83.人質

 硬い床の上に敷かれた布の上に横たわっている感覚があり、家のベッドじゃない、と気付いてはっとして目を開けた。周囲には機材や鉄の板などが置かれていて、どこかの工場のようだ。外は明るい。一晩気を失っていたらしい。自分の身体に目を向けて、どこも怪我をしていないことを確認する。縛られていたりもしない。そばに自分のバッグが置かれているのを見付けて、急いで中を確認した。財布などは入っているのに、端末だけがなかった。无限大人に連絡できない。その事実に打ちのめされ、呻いた。
 誘拐。
 その二文字をゆっくりと飲み込んで、青ざめる。最後に見たのは、確かに妖精だった。知らない顔だったから、少なくとも龍遊の館にいる妖精ではないだろう。館に属さず暮らしている妖精だろうか。どうして私が攫われたのか、さっぱり見当がつかない。館に何か要求があって、館の関係者を狙ったのだろうか。私にはなんの権限もないのに。これからどうすればいいのかと不安に襲われる。手足の先が凍るように冷えて、頭が重くなった。工場には誰かの気配がない。もしかして、誰もいないんだろうかと一縷の望みをかけて、鞄の取っ手をぎゅっと握りながら立ち上がる。そっと機材の隙間を抜けて、移動する。工場の中には、もう使われていないだろういろいろなものが雑多に置かれている。それらの物陰に隠れながら、少しずつ移動する。咽喉がからからで、いまにも倒れそうなくらいだった。なんとか気力を振り絞って、先に進む。どうにかして外に出なければ。出口はどこだろう。
 がたん、と音が聞こえて驚愕する。心臓が潰れるかと思った。悲鳴さえ上げられなかった口を押えて、しゃがみ込む。どこかのドアが開けられて、中へ入ってくる足音が響く。一人だ。
「起きたか」
 その音はまっすぐにこちらに向かってきて、物陰に隠れている私を見付けると、冷たい声で訊ねて来た。やっぱり、妖精だ。イグアナに似た赤い鱗の妖精だった。見張りがいなかったのは、そんなことをしなくても居場所がわかるからだったらしい。逃げられない、と知って絶望に唇を噛む。
「今から无限がこちらに来る。それまで大人しくしていろ」
「……っ!? どうして……っ」
 妖精の手の中にあったのは、私の端末だった。その名前が出てくるとは思わず、目を見開く。无限大人が彼らの目的だったのだろうか。
「何を……するつもりですか……っ」
 震えそうな声を励ましながら力を振り絞って問う。妖精は目を細め、怯える私をじっくりと眺める。
「あれほど感情を滲ませるあいつの声は初めて聞いた。お前の存在がどれほどのものか俺は疑っていたが、どうやら想像以上に効果を見込めそうだ」
「効果……?」
「お前に恨みはないが、あいつを従わせるために利用させてもらう」
「……っ、无限大人に、何をするつもりですか!」
 私のせいで无限大人が害されるかもしれないと気付いて息が詰まった。来てはだめ、と伝えなければと思うけれど端末は妖精の手の中だ。どうにかして取り戻さなければ、と駆け出して手を伸ばす。妖精は端末を持っていない方の手で私の腕を捕まえ、捻り、床に押さえつけられてしまった。
「人間とはこうも弱い。これほど弱い存在だというのに……。忌々しい」
 妖精は苦々しく吐き捨てる。捻られた腕の痛みに呻くことしかできない。腕を解放されたけれど、すぐに動くことができなかった。
「痛い思いをしたくなければじっとしていろ。お前には何もできない」
「……っ」
 妖精は私に背を向けて、外へ行ってしまった。あの妖精の思い通りにしてはいけないのに、无限大人にすぐにでも助けてほしいと願ってしまう。私には何もできない。ここから逃げ出すことも、妖精を止めることも、端末を取り戻すことすらも。
 泣いてもどうにもならない。けれど、溢れるものを止めることができない。痛む腕を抱えて、その場にへたり込み、嗚咽した。
「无限大人……っ」
 怖くて怖くて、どうしようもない。恐怖に押しつぶされないように、必死にその名前を繰り返し続けた。

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