90.瞳に囚われる

「仕事は問題ないか?」
 仕事は一日休んだだけで、しばらく前から復帰していた。
「はい。忙しいのも終わりましたし。いつも通りです」
「そうか」
「しばらく館にいたとき、いろいろな妖精たちと話したので、少し距離が縮まった気がします。前より気軽に話しかけてくれるようになって」
「それはよかった」
「館がどんなところか、少しだけですけどわかって、対応もやりやすくなった部分がありますね。いい経験になりました」
「君は強いな。前向きに捉えられて」
「そんなことないです。怖かったのは怖かったですけど……。でも、何もなかったですから」
「何もない、ことはなかったよ」
 无限大人は眉を寄せ、私の髪を撫でる。私は目を閉じて、首を振った。
「それより、无限大人。ひとつ、お願いしたいことがあるんです」
「うん。なんでも言って」
 そろそろ気分を変えていきたい。そんな思いでそう告げると、无限大人は迷うそぶりも見せずそう言ってくれた。
「私、デートしたいです。无限大人と」
 髪を撫でる手がぴたりと止まり、无限大人は目を丸くして私を見つめた。そんなに驚かれるとは思わなかった。
「だめ、ですか?」
「いや。そうじゃない。ただ……嬉しかったんだ。君から誘ってもらえたのが」
「ふふ。しばらく二人きりででかけてなかったから、たまには、行きたいな……って思って」
「うん。私も行きたい。君とデートに」
 改めてそう言って、手を握られる。まだ何も決まっていないのに、それだけでとても満足感があった。
「どこに行きたい?」
「水族館とか……この辺りにあれば……」
「探してみよう」
 无限大人は片手は私の手を握ったまま、もう片方の手で端末を操作し、検索する。
「上海に大きいのがあるな」
「いいですね」
「世界中の魚がいるそうだ」
「珍しい魚とか見たいですね」
 无限大人が端末を見せてくれるので、画面をのぞき込む。
「アフリカとか、東南アジアゾーンがあるんですね」
「アザラシやペンギンもいるそうだ」
「楽しそう。ここにしましょう」
「では、次の休みに」
 行く場所が決まり、楽しみに胸が弾む。いつまでも暗い気持ちではいたくない。もう、元の生活に戻ったんだ。今まで通り、過ごしていこう。
「また、いろんなところに行きましょう。次は小黒も誘って。大陸は広くて、いくら巡っても見終わりませんね」
「ああ。たくさんいろんなものを見よう。一緒に」
 握り合った手を少し解いて、指を絡め合う。見つめ合う瞳が近くなって、焦点がぼやけてきて目を閉じる。吐息が唇にかかって、暖かな唇がそっと触れた。握っていない方の手が頬に触れ、さらに深く、重ねられる。すぐには離れたくなくて、无限大人の方に身体を寄せる。間にあるテーブルが距離を阻んでもどかしい。暖かい唇に啄まれ、身体がぞくりとする。何度も角度を変えて、深く、浅く、触れて、撫でて、思いを交わす。頬が火照り、息が上がる。何度してもし足りない。もっと触れたいと求めてしまう。无限大人は熱く、優しく思いを伝えてくれる。それを受け止めて、私からも思いを返す。ちゅ、と音を立てて、そっと離れて、目を見合わせ、また触れ合う。飽きることはないんじゃないかというくらい、情熱的で、愛に満ちていて、頭がぼうっとしてくる。このままどこまでも求め続けて、そうしたら――
 何度目かに唇を離して、目が合うと、少し恥ずかしくて笑って誤魔化した。つい、夢中になってしまった。手を繋いでいるのとも、抱きしめてもらっているのとも違う、胸の高鳴り。この器官は言葉でだけでなく行為でも愛を伝えられる優れものだ。无限大人の瞳は熱っぽく、私を映している。その瞳に囚われて、うっとりと、揺蕩った。

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