1.新たな一年

「无限大人、本当にありがとうございました。お陰で助かりました。またぜひお力添えを。では、失礼いたします」
「ああ。では」
 現地の執行人や職員と別れ、帰路に就く。本来ならこのまま一度帰る予定だったが、連絡が入り、次の場所へ赴くことになった。しかし今夜はもう遅い。一晩は野宿することにした。人気のない森の中で、霊域に入る。ここは夜でも明るい。白い背景の中に浮かぶ生家へ足を運ぶと、小さく息が漏れた。お湯を沸かし、お茶を淹れ、備蓄していた食料を食べる。すぐに食べ終わってしまって、味気なく思いながらしばらくじっと座っていると、端末が震えた。
『无限大人!』
「小香」
 小香からのビデオ通話だ。画面いっぱいに、愛しい人の笑顔が映る。その笑顔につられて、自然と頬が緩んだ。
『師父ー!』
 その下から、弟子がひょこりと顔を出した。
「小黒も。元気か?」
『元気だよ! 今ごはん食べ終わったところ! おそば!』
『年越しそばです。无限大人も、ごはん食べましたか?』
「ああ。今食べたところだよ。だが、一人で食べるのは味気ないな」
 先ほど感じていた物足りなさを正直に吐露する。二人の明るい姿を見て、心が和む。
『明日は初詣っていうのに行って、おせちっていうの食べるんだよ!』
「そうか。それはいいな」
『師父も一緒だったらよかったのにね』
 小黒は耳をへたりと倒し、残念そうな顔をする。小香の正月休みに、二人は小香の実家へ帰省していた。私も一緒にいくつもりだったが、どうしても外せない任務があり、断念した。
『また次回、一緒に過ごしましょうね』
「うん。来年は必ず」
 小香がそう言ってとりなしてくれて、私も強く頷く。
「小黒、小香のこと頼んだよ」
『まかせて!』
「ちゃんと言うことを聞くように。それから、修行も欠かさないように」
『わかってるって!』
 小黒はそれ以上言わなくても、といった様子で言葉を被せてくる。わかっているならいいが、と後ろにいる小香に目を向けた。
「小香、小黒のことを頼む」
『はい。ちゃんと歯磨きもして、お風呂も入りますよ。ね』
『うん!』
「二人が帰国するころには、私も任務を終わらせて帰るから」
『任務頑張ってね、師父!』
『無茶はしないでくださいね。お気をつけて』
「ああ」
 まだ名残惜しいが、そろそろ小黒は寝る時間だ。
「では、おやすみ」
『おやすみなさい!』
『おやすみなさい。良いお年を』
 通話を切り、ふうと満ち足りた息を吐く。二人の笑顔を見るだけで、心が温まる。それにしても、おせちとはどんな料理だろう。食べてみたかった。次こそは、行けるといいが。年越しまで、あと数時間。小黒と出会うまでは、年越しも特に意識せず、いつも通り過ごしていた。今は、二人がどんなふうに過ごしているかを想像しながら、新しい年に向かって時間が過ぎていくのを感じる。二人と同じ場所で新たな年を迎えたかったが、仕方がない。確か、日本では年越し番組を見て新年を迎えていると小香が言っていた。きっと家族で見ているのだろう。小香の家族は暖かい。あんな家庭だからこそ、小香は優しくて素敵な女性に育ったのだということがよくわかる。私のことも受け入れてくれ、心地よく過ごさせてもらった。
 そろそろだろうか、と端末の時刻を見守る。あと数分だ。珍しく、一分一分と表示が切り替わるのを心待ちにしてしまった。あと二分。あと一分。
 時刻が切り替わるのと同時に、小香へ電話を掛けた。一コールしないうちに、繋がる。
「小香、新年好」
『无限大人! 新年好!』
 やはりまだ起きていた。明るい声が耳に飛び込んできて、笑みが深まる。
「一番におめでとうと言いたくて」
『私も掛けようと思ってました』
 耳元でふふふ、と笑うので、少しくすぐったい。小香の声が遠くなり、誰かと話す声が聞こえる。家族と話しているのだろう。
『みんなからも、无限大人におめでとうって、言ってます』
「私からもおめでとうと伝えてくれ」
『はい! 无限大人もおめでとうって!』
 スピーカー越しに、大勢の声が聞こえてくる。日本語でおめでとうと言ってくれているようだ。
「君のお陰で、家族が増えたな」
『あはは、そうですね。賑やかですよ』
「うん。楽しいな。正月は、どんなことをして過ごすんだ?」
『初詣以外だと、親族への挨拶とか、あとは家でゆっくりしますよ』
「そうか。ゆっくり休んでくれ」
『无限大人も、任務が終わったらゆっくり休んでくださいね』
「そうするよ」
 電話越しの声が優しくて、いつまでも聞きながらまどろみたくなる。このまま、いい夢を見られそうだった。
『无限大人。……会いたいです』
「私もだよ」
 少し切なげに、甘えた声で言われて、胸が震える。いますぐ抱きしめられたらどんなにいいだろう。
「好きだよ、小香」
『私もです。大好きです』
 伝える言葉に思いのすべてを込めて、音を紡ぐ。私の気持ちは、いったいどれほど君に伝わっているだろうか。本当にすべてが伝わっているか疑わしくなるほど、思いは大きく、深くなっていくばかりだ。
『それじゃ……明日に響きますから、ちゃんと寝てくださいね』
 しばしの沈黙のあと、小香が気づかわしげに通話が長引かないよいう労わってくれる。もっと話していたいなんて、わがままも言っていられない。
「うん。晩安、小香」
『无限大人、晩安』
 かわいらしい声が心地よく耳を撫でる。このまま目を閉じれば、夢での逢瀬が叶うかもしれない。小香の声が聞こえなくなった端末を懐にしまい、椅子から立ち上がる。霊域の中は静かで、新年を祝う爆竹の音も聞こえなかった。

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