58.素敵な一日

 タクシーが辿り着いた先は立派なコンサートホールだった。下りるとき、无限大人が手を差し伸べてくれて、捕まってやっと立つ。すぐ隣に立つ无限大人が本当に私の知っている无限大人か信じがたくて、心臓がばくばく鳴りっぱなしだ。
「今回のコンサートは記念に行うものだから、普段よりも豪華だそうだよ」
「そうなんですね……」
 正装コンサートというだけあって、周囲にいる人はみな綺麗にドレスアップしていて、なんだか別世界に迷い込んだみたいだ。自分はここにいてもいいものか、不安になる。无限大人は、姿勢がいいから余計にスタイルのよさが目立って、この場にいる誰よりも美しい、と思うのはひいき目が入っているだろうか。立ち居振る舞いも落ち着いていて、この場に馴染んでいる。たまにその仕草から感じていたけれど、やっぱり、品がいい。所作が洗練されている。それが今特に際立っている。自分でも見すぎだとわかっているけれど、どうしても視線が逸らせない。无限大人も気付いていて、たまに目線を合わせては微笑みを浮かべる。ああ、この人はなんて素敵な人だろう。
「そろそろ中へ入ろうか」
「はい」
 无限大人が肘を軽く曲げるので、おずおずとそこに手を置く。エスコートがとても自然で、私は雲の上でも歩いているかのようにふわふわしたまま席に着いた。
 演奏はとても素晴らしかった。なんだか胸が熱くなって、涙ぐんでしまうくらいだった。けれど、それ以上に隣に座る人のことばかり考えてしまって、集中して聞けていたかというと怪しい。
「いい演奏だったな」
「はい。ちょっと泣いちゃいまいした」
「このあとは、近くのレストランを予約しているんだ」
「えっ」
「たまにはこういうのもいいだろう」
「は、はい……」
 まさかの展開が続いてまだ心が現実に帰ってこられない。なんて長い夢だろう。レストランはずいぶん洒落ていて、少し緊張してしまった。无限大人はやっぱり落ち着いた様子で、注文をしてくれる。
 前菜、スープ、メイン料理、口直し、とあまり口にしたことのないような味の料理が次々と運ばれてくる。こういう場でどんな会話をしたらいいのかわからなくて、ウエイターさんが説明してくれる料理の食材について感心しながら聞いていた。
「お肉、とても柔らかいですね」
「うん。うまいな。少し少ないが……」
「ふふ」
 无限大人が物足りなそうな顔をするので笑ってしまう。こんなところにいても、やっぱり无限大人は无限大人だ。そう気付くと、少し肩に入っていた力が抜けた。
 デザートを食べ終え、レストランを出て、近くの小道を歩いた。おしゃれにライトアップされている中を、ゆっくりと歩く。
「ちょっと緊張しましたけど、すごくいい経験ができました。楽しかったです」
「よかった。いつもと違う君が見られてよかったよ」
「違うのは无限大人ですよ! そんな素敵な正装着てくるとは思わなかった……」
「私はたいして変わらないだろう。君はすごく綺麗だよ」
 そんなことを真面目に言われるので、反論したいけれど諦めた。
「そうだ! 写真撮らせてください」
 はっとして端末を取り出す。この姿を永遠に保存しなければ。
「じゃあ、二人で撮ろう」
 无限大人の袖からひらりと金属の板が飛び出して、私の端末を掴むとふわりと浮いた。无限大人が金属を操るのをちゃんと見るのは初めてで、でも夢の中にいるような気分なのであまり驚かなかった。
「こちらにおいで」
 无限大人が自分の横を示す。私が近づくと、ぐっと腰を掴んで引き寄せた。
「ありがとうございました。今日は、とても素敵な一日でした……」
「気に入ってくれた?」
「どきどきしすぎて心臓が破れちゃうかと思いました!」
 ふふ、と笑う无限大人の顔はどこか自慢げだ。いろんな人に相談して、ロマンチックなデートを計画してくれたんだ。嬉しすぎて、幸せで、どうにかなってしまいそう。
「大人、いつもかっこいいのに、こんなにかっこよくなっちゃったら……私もうどうしたらいいか……」
「この恰好をそんなに気に入ってくれたなら、まあ、いいが……」
 そこまで? というように无限大人は首を傾げる。ちょっと慣れてきたけど、やっぱりかっこよくて美しい。
 溢れる思いで无限大人の傍に駆け寄って、踵を上げて、頬にそっと唇で触れた。
「ふふ。大好きです!」
「……小香」
 そのまま逃げようとしたけれど捕まってしまって、お返しに唇を塞がれた。
「こ、ここ、外なのに……」
「誰もいないよ。それに、君からしたろう」
「そ、そうですけどっ」
 无限大人の笑い声が夜空に溶ける。
「いつもの、穏やかな時間もとっても幸せですけど……。たまには、こういうのも楽しいですね」
「また誘うよ」
「たまにでいいですよ、たまにで。心臓がもたないので」
「たくさんどきどきしてほしい」
「してます……いつも……」
 話しながら、また顔が近づく。少し触れて、名残惜しく離れた。
 手を繋いで、歩き出す。小黒が待っている。ドレスを脱いだら夢から覚めるだろう。そして穏やかで幸せな現実に帰っていく。
 今夜の夜空を、目に焼き付けて。

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