74.瞳に魅入る

「そういえば、深緑さん、どうするか決まったんですよ」
「いい場所が見つかったのか?」
 お茶を置きながら、无限大人が訊ねるので、首を振った。
「いえ。新しい湖へお引っ越しは、なしになりました。やっぱり、知らない場所に行くのは不安が強いみたいです。なので、このまま館に残るそうです」
「そうか」
 无限大人は目を細めて、喜んでくれた。
「最初は、館のことも信用されてなかったから、居心地はよくなかったみたいなんですけど、お茶に誘われたり、いろいろ話すうちに、打ち解けて、このままいてもいいって思ってくれるようになったそうなんです。いい場所をご案内できなかったのは残念ですけど、深緑さんも居場所を見つけられたから、よかったのかなって」
「うん。いいことだと思う」
「ありがとうございます」
 少し気恥ずかしくなりながら、深緑さんの言葉を思い返す。
「私が深緑さんの要求を受け止めて、探し続けていたから、深緑さんも館にいてもいいと思ってくれたみたいなんです。私は結局、お役には立てなかったですけど、まったくというわけではなかったのかなって」
「もちろん、そうだろう。館を信頼してくれたのは、君の存在が大きいよ」
「えへへ……そうなら嬉しいです」
 无限大人がそう断言してくれると、心が温かくなり、自信が湧いてくる。
「こちらに来た意味を、結果を残せたかなって、思えました」
「うん。充分に仕事をしてくれたよ」
 无限大人に褒められて、照れてしまった。
「来る前は、一年って長いと思っていましたけど、こうしてみると、あっという間ですね。もうすぐ終わりなんて」
「そうだな……」
「无限大人にとっては、もっと早いでしょうね」
「君に比べれば。しかし、いい時間を過ごせているよ」
 過去形ではなく、現在形で言ってくれるのが嬉しい。まだ、終わりじゃない。もう少しだけ、こうしていられる。
 食事を済ませ、店を出る。そして、いつものようにアパートまで送ってもらうことになった。道すがら、会話は少なかった。お店で話したからということもあるけど、なんだか話すよりも、並んで歩くこの時間を味わっていたかった。小黒がいないと、本当に静かだ。无限大人も、沈黙を心地よく思ってくれているだろうか。
 お別れの時間はすぐに来て、もうアパートの前に着いてしまった。
「今日も、ありがとうございました。急なお誘いだったのに……」
「嬉しかったよ。また、誘ってほしい」
 その言葉に舞い上がってしまう。勇気を出して誘ってよかった。
「でも、また君のカレーを食べたくなってしまったな」
「あはは。また、小黒と一緒に来てください」
「そうしよう」
 言葉ひとつひとつが嬉しくて、心臓が鳴りやまない。まだ、離れてしまうのが惜しい。もう少しだけ、何か足を止めてもらえる会話はないだろうか。そう思いながら、視線を泳がせる。无限大人は、静かに私を見つめていた。まだ、帰らずにいてくれている。
「その、海、楽しかったですね」
「うん」
「また、どこか、行きたいですね」
「今度は、二人でどこか行こうか」
「あっ……はい……」
 小黒も、と言う前に、そう切り出されて、どきりとする。
「私も探しておくが、君も行きたい場所があれば考えておいてくれ」
「はい……考えます……」
 二人きりという言葉が脳内でぐるぐるする。わざわざ、二人でと言ってくれるなんて、どうして、と考えてしまう。まだ、无限大人は帰ろうとしない。私も、アパートの方へ向かえずにいる。向かい合ったまま、沈黙が続く。
 もう少しだけ。もう少しだけ……。視線を无限大人の方へ向けると、見つめ返してくれた。目を逸らせなくて、そのまま、翡翠の瞳に魅入る。
「小香」
「……はい」
「……そろそろ、行くよ」
「はい……。お気をつけて」
 そう言いつつ、无限大人は動かない。私が家に入るのを待っている。私は名残を惜しみながら階段を上がり、アパートの前を見る。无限大人は、まだそこに立って、見守ってくれていた。

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