72.夕焼けに飲み込んだ言葉

 存分に泳いで、遊んで、日が陰ってきた。青い空に赤が混じり、風が涼しくなってくる。海からあがり、二人は水着から着替えて、海に伸びた堤防の上をゆっくり歩いていた。小黒はどんどん先に行き、カニかなにかを見付けてしゃがんでいる。
「久しぶりにこんなに遊んだな」
「小黒、まだまだ元気ですね」
 濡れたワンピースはもう乾いている。塩がふいて、少しべたつくような気がした。
「きれいな砂浜ですね」
 夕日が海の色を赤く染める。波は穏やかで、静かに打ち寄せている。そんな景色を見て感じた心の動きを、月並みな表現でしか口にできない。でも、こういうときはシンプルなのがいいんだと思う。
「泳ぐにもいい海だったよ」
「そうですね」
「だから、次は泳いでみたくないか?」
「うーん……私はいいです」
 どうしてそんなに泳がせようとするんだろう。まあ、海水浴といえば泳ぐわけだからそうなんだろうけれど……。次、という言葉が自然と出てくることに胸が温かくなった。来年は、私はもういないけれど、未来のことを考えてくれているんだと思うと、嬉しくなった。
「こちらに来て、こんなにいろんな場所に来ることができたのは、无限大人のおかげです。たくさん思い出ができました」
 赤い色のせいだろうか、感傷的な気分になる。さっきまで、あんなに楽しかったのに。夕暮れがお別れを想起させる。
「ありがとうございます」
「……初めは、せっかく来たのだから、勉強がてらいろんなところを見てほしいと思ったから、誘ったんだ」
 无限大人は、胸の内を話してくれた。
「小黒とも知り合ってくれれば、あの子の見識を広げるのにいいだろうと思った。なかなか外国人と触れ合う機会もないからね。それが、いつの間にか私も小黒も、君と一緒にどこへ行くか考えるのが楽しみになっていたよ」
「无限大人……」
 そんな風に優しい声音で言われると、泣きそうになってしまう。
「こちらこそ、ありがとう」
「いえ、そんな……」
 鼻をすんと鳴らして、涙をのみ込む。堤防の先端に辿り着き、並んで夕日が沈んでいくのを眺める。この日が沈んだら、今日が終わる。
 もし今、伝えたら。
 彼はどう、応えてくれるだろうか。
 无限大人の髪が風に揺れている。赤い日に照らされて、深い色に染まっている。横顔が、こちらを向く。目が合った。翡翠のような瞳に赤が映りこんでいる。私はその目を見つめ返す。
 呼吸も止まりそうだった。
 彼がゆっくりと瞬きをし、微笑む。
「そろそろ、帰ろうか」
「……はい」
 小黒が駆け寄ってきて、无限大人と手を繋ぐ。そして反対側の手を私の方へ差し出した。私はその手を握る。三人で並んで歩き、海を後にした。
 まだ、そんなに急がなくてもいい。まだ、時間はある。残りの時間を大切にしたいから、焦ってはいけない。きっとまだ、チャンスはあるはず。无限大人も、小黒も、まだ私と会いたいと願ってくれるなら。
 帰りのフェリーで、小黒はぐっすり眠ってしまった。甲板に出て、月の浮かぶ海を見る。无限大人は、小黒の傍にいる。一緒にこの景色を見たかったな、と少し思う。夜の海は、昼間とはすっかり変わって、深い藍色をしている。无限大人の髪の色を思わせる色合い。
 故郷へ帰って、夜の海を見たら、无限大人のことを思い出すだろうか。そのとき私は、どんなことを想うのだろう。後悔だろうか、懐かしさだろうか。それを決めるのは、今の私の行動だ。何度向かい合ってみても、答えはひとつだった。問題は、いつかということだけ。いつ、打ち明けよう。いつか、打ち明けられるだろうか。
 静かな月の光に、心を映して、物思いにふけった。

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