69.海へ

 潮風にワンピースの裾が広がる。柵に寄りかかって海を眺める小黒の隣に立って、柵に手をついた。
「海だね!」
「海だね〜」
 フェリーに乗って50分。東にある舟山諸島のうち舟山島に向かっている。風が強くて、髪がばさばさになるので手で押さえながら、遠くなる大陸の稜線を眺めた。
「師父とね、海を筏で越えたことがあるんだよ」
 波がフェリーにぶつかって泡立つのを見下ろしながら、小黒が語り始める。
「風息に、人間のいない島に連れて行ってもらったんだ。本当は、そこで暮らすつもりだったんだけど、そこに風息を追いかけて師父が来たの」
「そうだったんだ」
 小黒の口調は淡々としている。風息のことを思い出す胸中は、どんなものだろうかと想像してみる。
「最初はね、師父は悪い人だと思った。風息を捕まえようとするし、木を切っちゃうし……。だから、筏で島を脱出するとき、一緒に筏に乗るの、すっごくやだった」
「そんな」
 小黒が无限大人のことを嫌っていたことがあるなんて、信じられない。それに、彼が悪い人だなんてありえない、とつい思ってしまう。でも、そのときの小黒にとっては、きっとそうだったんだ。
「でもね、一緒にいるうちに、師父、金属の操り方教えてくれたし、笛を吹いてくれたし、ご飯をくれたし……。悪い人じゃないのかもって思うようになったんだ」
「そっか」
 小黒の声音が柔らかくなって、ほっとする。
「でも、お金持ってなくて、ぼくみたいに食い逃げしたりして、面白かった」
 くすくすと肩を揺らして小黒は笑う。この子には、无限大人とのいい思い出があるんだ。
「師父が焼く魚も鳥も美味しくなくって、あのときはお腹減ってたいへんだったよ。鳩老に会えて、お金もらえてよかった」
「そうなんだね」
 小黒のような小さな子がひもじい思いをしていたと思うと、それだけで切ない気持ちに胸が痛む。今は、お金があるからちゃんと食べさせてもらってるだろう。
「へへへ。師父と一緒にいたいってあのとき言ってよかった」
「そっか……」
 小黒は、言えたんだ。无限大人と一緒にいたいと。私は、言えるだろうか。受け止めてもらえる自信がない。それでも、断られたとしても、気持ちを伝えるだけでも。
「小香は、どうするの?」
「私は……」
 純粋な瞳を向けられて、言葉に詰まる。小黒だって、不安があっただろう。无限大人が頷いてくれるかどうか。それでも、子供らしいまっすぐさで伝えて、受け止めてもらえた。それがとても羨ましい。
「まだ、迷ってるよ」
 なので、正直に答えた。伝えたい、という気持ちが強くなっているのは本当だ。傍から見れば、私は无限大人のとても近い場所にいられているとも思う。でも、无限大人の心はわからない。聞いてみなくちゃ……わからない。聞くのが怖い。聞いてしまう前に、もう少しだけ、こうしてただ楽しく過ごしていたい。それは逃げだろうか。自分の気持ちを覆い隠して、笑顔を作って、楽しさだけを享受して。何も考えていないときは自然と笑えるのに、意識してしまうとすぐに身体が緊張して、うまく表情を作れなくなってしまう。
「師父は優しいから、大丈夫だよ」
 小黒は彼なりに励ましてくれた。
「そうだね」
 私は微笑み返して、海鳥を目で追いかけた。
「そういうところを、好きになったから……」
 まだもう少しだけ、この関係を楽しみたい。恋とか愛とか考えず、友達として、楽しい時間を過ごせる今の状況を、保っていたい。

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