえるつもりだったのに、予想以上の蟹の動きに、金属を使わざるを得なかった。敵ながらあっぱれだ。
「美味い酔蟹になってもらわないと困るからな」
当然だと済まして言う无限大人がやっぱり面白くて、ふふふと笑ってしまった。
「美味しくなってもらいましょう」
一週間後、蓋を開けるときが待ち遠しかった。

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