62.抜けない棘

 その日訪れた人は、見覚えのある人だった。
「こんにちは。どのようなご用件ですか?」
 けれど笑顔を作り、声を掛ける。彼は私の顔を見ると、途端に眉を顰めた。
「またあんたか。悪いが、他の人を呼んでくれ」
「すみません、あいにく今手が空いているのが私だけで」
「あんたに頼むことは何もない。他のものが出てくるまでここで待たせてもらう」
「よろしければ、ご用件だけでも伺いますが」
「くどいな。あんたには私の苦労など何もわからん」
 きっぱりと言われてしまって、言葉を飲み込む。彼に刻まれた傷は、それほど深いということだろうか。
「无限も、いい年して恋にうつつを抜かすなど、私ら妖精を苦しめておいて呑気なものだ」
「それは、言いすぎです」
 无限大人のことを貶されて、つい反論してしまった。
「あの人はいつも、妖精のことを考えています」
「それで力に任せて頭を押さえつけいうなりにさせるんだろう。よく考えてもらっているよ」
「そんな……。確かに、手段は少々荒いかもしれませんが、あの人は自分にできること、やるべきことを行っているだけです」
「あいつが私に何をしたか知っているのか?」
「……いえ。教えてくださいますか」
 胃が重くなるのを感じながら、訊ね返す。心臓がいやな音を立てる。これ以上、会話を続けない方がいい。きっと、お互いにとってよくない。そう思うけれど、でも、无限大人を悪く言われたまま引き下がることはできなかった。
「私は居場所を守ろうとしていただけだ。それを館が勝手に、その場所は私のもんじゃないと言い張って、追い出したんだ。妖精の保護だと? こんなところ、牢獄みたいなものだ。ここに自由はない」
「そうだったんですね。あなたのような妖精がここにたくさんいることは、知っています」
「知っている? 他人事だな。妖精がなぜそうなったのかわかっているのか」
「……人間が、住む場所を奪ったから……ですね」
 ち、と彼は舌打ちをする。とてもさげすんだ目。人間すべてを忌み嫌う瞳だ。
「ふん。近々ここを出る。同士がすでに妖精たちの居場所として館から独立したからな。その場所を見付けたのはあんただそうだが、恩義なぞ感じんぞ。奪われたものを取り返すことすらできていないんだからな」
 そのとき、部屋の奥から同僚が現れて、私に目で合図して、彼に一礼した。
「永源さん。お待たせして申し訳ありません。こちらでお話を伺います」
「ああ、やっときたか」
 永源さんは立ち上がり、私を睨みつけたあと、同僚のあとに従って別室に移動した。彼の姿が見えなくなってから、肩の力を抜き、ふうと息を吐く。何も言い返せなかった。人間を恨むのはいい。私のことも、恨んでくれていい。でも、无限大人のことだけは、理解してほしかった。それを、うまく伝えることができなかった。永源さんにとっては、无限大人は居場所を奪った憎い人間だ。无限大人も、恨まれるのを承知のうえで力を行使している。でも、だからといって、恨まれっぱなしなんて、悲しい。无限大人がどんな気持ちで妖精のため働いているか。それを伝えられないのが、悔しい。
 わかってもらいたいというのは身勝手だろうか。対話が衝突しか産まないのなら、初めから向かい合わない方がいいのだろうか。
『相手の気持ちをしっかりと受け止めて、応えようとするところ』
 以前、无限大人が言ってくれた言葉が蘇る。全然、受け止められていない。応えることがとても難しい。永源さんのために、私がしてあげられることはない。せめて、館から出た後、妖精らしく過ごせるように、祈ることしかできない。
 永源さんの憤りは、人間と妖精の関係が変わらない限り、解消されることはないだろう。少しでも、妖精が住みやすい世界を作るために、ひとつひとつ、自分にできることをするしかない。
 抜けない棘を胸に刺したまま、私は仕事に戻った。

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